母と息子だからこその展開、『母なる証明』(連載更新されました)

「シネマの女は最後に微笑む」第52回は、母と息子の密着関係が背後にある事件を前フリに、韓国映画の秀作『母なる証明』(ポン・ジュノ監督、2009)を取り上げています。

「最後に微笑む」のか???という作品ですので、大まかなストーリーを追いつつもラストはボカしました。

 

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深刻な題材であり悲劇を描いているのに、随所にクスリとなってしまう笑いを挿入している脚本が秀逸ですね。韓国の現代社会への視線も透徹したものを感じさせます。

俳優の演技も素晴らしい。キム・ヘジャはもちろん、難しい役を演じた息子役のウォンビンがとてもいい。母親役のキム・ヘジャじゃなくても「母性愛」をくすぐられる人は多いと思われます。

 

本文終わりの方で「精神的な限界状況に耐えきれなかった彼女の姿を通して」というフレーズを入れたのですが、一文が長くなってしまうので削りました。ネタバレとも関係するところではありますが、あそこまで精力的かつポジティブに息子のために奔走してきた母親の心が、最後の最後で折れてしまうことに、やり切れなさと納得感が交錯します。

 

私は子供がいませんが、母と息子には母と娘とはまた別の、特殊な密着感が生まれやすいのではないかと、この作品で改めて感じています。「母親」という立場の難しさについて考えさせられます。

 

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『たちあがる女』/『天才作家の妻 40年目の真実』(連載2回分のお知らせです)

連載「シネマの女は最後に微笑む」の告知、一回飛ばしてしまった分も含めてまとめてお知らせします。

 

50回は、グレタ・トゥーンベリさんよりずっと年上でずっと過激な環境活動家を主人公にした、アイスランドが舞台の映画『たちあがる女』(ベネディクト・エルリングソン監督、2018年)。画像はイメージです。

単にメッセージ性を打ち出したのではない、皮肉とユーモアとファンタジーの散りばめられたちょっと面白い作りの作品。

合唱団の講師を勤める一人の中年女性が、武器を片手に身軽に岩山を駆け回り、ドローンとバトルを繰り広げる。苔の香りがしてきそうな原野のシーンが、冷たくも美しい。

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次いで、第51回は時節柄、ノーベル文学賞受賞作家とその妻の知られざる関係性を描いた『天才作家の妻 40年目の真実』(ビョルン・ルンゲ監督、2017)を取り上げています。

授賞式を前に、夫婦の溝がどんどん明らかになっていくというオソロシイ展開。ジョナサン・プライスグレン・クローズ、安定を崩した夫婦の、安定の演技が素晴らしい。

ストックホルムに到着してからのノーベル賞受賞者が受ける歓待や、日々の過ごし方についての細かな描写も興味深いです。

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加害の引き受けと陥没のエレガンス/藤井健仁展テキスト

鉄を素材に彫刻を作り続けている藤井健仁の個展「ABJECTION X」が、来週から日本橋高島屋S.C.本館6階美術画廊Xにて開催されます。DMに掲載された拙文を、作家の了承を得てこちらに転載します。

 

 

加害の引き受けと陥没のエレガンス               

 

 

労働

 アートと呼ばれるものの輪郭がすっかり曖昧となった現在、絵画と彫刻はそのモダニスティックな形式を依然として維持し、「芸術の場所」を確保しているかに見える。彫刻というオーソドックスなジャンルからスタートした藤井健仁は、その「芸術の場所」が排除してきた様式であるお面と人形を、自身の制作の中心に据えてきた。

 お面とは、顔面に装着することで何者かになり代わるアイテムであり、人形は小さな人型に何者かが託されたものである。いずれも代替物としての役割を果たすがゆえに、何の役割を果たさずとも「芸術の場所」を占めることのできる彫刻にはない通俗性や商業性を帯びることになる。

 藤井が言語ゲームとしての現代アートから距離を取り、積極的にその通俗性、商業性の中に沈潜したのは逆説的にも、「つくる」という行為の強度と、物と手の緊密な関係性を取り戻すためだった。そこで選ばれていた鉄という素材の圧倒的な抵抗感が、「つくる」ことをより過酷で過剰なものにしたのは間違いない。

 過酷な労働によって過剰につくること、それは現代社会において、人々が大なり小なり強制されていることだ。そこでは人は常にある種の「被害者」性の中に拘束されている。が、藤井が目指したのはそれとは反対に、現実の労働にも増して過酷で過剰な制作へと自らを追い込むことで、「加害者」たらんとすることだった。

