言葉の抜け殻と紙の帽子

このところは毎週金曜日に、仕事の後で実家に寄って母をピックアップし、介護施設の父を訪ねるのが習慣になっている。
昨日、他の老人がテレビを見たり、クリスマスの飾り付けをスタッフの人と一緒に作っている食堂の中で、父は一人だけ離れたところで窓の方を向いて車椅子に座っていた。窓の外の景色を眺めているのかと思って見ると、その視線はぼんやりと目の前のテーブルのあたりを彷徨っていた。何も見ていない目だ。
「お父さん」と声をかけてようやく、首をほんのわずか動かした。言葉は出てこない。


この夏に介護施設に入居してまもなく、誤嚥が元の肺炎で病院に搬送されるまでは、父はまだ普通に喋ることができていた。しかし高熱が続き危機的状況に陥って最後に強い薬を投与されて一命を取り留め、長い昏睡状態から醒めた時は喋り方がおかしくなっていた。
それでも2ヶ月くらい前までは口数が少ないながらも、会話があった。1ヶ月くらい前までは声をかければ「ああ」という顔をし、手を挙げることもあった。
それが今ではほぼ無口、無表情になっている。てんかんを押さえるために飲んでいる神経系の薬も、影響しているかもしれない。てんかんが起きたら今度こそ危ないと言われているので、それを飲まずにいることはできない。
あの時は家族は皆、なんとか命を救ってほしいと思っていた。医師たちも全力を尽くしてくれた。父の生命力もあったのだろう。だから生き長らえただけで有り難い、それに比べたら言葉など喋れなくなったって‥‥と思うしかないのだけど。


母と二人でかわるがわる話しかけている間も、父は依然としてぼんやり黙って前を向いていた。食事中でもないのに、なぜか口元だけがモグモグと反芻している牛のように動いている。
「お父さん、ご飯はちゃんと食べてる?」
「‥‥‥‥ハイ」
やっと言葉が出た。しかし「ハイ」だ。母にも私にもそんな返事をしたことはない。スタッフの人と思い込んでいるのかもしれない。
前はあんなに「お母さん」「お母さん」と言っていたのに、その言葉がまったく聞かれなくなったので、母は淋しそうだった。
「私のこと、ここにいるおばあさんの一人だと思っているのかしらね」
「うーん、お母さんということは何となくわかっていると思うけど。言葉に出てこないだけじゃない?」と答えたが、今いち自信がない。
猫のプリントのハンカチを出して、「お父さん、これは?何に見える?」と訊いた。
「‥‥‥‥ネコ」
一応、図像認識はできている。
「お父さん、私の名前は?」
父は覗き込んだ私の顔にやっと焦点を合わせ、
「‥‥‥‥サキコ」
と呟いた。なんとか私の名だけは覚えていてくれた。一度、母と私を取り違えたことがあったので、それからはいつも父に会う度、まず「お父さん、私。サキコだよ」と言ってきたのが残っているのかもしれない。


高校の現代国語の教師で、いつも本を読み、細かい字で書き物をし(年賀状すらその細かい字で埋め尽くし)、よく議論し、よく説教し、言葉の使い方に厳しい「言葉の人」だった父は、命と引き換えに言葉のほとんどを失った。
結局この日、訪問中に父の発した言葉は「ハイ」と「ネコ」と「サキコ」だけだった。それらもいずれは失われていくだろう。
背を丸めた父の姿が、まるで蝉の抜け殻のような、言葉の抜け殻に見えた。



フロアの入居者の写真のコラージュが、壁に飾ってあった。ハロウィンの時に撮ったものらしい。父も他の老人と同じように、スタッフが紙で手作りしたであろうハロウィンの魔法使いの帽子を被っていた。ニコニコした顔で写っているおばあさんの横で、父は無表情で目の焦点も定まっていなかった。
かつての父ならば、「なんでこんなものを被らなきゃならんのだ」と拒否したはずである。「幼稚園児じゃないんだぞ」と。まさか自分が晩年に、ハロウィンの魔法使いの帽子を被って写真に収まり、それが壁に貼り出されて来訪者の目に触れるとは、想像すらしていなかっただろう。*1
外の世界を文節化して把握する能力を失い、環境に身を任せるしかなくなった父は、毎日服を着せてもらいおしめを取り替えてもらうのと同じように、その帽子もただ被らされるままになっていたのだろう。


