リウマチと享楽

先週の月曜日、授業が始まったしょっぱななのにいきなり熱が出てしまい、節々が痛くてしかたがない。これは風邪を引いたかと思ったが、熱は下がったのに膝がいつまでも痛く腫れてきた。
近所のかかりつけの内科に行ったら、「風邪じゃないです。リウマチか膠原病じゃないかな」と言われた。ええ〜リウマチ? 膠原病って何? ということで早速ネットで調べてみると、ほうほう‥‥確かにその初期症状に一致する。
次いで、朝起きた時、手の指が強ばって上手く動かないようになった。特に中指が痛くて曲げられない。これは一時間くらいで直るのだが、手首に時々痛みが走るようになった。
膝から足首にかけては熱をもってパンパンに腫れてしまい、まるでキューピーの脚(と言えば可愛いが)である。歩行は高齢のおばあさんのようにのろのろと、階段の昇降も大変な状態。一旦しゃがんだら歯を食いしばらないと立てない。医者にもらった鎮痛剤もあんまり効かない。やれやれ、なんてことだ。


で、内科では治療できないので市民病院の整形外科の先生宛に紹介状を書いてもらい、やっと昨日行ってきた。まだ検査結果待ちだが、やはりリウマチの可能性が高いということだった。
リウマチも膠原病も、特効薬がないので症状を押さえるしかない病気である。リウマチなんておばあさんの病気だと思っていたが、働き盛りの30代、40代に多いらしい。私は50だから罹ってもおかしくない。まあ気長に病気とつきあいながら治療していかないといけなさそうです。


こんな時は仕事を休んで家でのんびりしていたいけれども、そういうわけにもいかない。大学のほうはエレベーターがあるし、講義中はそう歩き回らないので、まだ誰にもバレていない(と思う。ここに書いてしまったが)。
デザイン専門学校は4階建ての古いアトリエ棟にエレベーターがないため、手すりにつかまって一段一段昇降しないとならない(2階で良かった!)ので、一緒に組んでいるアシスタントの先生に事情を話した。足をかばって歩いているのでやはり病人に見えるらしく、早速目ざとい職員の人にもどうしたのかと訊かれた。それで、ピーク時に比べたら症状は軽減してだいぶん楽になってはきたのだが、学校に行くたびに、職員の人や先生が入れ替わり立ち替わり「大丈夫ですか」「お大事に」と声をかけてくれるようになった。


最初は「ご心配かけてすみません」と恐縮していた私だが、これ、妙に嬉しいというか気持ち良くなってくるものなんですね。人に心配される。優しい言葉をかけてもらう。仕事の場でそういうのは心苦しい、かえってプレッシャーだと思い込んでいたけれども、いざ病んで辛い思いをしてみると、やっぱり有り難いものです。他人の気遣いは。
子供の頃、熱を出して学校を休んで寝ていると、母がものすごく優しかったり、妹がいつになく神妙な顔で心配してくれたり、友達が見舞いに来てくれたりするのに、くすぐったいような喜びを感じたことがあった。こんなに皆優しいんなら、病気もたまにはいいなぁと思ったものだ。もうそんなにしんどくはないけど、あと少しの間は病気のふりをして大事にされようかな。そんなことを思い出した。
最初は「おまえ、酒飲み過ぎで痛風になったんじゃね?」と軽口を叩いていた夫も、「まあ無理するな。座ってろ」と気を遣っている。実際まだ、お米研いだり重いフライパンや鍋は持てないので仕方ないけど、これはいいわ。なんか役得な気がするわ。


四六時中、苦痛に見舞われて動けないような病人だったら、「これはいいわ」などとは言っていられないだろう。私程度の「軽い病人」状態だって、普通は早く元に戻りたいと思うはずだ。でもこの10日ほど、人の心配や配慮は私にとってまるで甘い蜜のようであった。これに慣れてしまってはいかんと思いつつ、当初の意に反して「病人なの。優しくしてね」という心情がムクムクと頭をもたげてくる。歩きにくいのも痛みがあるのも、優しくしてもらうことの代償ならいいとさえ思えてくる。
それだけなら、表面的には強気だが実は甘えん坊の人にわりとありがちなことかもしれないが、私は自分の身体症状とそこから派生する「病気の自分」を、密かに楽しむようになってきてもいるようだ。もっと言うと、「お気の毒な大野さん」という他者の視線(欲望)を、自分の欲望に転換している。
一方で早く良くなりたい、さっさと歩いたり階段を駆け上ったりできる何の痛みもない生活を取り戻したいと思っているにも関わらず、もう一方では「病んでいること」それ自体を楽しむこの自己矛盾。症状依存の状態だ。


なんてことを思ったのも、昨日これを読んだからです。精神分析医のもとを訪れる人(分析主体)は、実は治療を望んではいない、自己の症状を享楽しているのだという話。
この「症候会議」というブログでは最近、『ラカン精神分析入門 理論と技法』(ブルース・フィンク著)を恋愛に援用してみようという大胆な試みがされている。実は私も今この本を読んでいる最中で、この記事で引用された箇所↓はリウマチ(たぶん)になる前に既読で、ここで改めて見るまで忘れていた。

患者とは自分の症状を享楽するものなのだ。いや、それどころか、一般的に言って、症状こそが、享楽を得るための手段として患者が知っている唯一のものなのだ。とすれば、自分の人生におけるかけがえのない満足をわざわざ手放そうなどという人はいるはずがない。(4p)


もちろん、これは精神分析に限った話であって、リウマチなどの身体疾患の患者に当てはめることはできない。それでも、今の私には少々グサッときた。私は痛みを楽しんでいるのではないか。本気で良くなりたいと思ってないのではないか(本当に長年リウマチで苦しんでいる人には心外かと思います。どうか御容赦を)。
思えば足首が信じられないくらい腫れて、「見てこれ!すごいことになっちゃった」と夫に見せた時、僅かに自慢するような気持ちがなかったか。腫れが引いてきた時、ほっとしながらも僅かに残念に思わなかったか。細い足首なんか自慢にはならない、腫れた象みたいな足首こそ人目を引きつけられるのだ‥‥。倒錯している。


リウマチは圧倒的に女性が罹り易く、ストレスなどで悪化することが多いと言う。症状を押さえるには、楽天的な気持ちで毎日リラックスして過ごすことが大事らしい。まさに「病は気から」を体現するような病気だ。病因ははっきり究明されていないようだが、ある意味、精神的なものも症状に関与する病気と言える。言わば体のヒステリー。
完治しないままずるずると病気と共存し(まあリウマチは基本的にそういうものらしいが)、自己の症状を享楽する、そんな精神状態に私はなってきてないかしらん‥‥と思う今日この頃。
ラカン精神分析の中で、「享楽」は重要な概念である。そして、「他者の欲望」を原動力とし、苦痛を快楽として倒錯的に享楽する者は、「女」なのだ。