 

 

鉄面皮

 鉄は暴力を象徴する。報復の私刑が許されないこの社会において、死刑は法=国家の判断に委ねられることになっている。しかし人は社会から押し付けられた「被害者」性に塗れて生きていても、いやむしろその位相を全身で受け止めているからこそ、「復讐してやる」という思いを一度ならず抱くものではないだろうか。その際の武器が銃なのか鈍器なのかは別にして、鉄であることは肝要である。

 鉄を叩きのめすことから、藤井の「彫刻刑 鉄面皮」シリーズは生まれた。モデルたちへのあり余る殺意は「制作の暴力性」に還元され、「刑」を下されたお面はそれぞれの人物の個別性、具体性を限界まで露呈させている。メディアを通して私たちが嫌と言うほど見てきた人々の、抽象化不可能な貌の圧力の凄まじさ。それは、藤井の労働に比例するものだろう。

 労働量と時間の集積が、「復讐してやる」という制御し難い感情をある時点で超えた時、お面は藤井の手を離れ、加害と被害の拮抗する境界面として自律する。

 

 

鉄少女

 鉄人形のシリーズにも、鉄という素材の持つ暴力性と、「つくる」ことの過剰さが通底している。「鉄面皮」と違うのは、鉄少女の顔が皆どれも一切の個別性、具体性を失っているということだ。

 大きく陥没した顔面と、反動のごとく膨れ上がった前頭部。顔の下半分は四角い板状となって反り返り、目鼻口はまるで冗談のように極限まで切り詰められている。

 顔の驚くべき抽象性に対し、体躯は極めて具象的だ。たとえば<<転校生>>シリーズ。なめらかで華奢な手足に、幼女を思わせる胴体。風に舞い上がる長い髪。セーラー服と、翻る短い襞スカート。基本的な造形には西洋人体彫刻のニュアンスを感じさせつつも、採択されている個々のモチーフの組み合せは、この国では、性的欲望の視線に晒されるある「かたち」の一典型と言っていいだろう。

 この、「圧倒的な量の性的視線を受け止める」という日本の少女の存在様式を象徴的に表しているのが、他でもない顔なのである。鉄少女の顔に個別性が欠けているのはそのためだ。鉄を叩く藤井の「制作の暴力性」と「視線の暴力性」は、ここに重ね合わされる。

 あらゆる暴力を受け止めて、少女の顔は陥没した。平たくなった顔に丸く穿たれた目の穴の奥から、彼女は世界を眺めている。ヘルメットのように膨らんだ頭蓋骨で、彼女は自らを防衛する。小さな突起と化した鼻と黒々と割けた口は、稚拙に象られた女性の性器だ。欲望する視線が最後に辿り着きたい場所が、一切隠されず顔面にあるという不意打ち。その裂け目の奥には、ペニスを噛み切る小さな歯が几帳面に並んでいる。異形の相貌は呪術的な仮面めいて、その下にあるものへの想像力を掻き立てるが、彼女に「素顔」はない。

 少女は微笑みながら軽やかに立っている。あるいは全力で自転車を漕いでいる。どんな視線に殴られ顔面を陥没させても、少女は微塵も傷ついていない。「被害者」性が、不穏なまでの自由と強靭さに反転する瞬間のエレガンスがここに刻印されている。

 

 

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なごやトリエンナーレについて『情況』2019秋号に寄せたテキスト

あいちトリエンナーレ2019と同時期に開催された「なごやトリエンナーレ」について、『情況』2019秋号の「あいちトリエンナーレ逮捕事件の真相 謎の団体を解剖する! なごやトリエンナーレ」というインタビュー記事の後に、論評「「なごやトリエンナーレ」への視角」としてテキストを寄せています。

発売から一ヶ月以上経ちましたので、こちらに拙テキストの全文を掲載しておきます。

 

 

 

 

受動的「自由」の拒否から立ち上がる世界への「強制」

 

 

芸術は能動的な行為とされている。美術ならば物やイメージに働きかけ、その結果としての作品によって観客や社会に働きかける。今年のあいちトリエンナーレはまさにそのような芸術の能動性を寿ぐものだった。だが「超芸術」を標榜するなごやトリエンナーレに、芸術的能動性はない。唯一の能動的行為として当初からあったのは、サイトに掲載された「無上の時代」というステートメントのみである。