もちろんハロウィンもクリスマスもひな祭りも七夕のイベントも、施設の中だけにいる老人たち、ボケかかった老人たちに、少しでも刺激と慰めと楽しみを与えるために、館のスタッフの人々が考えて実行するものだ。保育園や幼稚園に飾ってあるような、絵の具を塗り色紙やボール紙やモールなどを使ったさまざまな壁面装飾の半分は、スタッフの人の援助で入居者たちが作っている。それは「良いこと」なのだと思う。それを無心に楽しんでいる老人もいると思う。
でも、全身「言葉の人」である父の昔の姿を知っている私には、というかほとんどそれしか知らない私は、その写真の父をほのぼのした気持ちで眺めることはできなかった。
いっそ私もハロウィンの魔法使いの帽子を被り、コスプレして父と一緒に写真に収まれば、この遣る瀬なさは少しは晴れるのだろうか。

*1:追記:後でスタッフの人に聞いたら、実際に帽子を被って写真を撮ったのではなく、人と帽子の写真を合成して作ったものだった。それを見て喜ぶ老人もいるのだろう。いずれにしても、そういう写真が貼られていることを父は知らない(認識できない)だろう。

縮んでいく人

既に通い慣れたと言っていい感じになってきた老人介護施設の、父の入居しているフロアに上がり、この時間帯ならいるはずの食堂を覗くと、車椅子の父は見当たらなかった。部屋かな?と個室を覗いても、もぬけの殻。
おかしいなぁと食堂に戻りつつ、ふと今通り過ぎたエレベーターホールを何気なく見ると、エレベーターの扉の方に向いたとても小柄な老人が、座ったままユラユラと車椅子を前後に動かしていた。エレベーターに乗りたいのに乗れなくて、イライラしているような様子だ。
さっきもその人はそこにいた。その斜め後ろからの顔をよく見直して、突然、父だとわかった。
毎週来ていたのに、父が見違えるほどこんなに小さく、こんなに痩せた老人になっていることに今まで気付かなかった、という事実に、軽く打ちのめされた。


年老いて、人は縮んでいく。筋肉や脂肪が落ち、背骨の椎間板の厚みも失われ、背中も丸くなる。
3年ほど前、父を車の助手席に乗せた時も、「あれ、こんなに小さかったっけ」と思ったが、この夏の終わりに肺炎で死にかけてから父の体は一段と縮み、今はそれよりさらに小さくなっている(ような気がする)。
物が縮んで小さくなるのは、その物自体が擦り減っているか、物の中に含まれていた空気や水分がなくなっているかだ。人間も基本的に「物」だから同じなのだが、父を見ていると、そうした物理的な物以外の何かが、体内からゆっくりと奪われていっているのではないかと思えてくる。


小学校3年の時に買ってもらい、それから今に至るまで何回も読んでいる本の一つに、『海の日曜日』(今江祥智実業之日本社、1966)という少年少女小説がある。厩舎から抜け出したマリンスノーという銀色の馬に偶然出会い、心から魅了されてしまった男の子の物語。彼が年上の少年と共に、レースで怪我をしたマリンスノーの介抱をする場面を思い出した。
馬の怪我は重く、既に競馬馬としては馬主にも見放されている。少年たちの目には、衰弱した馬が日に日に小さく縮んでいくように見える。昨日はロバくらいだったのが今日は犬くらいに、その次は猫くらいに、その次の日はネズミくらいの大きさに。
これ以上縮んだらなくなってしまうと思えた時、マリンスノーはまた徐々に「大きさ」を取り戻し始める。「今日はあいつ、猫くらいには見えるぞ」「でっかい猫だな」と少年たちは喜び合う。彼らの献身的な介抱が功を奏し、馬は自力で立ち、やがて駆け足ができるまでに回復する。
少年たちの目に映った馬の「大きさ」は馬の生命力そのものであり、それに対応した少年たちの希望の大きさだ。たとえ瀕死の状態になっても、馬には生きたい、回復したいという本能があり、また実際回復するだけの力も残っていたということだ。


