兄弟の葛藤、姉妹の対決 - その2

兄弟の葛藤、姉妹の対決 - その1


兄弟の葛藤であった『ゆれる』に続いて、姉妹の対決を描いた『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』。原作は本谷有希子の小説(元は脚本)である。
両親の突然の事故死により、東京から故郷の山村に帰ってきた自称「女優」の姉の澄伽(佐藤江梨子)、大人しい妹の清深(佐津川愛美)、澄伽との間に秘密があって頭の上がらない腹違いの兄(永瀬正敏)と、被虐的と思えるほどお人良しで終始周囲から浮き気味の兄嫁(永作博美)。物語はこの四人を中心にテンポ良く展開していくが、ここでは姉と妹の関係に絞って見てみたい(以下、ネタばれあり)。


『ゆれる』とは逆に、東京に出て行ったのは姉、田舎に残っているのは妹である。姉の澄伽は、どうしても女優になりたいと父親を刃物で脅して上京したものの、その傲慢かつ自己愛の強過ぎる性格が災いして鳴かず飛ばずのまま。帰郷した彼女が妹を虐め抜き、それに妹が耐えるのは、かつて姉を主人公にしたホラー漫画を漫画誌に実名で応募し、それが掲載されて周囲の知るところとなってしまったからだ。
『ゆれる』では秘められている葛藤、隠されている感情が、ここでは最初から剥き出しである。姉は派手な外見同様、鼻持ちならない厭な性格で、妹は地味な外見同様、ひたすら暗く内向的。溜めとかニュアンスというものが一切ない演出にキャラ造形。それゆえか、救いようのないシーンの連続なのに不思議と重くは感じられない。殺伐とした光景を悲壮感なくあっけらかんと提示することによって、情緒が払拭されている。
姉は雑誌で新進映画監督のインタビューを読み、自分を売り込もうと手紙を出し続ける。何と色よい返事が来るようになり、彼女は有頂天になる。一方妹は、姉の蛮行の数々をこっそりホラー漫画に描き続ける。閉塞的な日常の中で、漫画だけが彼女の捌け口である。


兄が炭焼き小屋で一酸化炭素中毒で死んだ後、妹は上京を宣言する。漫画誌でグランプリと賞金を獲り、漫画家として本格的にデビューすることになったからだ。更に、新進映画監督の姉への手紙はすべて、郵便局でバイトしていた自分が書いたものだと暴露し、姉に向かって昂然と告げる。「お姉ちゃんて本当に面白いよ」。
トドメの一発、いきなりの逆転満塁サヨナラホームランである。「横暴な姉/虐げられた妹」という対比の裏に見え隠れしていた、「現実を直視できない無能な姉/したたかで才能ある妹」という対比が、ここに来て思い切りせり上がってくる。
逆上した姉はバスに乗った妹を引きずり降ろし、「私をもっと描きなさいよ!」と挑発。田んぼの真ん中での取っ組み合い。兄弟(男同士)だったらいかにもなシーンなのに、姉妹(女同士)では何故か切羽詰まった剥き出しの対決感が表に出る。
この後でバスに戻った泥だらけの妹が、通路を挟んで同じく泥だらけで眠りこけた姉の顔を盗み見ながら絵を描いているという図は、ハッピーエンドとは言いにくいが、何とも言えないおかしみが漂っている。一山越えたところに涙はない。『ゆれる』の感動的な幕切れがまとまり過ぎに思えてしまうくらいの、突き抜けたすがすがしさ。名ラストシーンだと思った。


『ゆれる』の兄弟はそれぞれ人生の方向が定まってしまった30代であったが、「腑抜けども」の姉妹は彼らより一世代若い。『ゆれる』の兄弟は互いに屈折した複雑な思いを抱えてすれ違うが、こちらの姉妹は日々待った無しの攻防に明け暮れている。
前回の終わりで書いたように、父母の死が姉妹の関係を取り結ぶことはないし、兄は役に立たずに死ぬし、兄嫁は最後まで空気の読めないままだ。だがこの肉親の減少と兄嫁の「部外者」ぶりは、姉妹の対決に焦点を絞っていくための必須条件である。


姉の滑稽なまでにナルシスティックな「女優」志向も、妹のホラー漫画への逃避も、田舎の大して取り柄のない女の子が、何とか自分の居場所を見つけたいという切実な思いに突き動かされてのものに見える。どうやったら他人に認められるのか、そしてこの何もないド田舎から外の世界に出ていけるのかが問題だ。
それを邪魔しているのは、姉にとっては自分に恥を掻かせた妹、妹にとっては自分を抑圧する姉である。だが一方で、姉は妹を威嚇することで鬱憤を晴らし、妹は姉をネタにした漫画を描くことに喜びを覚えている。つまり互いに憎み合っているにも関わらず、互いに依存している関係と言える。そこが、関係を一旦絶ち、葛藤の後に和解の糸口を見出すブラザーたちの「男の物語」とは違っている点である。
男は喧嘩をし断絶し仲直りをするという、「関係の喪失と恢復」のドラマを生きられる。男には家があるから、最終的に「家に帰ろう」という言葉も吐ける。だが女の子たちは家を出なければならない。「母」の助けはなく、「男」は頼りにならず、たった一人の家族である姉妹は必要悪の宿敵だ。闘争と和解は入り交じり、関心と憎悪は常に紙一重。最後のシーンはそれを象徴的に示す。
男兄弟のナイーブさに比べて、この姉妹のふてぶてしさはどうだろう。それは拠り所となる甘美な思い出も帰属する場所もないがゆえの、精一杯の虚勢かもしれない。『ゆれる』の兄弟が「奪い、奪われた関係」だったならば、彼女たちは二人とも元から何ももたない「奪われた存在」である。そういう者同士で、とりあえずしぶとく生き延びていく他にないわけだ。これが「女の物語」である。