731日に芸文センター横で行われた「騒音の夕べ」は一見能動的な行為に見えないこともないが、それは路面とサンダーとの接触音を増幅して撒き散らすという点だけであり、電極を繋いだ絵筆の震えに任せたペインティングや音に同期して痙攣するヌイグルミは、受動態そのものであった。そして、歩道に落ちた絵の具の跡を掃除するよう芸文センター職員に命じられて仕方なく従うという受動の延長線上に、「水=ガソリン事件」は起こっている。

その前、芸文センターのあいちトリエンナーレ会場前での二人のメンバーによる「津田さんに呼ばれて来た」という言明も、まさかこうしたグループだとは知る由もなかったあいトリ芸術監督からの友好的なツイートを、唯一の根拠にしていた。つまり彼らの行為は、芸文センター及びあいちトリエンナーレの側がうっかり撒いた種(言葉)を、一種の「強制」と受け取ることによって発動している。

なごやトリエンナーレにおいて「超芸術監督」は人ではなくヘルメットを指し、実質的にはその時ヘルメットを被った者が超芸術監督を名乗るという。また「超現場監督」の腕章を付けた者がいるところが、会場となる。「超」のつかない方の芸術祭では「芸術監督」の固有名が重要とされ、展示会場=「現場」はあらかじめ決められた空間だが、なごやトリエンナーレはそうした固有性、限定性、芸術の名の下の特権性からは自由だと言えよう。

この自由さは芸術の掲げる「表現の自由」とは異なる。その自由の真の意味、言って良ければ「野蛮」さは、名古屋市東警察署に拘留された自称・室伏良平が接見で開口一番に放ったという、「なごやトリエンナーレ会場にようこそ」という言葉に端的に現れている。官の権威や警察権力との遭遇から生じた拘留という究極の受動態がここでは、「主体はこちらにある」ことを前提した言葉によって一気に能動態に逆転されていることに注目したい。

これは言葉による政治的関係性の乗っ取りであり、言葉で自己規定することによってのみ孤独に立ち上がってくる世界への「強制」であり、受動性の中にあるのは他でもない「表現の自由」を巡る許可/不許可に揺れる芸術の方であることを、逆照射するものだ。「超芸術監督」や「超現場監督」にせよ、事態の変化に応じて次々出される「声明文」や「獄中通信」にせよ、自らの言葉への律儀なまでの義理立ての結果、なごやトリエンナーレは形式のレベルで芸術や芸術祭を破壊している。

道路の掃除をハイレッドセンターの「首都圏清掃整理促進運動」のパロディとして、芸文センター内への掃除の延長をかつて愛知県美術館にゴミを作品として展示して撤去された「ゴミ事件」のネガ行為として見る向きもあるかもしれない。あるいは「超芸術」という言葉に赤瀬川原平の影響を、「声明文」のスタイルにダダや未来派が想起されるかもしれない。だがその表面がいかに前衛芸術を模しているかに見えても、彼らはかつての前衛を、芸術の名において継承する者たちではない。ここにあるのは不完全ながら、政治的問題を取り扱う昨今の芸術とは真逆の、受動的「自由」を拒否し能動の極地の「強制」を選択した、芸術に擬態したまだ見ぬ政治の体現である。

 

大野左紀子 

オダギリジョーと西島秀俊の絡みが何気に素晴らしい『メゾン・ド・ヒミコ』(連載更新されました)

映画から現代女性の姿をpickupする「シネマの女は最後に微笑む」第49回は、2005年の邦画『メゾン・ド・ヒミコ』(犬童一心監督)を取り上げています。

全体に、ゆったりとした「行間」が取られ、そこで登場人物の心理を想像させるという日本映画らしい作り。やや冗長なところはあるものの、ヘテロの世界とセクマイの世界の人間模様や介護の問題も入って、さまざまな世代の人が登場する作品として楽しめます。

 

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映画祭などのスナップ写真を使用しているこの連載の画像、今回は使えるものがなかった(スチール写真は著作権の関係で無理らしい)ようなので、出ているのは主演の柴咲コウの多分最近の写真です。

この映画では外見的にパッとしない若い女という設定で、劇中何度も「ブス」とか言われるし、頑張って地味に作っているのだけど、元が美人なので実はあまり効果が出ていません。

上司役の西島秀俊が、オダギリジョーに「吉田(柴咲)の彼氏だと思ってましたよ。あいつにしてはいい男捕まえてんなって」と言うけど、いやどう見ても人目を引く美男美女でお似合いだよ、と突っ込み入れたくなります。

 