90歳近い父に、かつての元気を取り戻す力はない。リハビリをする体力すらない。薬と介護によって、衰えていく速度をなるべく遅らせている状態だ。だから元通りになってほしいという期待は、誰も抱いていない。残り少ない時間をできるだけ苦痛なく、心穏やかに送ってもらいたい。医者も介護の人も家族もそう考えている。
そのことは重々わかっているが、私の目に写った父の「大きさ」が父の生命力であり、それに対応した私の希望なのだと考えると、少し淋しくなる。


食堂にいつもいる車椅子の老人の一人に、目が合って挨拶するとにこやかに微笑んで会釈する老婦人がいる。白髪をきちんと整え、おそらくわりといいとこの奥様だったんじゃないかという感じの、上品なおばあさん。
その人がある時、細い声を張り上げて、「わたしは、もう死にたいんです。生きていたくはないんです」と言っているのを聞いた。思わず、傍らの父を顔を見たが、父には何も聞こえていないようで、ぼんやり前を向いたままだった。
「死にたい」とは、とても人間的な欲望である。動物は死にたいと思うことがない。どんな状態になっても、基本的には生きることしか考えていない。
脳梗塞で倒れるまで『長寿の秘訣』という本を読み、「百歳まで生きる」と豪語してた父に、「もう死にたい」や「いつ死んでもいい」という気持ちは生まれていないだろう。としたら、どういう人間的な欲望が残っているのだろう。食欲や睡眠欲や自己保存欲といった生理的、動物的な欲求以外に。
「家に帰りたい」とは一切口にしなくなった父の中に、何があるのか、私にはわからない。そのことが一番淋しいことなんだと、今気付いた。

車椅子を押して

昨日、昼で終わった仕事の後、介護施設の父を見舞った。食堂のテレビのすぐ前に、車椅子に乗せられた父がいた。勝手に立とうとして転ばないようにシートベルトをされていた。声を掛けると、夢から醒めたような顔をして私を見、片手を上げた。
「今日は一人で来たよ。名芸の帰り」
父は右手を耳の後ろに当てがった。よく聞こえないらしい。
「午前中、名芸の授業があって、それ終わってから来たの」
「‥‥メーデー? メーデーは5月1日だ」
メーデーじゃなくて名芸。名古屋芸術大学。私、そこで非常勤してるって言ったでしょう、前」
ほお、と初めて聞くような感じで父は小さく頷いてから言った。
「僕もね、つい最近まで勤めをしていたんだが‥‥、今日起きたら、どういうわけだか、ここにいた」
記憶が大幅に飛んでいる。「つい最近まで勤め」には触れず、8月に入所してからの出来事をかいつまんで話すと、父はまたほおと言うように頷いた。


テレビでは何かドラマをやっていた。
「これ見てたの?」「見てない」
そもそもここに来てから、テレビ自体ほとんど見なくなったらしい。家から母に持ってきてもらった本も読めなくなった。そういう類いの情報摂取がもうしんどいのだろう。ただ、部屋に戻すと寝てしまい、夜起きて大声を上げたりするので、昼間は眠らないようにテレビの前に連れて来られているのだ。それで他にすることがないので、内容もわからないテレビ画面をぼんやり眺めている。
食堂には7、8人の老人がいて、ほとんどが車椅子に座っており、数人のおばあさんが固まってポツリポツリと言葉を交わしている以外は、それぞれじっとして起きているのか居眠りしているのかわからない感じだった。父はまだ誰とも馴染めずにいた。父の性格ではこの先も、ここで話し相手はできないのではないかと思った。


「お天気いいから外に行ってみる?」と聞くと頷いたので、スタッフの人に断って、エレベーターで1階のホールに降り、父の車椅子を押して表に出た。
「外に出るのは、初めてだ」と父は言った。実は以前に一回スタッフの人が外の駐車場まで連れ出してくれたのだが、すぐ部屋に戻りたいと言ったらしい。今日は気分がいいのだろう。
高台の閑静な住宅街の中にある施設の前の道は、ゆるやかな上り坂になっている。そこを車椅子を押して上っていくと、「サキちゃん、えらくないか?」と前を向いたまま父が言った。上りだから押すのが辛くないかということだ。「だいじょうぶ。平気」。
空が高く、刷毛で掃いたような雲が浮かんでいる。ほとんど禿げ上がった父の頭の横から後ろにかけて少し残った白髪が、しばらく散髪していないので伸びて、そよそよと秋風にそよいでいる。
連れ出してはみたが、何を喋っていいのかわからない。


