非ヤンキーはヤンキーを語る

斎藤環先生の「ヤンキー文化」ツィート - Togetter


『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』(角川書店、2012)で、ヤンキー文化論(という名の日本人論)の最前線に躍り出た感のある斎藤環。以下は、特に印象に残った斎藤先生のtweet


●地方の学校社会では、ぼーっと生きているといつの間にかヤンキー文化に染まってしまう。もしそれを避けたければ「趣味」と「知性」で武装するしかないのかも。ちゃんと武装してないと「維新の会」が迎えに来るぞ。
●どうやらやっぱりヤンキーには「良いヤンキー」と「悪いヤンキー」がある模様。僕はコレと似てはいるけど別の軸として非行歴バリバリの「ハードヤンキー」と、なんとなくバッドセンスの「ソフトヤンキー」の区分を提唱したい。後者の代表がマロン湖。異論は認めない。*1
●ソフトヤンキーは日本の心。ってか日本の無意識。だって「頑張れ!」って「気合いだ!」ってことでしょ。「心」は言ってみりゃ「ホムンクルス」。入れ替え可能で、身体を操縦する小人。だから「心でっかち」は「気合主義」に直結する。だって「気合」は「入れる」もんでしょ。
●速水さんによればヤンキーとは「都市リベラル層への反感」であるという。自然食でヨガでエコロジーな都市リベラル層の価値判断にヤンキーは反発する。放射能で汚染されているに違いない太平洋側で海水浴を楽しむなんてとんでもない、というリベラルの判断をヤンキーは受け容れない。
●つまりヤンキーは気合で放射能ははじき返せる、ということか。気合ってすごいなあ。ただ思うのは、ヤンキー層にもニューエイジ・ヤンキーがいるのではないか、という疑問。被災地支援や反原発運動の現場には、こういう人たちがたくさんいるような。
●球技全廃とか生ぬるかった。今や「協調性」の獲得は「ソーラン節」に託されたのだ!そこへ持ってきて文科省の「ダンス必修化」。もう中高生はソーラン踊ってヤンキーになるか、HIPHOP踊ってB-BOYになるしかない。


個人的には「ハードヤンキー/ソフトヤンキー」というコンタクトレンズみたいな腑分けより、「ガチなヤンキー/チャラいヤンキー」略して「ガチヤン/チャラヤン」というどことなくヤンキー臭い言い方を流行らせたい(チャラヤンの代わりにユルヤンでもいい)。
‥‥と私がここで言っていてもあんまり訴求力がないが、既にどこかで使われてたりしないかしら。ハードヤンキー(ガチヤン)がめっきり少なくなった今、ヤンキーと言えば「マロン湖」なソフトヤンキー(チャラヤン)ということにこれからますますなっていくので、別に腑分けに拘る必要はないのかもしれないけど。


ところでtogetterの中に、「斎藤環さんを含む文化人っぽいひとたちはどうしてそこまで、「ヤンキー」的なるものを恐れるんだろうか。学生時代に嫌な思い出もあるのかなあ」というtweetがあった。
ヤンキーについて語る「文化人っぽいひとたち」が全員、「ヤンキー」的なるものを恐れているとまでは思わないが、自身とほぼ対極の位相、文化集団として見ているのは確かだろうし、そこに含まれる体育会系のアゲと気合いノリとプチ・ナショナリズムな感性への違和感と警戒心は、だいたい中学、高校くらいから醸成されていくと思う。斎藤環のヤンキー文化論及びヤンキーへの旺盛な言及は、「ヤンキー」的なるものの広がりとそこに取り込まれまいとする防衛機制としてもあるのかな?などと思ったり。
一方、「文化人っぽいひとたち」に入るだろう学者でも、千葉雅也は「ヤンキー」的なるものを恐れていないどころかむしろ親和性を示しており、それは本人の装いからもテキスト(思想地図βvol.3のギャル男論や美術手帖10月号のラッセン論)からも濃厚に匂ってくるが、もちろんフランス現代思想なヤンキーがいるわけないしヤンキーとは常に「語られる者」だから、たぶんあれは「脱構築」的快楽、というか享楽に向かう回路としての確信犯的コスプレではないだろうか。よく知らないけど。
いつか斎藤環と千葉雅也の対談本が出されるのを希望。



本ブログ内でもヤンキーに言及している記事が結構あったので、「ヤンキー」タグを作成、追加。以下、内容的なヤンキー濃度の高低を☆の数で提示し、それぞれ一行紹介を付けてみた。「ヤンキー」という言葉を使ってない文章でも、「ヤンキー的」なるものについて触れているのは入っている。
非ヤンキーで、ヤンキーに愛憎半ばする私の「内なるヤンキー成分」についてはまだ書けていない。


「日本ど真ん中まつり」考(2004.8.30)☆☆☆
  YOSAKOIソーラン祭り=プチ・ナショ臭い=ヤンキーメンタリティという考察。
ホストという生き方(2005.1.9)☆☆☆
  ホスト紹介番組はプロX+Vシネ。ホスト=ヤンキーの泣き所はお袋とガキ。
『下妻物語』の退廃と諦観(2005.1.15)☆☆
  北関東を舞台に描かれるヤンキーとロリータの親和性を「男」の友情に見る。
『ラブちぇん』の笑いと哀しさ(2005.11.30)☆
  ヤンキー文化層の若夫婦がしばしば登場する夫婦交換番組について。
「『性愛』格差論 モテと萌えの間で」を読んで(2006.6.3)☆
  斎藤環初期ヤンキー論。恋愛、sexに最も意欲的な順はヤンキー>負け犬>おたくと腐女子らしい。
雑誌『KING』創刊号を読む(2006.9.19)☆☆☆
  既に廃刊になった雑誌。中途半端な気合いと中途半端なオヤジの能書きでヤンキー層の獲得に失敗。
ケモノの季節(2006.10.3)☆
  ヤンママは子どもに豹柄着せるな、大阪のおばちゃん達は頑張って下さいという話。
DQN、ビッチはなぜもてるのか?(2007.7.28)☆☆
  その場その場の欲求に素直に従って生きている者の、安っぽく刹那的な輝きの魅力、暴力と性愛。
ヤンキーと眼鏡男子とドラえもん(2007.8.2)☆
  専門学校生徒のヤンキー君の思い出(ほのぼの系)。
ラッセンとは何の恥部だったのか(2008.4.21)☆☆☆
  ラッセン受容層は日本のボリュームゾーンであるユルいヤンキーだったのではないか論。
『ヤンキー文化論序説』を読んで(2009.3.19)☆☆
  しかしなぜインテリはヤンキーが気になるのだろう。
DQN語とは「ヤンキーが使っている言葉」ということらしい(2009.6.20)☆☆
  「やべぇ」が意味するもの。
「どや」と紳助は言った(2011.8.24)☆☆
  紳助(成功したヤンキー)の引退時の心の呟きを妄想。

*1:「マロン湖」って?とググったら、広島のダム湖の名称を公募して選ばれた名前だった。「栗湖」と書いて「マロン湖」と読む。湖までキラキラネーム‥‥。