ただ、田中泯柴咲コウの親子はベストだなぁと思わされます。眉が濃く目力が強いところがそっくり(劇中でも「よく似てるわねぇ」という台詞がある)。

まだ俳優をされる前の舞踏家としての田中泯さんに、昔一度お会いしたことがありますが、カッコよかったですねぇ。この作品でも、病人の役ながら立ち姿がスッとしていてさすがです。

 

私の好きなシーンは、白いスーツのオダギリジョーと黒いスーツの西島秀俊が並んで会話を交わすところ。ゲイの役のオダジョーがノンケの西島に微妙に探りをいれる。西島は淡々と答え、最後に笑い、オダジョーも微笑む。バックは夏の空に入道雲。‥‥なんかいいんだよねあそこ。

一緒に「飯食う」くらいには親しくなったオダジョー演じる春彦と西島秀俊演じる細川の、友情以上恋愛未満のドラマをスピンオフで見たい。

 

この作品、授業で何度も扱っているのですが、あの悪戯中学生を「怒られて改心した良い子」と解釈したり、バス停への道で沙織(柴咲)が泣いた理由が春彦(オダジョー)への恨みや失望だと思ったり、最後の壁の落書きを誰が書いたかわからないという学生が毎年少数ながら出るのが、うーん‥‥と思います。それ、わからないかなぁ。

 

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なぜ毎晩同じ夢を見るのか?彷徨う二人の『心と体と』(連載更新されました)

映画から現代女性の姿をpickupする連載「シネマの女は最後に微笑む」第48回は、『心と体と』(イルディゴー・エニェディ監督、2017)を取り上げています。

深い森の中で寄り添う二頭の鹿/屠殺場で解体される血塗れの牛肉‥‥という対比的映像の鮮烈なイメージをバックに、毎晩なぜか同じ夢を見る、出会って間もない男女のもどかしい関係を描くハンガリー映画

 

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画像は毎回編集者が調達することになっていますが、おそらく第67ベルリン国際映画祭コンペティション部門で金熊賞を受賞した時のものかと思われます。

ただ、アレクサンドラ・ベルボーイの隣にいるのは、同じく主演のゲーザ・モルチャーニではなく、重要な脇役を演じたエルヴィン・ナジ。彼の役は、食肉工場に後から入ってくる屠殺係で、ある事件の犯人と目されます。どんな職場にも一人くらいいそうな、ちょっとアレな感じの男をうまく演じています。

 

一方、大きな瞳が印象的なアレクサンドラ・ベルボーイの演じるマーリアは、心の内をなかなか明らかにしない、特殊な事情も抱えた難しい役。防御壁を作って閉じこもりがち彼女も、周囲から見たら一種の「困った人」になるでしょう。

マーリアは最後に大胆な行動に出るのですが、その相手役の中年男エンドレを演じるゲーザ・モルチャーニがとてもいいです。出過ぎず、かといって冷淡でもなく、抑制の効いた言動の中に、中年男の葛藤と諦観とちょっとした生々しさを滲ませていて、非常にリアル。

「性」をテーマにして一風変わった設定の、ユーモアの中にデリケートな視点の感じられる佳作です。

 

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プライドと理想が高く愛想と口が悪く世渡りの下手な一匹狼のすべての職業人に(連載更新されました)

映画から現代女性の姿をpickupする連載「シネマの女は最後に微笑む」第47回がアップされています。今回取り上げたのは、『ある女流作家の罪と罰』(マリエル・ヘラー監督、2018)。

 様々な賞にノミネートされた佳作ですが、日本では劇場公開されてない模様。自伝を元にした、文書偽造を巡る苦味とユーモアの効いたドラマです。

 

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中年の主人公は、かつてはヒットを飛ばしたものの今は不遇の孤独な伝記作家。共感できるかも‥‥と一瞬思うこちらの出鼻を挫く性格の悪さ、見てくれのダサさにドン引きしつつも、ブラック風味な展開に引き込まれ、気づいたら彼女の犯罪を応援したい気分になってしまっています。ヤバい。

 

コメディエンヌとして有名なメリッサ・マッカーシー、シリアスとコメディ半々の演技が素晴らしいですが、それにも増して、リチャード・E・グラントが演じる能天気なゲイのイカサマ師のキャラが最高です。この二人の、喧嘩しながらも通じ合っていく感じがまたいい!

 

わがままでプライドと理想が高く、迎合も妥協も一切したくないが、愛想と口が悪く世渡りの下手なすべての1匹狼の職業人にオススメします。