坂の途中で道を折れた。少し行くと、大きなキョウチクトウの樹が塀から外に向かって葉を茂らせていた。枝の上の方に、長かった夏の名残りのように、紅色の花がまだいくつかついていた。
「お父さん、キョウチクトウが咲いてる」
父はのろのろと左右を見回した。
「あっち。ほら上の方」
目の前に指差した手を持っていくと、ようやく頭上の花を見つけた父の口が、「あ」というように開いた。
外で花を眺めることもなく、病院と施設の中で過ぎた父の今年の夏。来年はあるのだろうか。


そこから先は急な下り坂だったので、回れ右をして施設に戻ることにした。ゆるやかな下り坂だと思っていたが、車椅子が明らかに下に引っ張られていくので、グリップを握る手に力が入る。ここでうっかり手を離したら大変なことになるなと思った。戦艦ポチョムキンの有名な場面が頭を過る。あれは乳母車か。この場合まあ同じようなものだ。
「今日みたいに、外を散歩をしたのは初めてだ」と、また父が言った。
「気持ち良かった?」
「気持ち良かった」
「じゃあまたお天気のいい日に、一緒に散歩しよ」
父は頷いた。
「おしっこが出た」
「後でオムツ換えてもらお」


突然、一枚の写真を思い出した。毛糸の帽子を被ってベビーカーに乗った私、それを押して歩く母を、父が横から撮った古いアルバムの中の一枚。
その写真の下には父の細かい字で、「母よ 私の乳母車を押せ 轔轔と私の乳母車を押せ」と書き添えられていた。国語の教師だった父は、「轔轔」という難しい漢字の下に几帳面に「りんりん」と仮名を振っていた。

  乳母車     三好達治
  
 母よ──
 淡くかなしきもののふるなり
 紫陽花いろのもののふるなり
 はてしなき並樹のかげを
 そうそうと風のふくなり
  
 時はたそがれ
 母よ 私の乳母車を押せ
 泣きぬれる夕陽にむかつて
 轔轔と私の乳母車を押せ
  
 赤い総ある天鵞絨の帽子を
 つめたき額にかむらせよ
 旅いそぐ鳥の列にも
 季節は空を渡るなり
  
 淡くかなしきもののふ
 紫陽花いろのもののふる道
 母よ 私は知ってゐる
 この道は遠く遠くはてしない道


母に乳母車を押してもらってから半世紀。
「遠く遠くはてしない道」の途中で、私は老父の車椅子を押している。




測量船 (講談社文芸文庫)

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父が施設に慣れるまで

老人養護(介護)施設に入った人がその環境に完全に慣れるまでに、平均して一ヶ月くらいかかるという。しかし8月半ばに入所した父はいまだに気分の波が激しく、いろいろ問題行動を起こしているようだ。
それというのも、入所して10日、少し慣れ始めた矢先に誤嚥が元で肺炎に罹って病院に逆戻りし、3日間高熱に苦しんだあげく何とか一命をとりとめて、9月の上旬にやっと施設に帰ったためだ。
それで、また何もかもゼロに戻ってしまった。というかマイナスになったかもしれない。


父の体力はガクンと落ちて自力で立つこともできなくなり、ついでに入院中に昼夜が逆転してしまって、日中、食事の時以外はひたすら眠り続けるようになった。一週間に2、3度父を訪ねていた母は、「いつ行っても寝てて起きないんだもの。張り合いがないわねえ」とこぼしていた。てんかんを押さえる薬が麻酔のように効いているのか、呼びかけても体を軽く揺すっても起きない。その代わり、夜になると起きて動き回ったり大声を上げたりする。
そして、9月の終わりから10月にかけて、たまたま3、4日誰も訪問しない日が続いた。その間に昼間目を覚ますようになった父は、家族に長いこと放っておかれている、ほとんど見捨てられていると思い込んでしまった。


その日、母たちより一足遅れて父の部屋に行くと、ベッドで目覚めた父が久しぶりに口を利いている最中だった。母が父の手を取っていて、いつも母に同行してくれる叔父と、担当の介護スタッフの人が二人、後ろで見守っていた。耳の遠い父の声は大きく、喋り方はまるで小学生が教科書を音読しているような感じだった。
「ほんとに今日、来てくれるとは思わなかった。夢を見ているようだ」
「厭ねえ、しょっちゅう来てたのよ」
「知らない」
「いつ来てもお父さん寝てたから」
「家に帰りたい」
「そんなこと言わないの」
「家に帰らして」
「私がお父さんの面倒看れないから駄目です」
「だいじょうぶ。お母さん、大事にするから」
「大事にするってどうするの? お父さん自分で自分のこともできないじゃないの」
「できる」
「できないわよ。立てないじゃないの。ここなら全部面倒看てもらえるでしょう。こんないいところないのよ」
「いいことはない。ここはつらい」
「そんなこと言っちゃいけません。何がつらいの。皆さんほんとによくして下さるじゃないの」
「‥‥‥‥。今日、来てくれるとは思わなかった。夢を見ているようだ」
「これからも来るからね。お父さんちゃんと夜寝て、昼間は起きててよ」
「家に帰りたい」
「それは駄目」
「家に帰らして」
「私が面倒看れないの。お父さん、私だってあちこち悪くてお医者さん通ってるのよ」
「お母さんを、大事にする」
「あなたね、そんなこと今頃言うなら、どうしてもっと元気な時に大事にしてくれなかったの。私、55年間何でもお父さんの言う通りにしてきたのに、一回も感謝してくれなかったじゃないの。私が温泉旅行行きたいって言った時、くだらんって言ったじゃないの、自分は何回も海外旅行行ってるくせに」


母の言葉が恨み節になってきてたので、私が替わった。
「お父さん、我がままばかり言うんじゃないよ」
「ここの生活はつらい」
「何がつらいの? 前、ごはんがおいしいって言ってなかった?」
「ごはんはおいしくない」(退院後、嚥下がまだうまくできないのでゼリー状のものを食べている)
「お風呂、広くて気持ちよかったでしょ」
「家に帰りたい。サキちゃんからもお母さんに頼んで」
「お父さんの気持ちはわかるけど、現実問題無理。お母さんが倒れちゃったらどうするの?」
「お母さんは倒れない」
「倒れないなんてことないよ、人間だから」
「お母さんは倒れない」
「倒れるの。もう倒れる寸前だったの」
「お母さんが倒れることは、絶対ない」
ダメだこりゃ。
叔父も加わって20分ほど代わる代わる説得を試みたが、父は壊れたレコードのように同じことを繰返した。母がとうとう切れて「お父さんが家に帰って来るんなら、私は家を出ます!」と言い放ち、まあまあと皆で宥める。
やっと久しぶりに話ができたと思ったらこんな会話になってしまった。ガッカリして泣きそうな母を慰めながら、施設を後にした。


家にいる頃、母は父の言うことを何でも聞いてやっていた。そうしないと怒り出すからだ。家庭内では自分の意見を押し通し、誰かが異を唱えようものなら途端に不機嫌になり、時に大声で恫喝して相手を黙らせるということを、平気でしてきた父だった。
母は「私が何でもハイハイ言ってきたのが間違いだった。一度思い切りぶつかっておくべきだった」と嘆くが、今になってそんなことを言っても遅い。
「体が弱ってこういうところに入ったら、少しは穏やかになってくれるかと思ったのに」
「それはないわ。性格はそう簡単に変わらないから」


翌日、母や叔父より一足早く私と夫は施設に着いた。「あんな状態だから、明日はあなたたちは来なくていいわ」と母は言っていたが、その日は父の米寿の誕生日だったから「おめでとう」を言いたかった。
また「家に帰りたい」が始まるかなと思いながら声をかけると、目を覚ました父は「ああ、来てくれたの」と、布団から手をこちらの方に出した。そして「よく来てくれた。ほんとによく来てくれた。ありがとう、ありがとう」とまるで何十年ぶりかで会うように感極まった様子で、覗き込んだ私の顔を痩せ細った両手でさすった。
「今もうすぐお母さんも来るよ。昨日もみんなで来たんだけど覚えてる?」
「昨日」と父は改まった声で言った。「お母さんに、お父さんがここにいるのがお母さんのためにも一番いいと言われて、そう思うことにした」
「そう?そう思ってくれた? よかったぁ」
頭のどのチャンネルが切り替わったのかわからないが、昨日とはえらい違いだ。やがて入ってきた母は父の変化に喜び、父の顔を両手で挟んで、「毎日、お父さんどうしてるかなって思ってるのよ。忘れたこと一回もないのよ」と優しい声で話しかけた。
しかし、思えば父が最初に入居した頃もこんなふうに日によって気分の上下が激しかったので、慣れるまでまだいろいろあるかもしれないと思った。


案の定その夜中、父はまた問題行動を起こし、翌日訪問した母には「ここは昼間、部屋に戻らせてくれないんだ」(戻ると寝てしまうので、なるべく食堂にいるようにされたらしい)、「おかゆみたいなものばかり食わせる」などと不満をぶちまけ、介護スタッフの悪口まで例の大声で言ったらしい。
「スタッフの人たちみんな感じがいいし、ほんとに親切にしてもらっているのに、もう申し訳なくて。こんなふうではそのうち追い出されるんじゃないかしら」。電話口の母の声は、疲れきっていた。
「追い出されるなんてことはないよ。あまり心配しないでプロに任せておこうよ。そのために預けたんだから」
「でもあんなに人に迷惑かける人もいないわねぇ。いっそ、ボケて何もわからなくなった方がいいかしらねぇ、文句も言わなくなって」
「まあボケも進行するだろうけど、施設にもそのうち慣れると思うよ」
「でもねぇ、また誤嚥して肺炎起こすかもしれないし‥‥。そうしたらお父さんまた苦しむでしょう。それも可哀想だしねぇ」
家で父から目が離せなくなり母の気力と体力が限界になったから、父に施設に入ってもらっているのに、今度は施設での父の様子に一喜一憂している母。父本人より、くよくよと要らぬ心配をしている母の心労の方が気になる。


それまで食べたい時に食べ寝たい時に寝て、何もかも自分のしたいようにしてきた老人が、一応は規則正しい集団生活が基本になっている養護施設での生活に慣れるには、それなりの時間がかかるだろう。
同様に、朝から晩まで夫の世話に明け暮れてきた妻が、夫の介護を完全に人に委ねるという状態に慣れるのにも、相応の時間がかかるのかもしれない。
そのまた翌日、念願だった歯医者に母の付き添いで施設の車で連れていってもらって、父は再び機嫌が良くなった。昼食が始まったので帰ろうとした母に、「お母さん、体を大事にするようにね!」と食堂に響き渡るような大声で言ったという。



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「お母さんを、抱きしめたい!」と父は言った
父との会話
父と唱歌(追記:介護とお金と施設)

(追記)介護とお金と施設

介護ってもう心の底から考えたくない問題 - Togetter入院2年、老親の2000万がなぜ底をついたか:PRESIDENT Online - プレジデントなどを読んで、自分の家のケースについて少し書いておきたい。
父に脳梗塞の後遺症のてんかん発作が頻繁に起こるようになり、母がそれに対応しきれなくなって、すぐにでも父を病院か介護施設に移さないと、父母ともに危ない状態になったのが今年7月初め。父は要介護認定2。料金の安い特別養護老人ホームへの入居は数年待ちなので、それは諦め、父が入院している一ヶ月の間に、病院から紹介された民間の施設を母と叔父がいくつか回った。私もネットで調べてみた。
まず入居金の額が15万くらいから1000万以上まで非常に差がある。後者はかなりのお金持ち向けか、独居老人(又は夫婦共)が家を売って入所するパターンだろう。次に、月々の料金も20万弱から40万くらいまで差があった。部屋の条件、一人あたりの介護士の人数、24時間体制か否か、クリニックを併設しているか否か、その他細かいサービス、食事内容、立地環境などで差がついてくるものと思われるが、一番大きいのは施設の建設自体に掛かった費用ではないかと思う。やはり新しく大きくきれいな施設であるほど高いようだ。
母は最初、父の年金の範囲で月額料金と自分の生活費を賄うつもりでいたが、そのランクの施設は母の気に入らず(曰く、窓の外に見える周辺環境が悪い、部屋があまりきれいでない、消臭剤の匂いがキツかったなど)、結局入居金が50万程度で、月額料金が30万ほどの施設を選んだ。母にしてみると父を施設に預けるのは(やむを得ないこととは言え)一抹の罪悪感が拭いきれない、だから少しでも良いところに入れてやりたいという気持ちが強かったようだ。
その施設の月額料金は父の年金だけでは払えないので、母は貯金を少しずつ切り崩している。もちろんまた医療費がかかる可能性もおおいにある。「あと10年やそこらは何とかなるから。ならなくなったら家を売る。私の分もちゃんと確保しておくからお金のことは心配しないで」と母は言う。私と夫は親に比べて金銭面のゆとりがないので、とりあえず当面の負担費用を払う余裕が親にあるということは、有り難いことである。義父も父と同様公務員で小さいが持ち家があるので、おそらく似たようなパターンになるだろう。親の金がなくなれば自宅介護ということになろう。一応その覚悟はしている。
父の入所している施設には二回行ったが、きれいで広々としてスタッフの人も皆感じが良い。だが、自分たちが将来このようなところに入れるとはとても思えないし、自宅介護されるにも子どもがいない(いてもしてくれないかもしれないし)。私(53歳)がもし平均寿命まで生きたとするとあと30年余り。このままいくと年金も老人医療も破綻し、今よりはるかに多くの貧しい老人が巷に溢れ、一方で介護士は今以上に圧倒的に不足しているだろう。長生きしなくてもいいので、介護が必要になる手前でうまく死ねないかなどと思っている。

父と唱歌

介護付き有料老人ホームに入所して一週間になる父87歳を、先日の月曜日、初めて一人で訪ねた。実家の母はこれまでのバタバタが一段落ついたところで、疲れが出たのか熱を出して寝ている。夫が一緒に行く予定だったが、一人で行くことにした。一人で行きたい理由があった。
母の話では、入所から三日目に叔父(母の弟)を伴って出かけたところ、廊下にいた父は手を広げて待っていて、「会いたかった、会いたかった」と泣き出さんばかりにしがみつき、「病院の方が良かった」だの「島流しに遭ったようだ」だの不満を並べ立て、いくつも施設を回ってさんざん悩んだあげく、見た中では一番良い(その分料金も張る)ところを父のために選んだ母は、心底ガックリして帰ってきたそうだ。
ところが一日置いてからまた訪ねると、今度は打って変わって上機嫌で「あれからよく考えて、いいところに入れてもらったと思った」と何度も感謝の言葉を繰返したという。どうやらその日の午前中にお風呂に入れてもらい、それが大層気持ち良かったので機嫌が良くなったらしい。ホームの人の話では慣れるのにだいたい一ヶ月くらいかかるとのことなので、こういう気分の上下は当分続くのかもしれない。


昼食が終わって少し経った時間帯だったせいか、父は昼寝をしていた。「お父さん」と呼ぶと目を覚まして起き上がり、眠そうな目で私を見た。また母と間違われると嫌なので、急いで「サキコだよ。お母さんが熱を出したから一人で来たよ」と言い、ベッドの傍に椅子を持っていって腰を降ろした。
叔父が家から持ってきてくれた一人掛け用のソファと小テーブルがあり、小テーブルの上には若い頃の父と母の写真と、母だけの写真が写真立てに入れて並べてあった。入所時に持ってきたものだ。テーブルがかなり小さいため何かの拍子に写真立てが落ちそうなので、最初は母が、広い洗面台の上に並べておいた。「毎朝顔を洗う時に見えるから、ここがいいでしょう」と。それを父が、ベッドから常時よく見える小テーブルに置き直したようだ。
写真の前に、文庫本が二冊積んであった。父が母に頼んで、先日家から持ってきてもらったものだ。『きけ わだつみのこえ -日本戦没学生の手記』と『日本唱歌集』。『きけ わだつみのこえ』は父の持っている戦争関係の本の中でも、もっとも古い部類に属するだろう。単行本の方がボロボロになったので文庫本に買い替えたそれも、何度も手に取ったのかかなりくたびれている。


その日、父の気分が良かったら、好きな曲を何か弾いて歌ってあげたいと思い、家から小さなキーボードを持ってきていた(夫がいると少し恥ずかしい。一人で来たかったのはそのため)。それを取り出し、『日本唱歌集』を父に渡して「弾いてほしい曲ない?」と尋ねると、目次をゆっくり眺めて「富士山の歌」と父は言った。「富士山の歌? どういうの?」「♪あーたまをくもーの‥‥」「あ、それね」。
キーボードを父のベッドの足の方に置き、伴奏付きで1番を歌った。お隣の人の迷惑になるといけないので、やや音量を絞って。歌い終わると、父は目を細めてパチパチと手を叩いた。子どもの頃、ピアノを習わせてもらって良かったと思った。
「じゃあお父さん、これ覚えてる?」と童謡を弾いた。「昔よく歌ってたでしょう?」。「‥‥なんて歌だった?」と、父は思い出せないのがもどかしそうに言った。「『この道』。北原白秋」「ああ、そうか」
次に『浜辺の歌』。今度はタイトルがわかった。それから『箱根八里』『ふるさと』『荒城の月』。自信がないので人前では極力歌わない私だが、ここでならあまり気にせず歌える。最後の方では父は目を閉じ、何か思い出しているようだった。


帰宅して夫にこのことを話したら、「俺、仕事なくなったら、ギターの弾き語りで老人ホーム慰問しようかなぁ」などと言い出した。夫は「歩く昭和歌謡史」を自認するくらい、古い歌謡曲にやたら詳しい(ギターの腕前はそれほどでもない)。
三橋美智也とか高峰三枝子とか美空ひばりとか古賀メロディとか、何でもできるぜ」。ちょっと古過ぎるんじゃないの? そのくらいのを聴いてきた年代の人はもうかなり亡くなっていると思うけど‥‥と思ったが、父の入居している施設では4割が90歳以上だと聞いている(ほぼ女性)。1910年代から1920年代に生まれた人々である。古賀メロディもまだ需要はあるかもしれない。


日本唱歌集 (岩波文庫)

日本唱歌集 (岩波文庫)

父との会話

入院中の父を夫と見舞いに行った。ちょうど昼食が終わったところで、父はベッドの上に起きていた。
「お父さん、気分どう?」
「‥‥‥ああ」
「お昼、全部食べた?」
「‥‥ここの食事は、おいしくない」
父は言葉がスムーズに出てこないようだった。目を瞑って考え考え、喋る。母からは、「母の具合が良くないので、父は家に帰らず近いうちに”別のもっと良い施設”に入る」ことを、やんわりと父に伝えてくれと言われている。母から直接より、ワンクッション置いた方がいいだろうということで。
「ところでお母さんが体調崩してね、お医者さんにしばらく療養しなさいって言われてるの。もう今までみたいにお父さんの面倒看れないの、お母さんは。だからお父さん、ここ出たらもっと御飯のおいしい、お部屋も広いところに移るからね。お母さんも元気になったら時々来れるから。ね?」
目を閉じて聞いていた父は、薄笑いを浮かべて私を見、
「何言ってるの。あんたのお母さんは、もう死んだがね」*1
と言った。ギョッとして夫と顔を見合わせた。
「え、お母さんよ、お・か・あ・さ・ん。いつも御飯作ってもらってたでしょう。体調悪くて今日は来れなかったんだよ」
「ちがうちがう」
父は手を振った。なんとなく厭な予感。
「お父さん。私は誰だった?」
ニヤリとし、何を当たり前のことを訊いているのだという顔で、父は答えた。
「あんたは、僕のワイフだがね」
父は完全に、私を母だと思っていた。


先日、母と叔父が来た時は、ちゃんと個体認識していたという。夫のことも、最初叔父と間違えたが、訂正したらすぐに了解した。一ヶ月前に夫が話した夏休みの被災地ボランティア授業の話まで覚えていた。なぜ私だけ認識できないのだろう? なぜ、私を母と間違える? 
混乱した父に、なんとかして自分が妻ではなく娘だとわからようとした。見ていた夫が後ろから「もうどっちでもいいじゃないか」と口を挟んだ。「そんなこと言ったって」と言い返さずにはいられなかった。どっちでもいいなんてことないでしょ。
父と私の噛み合わないやりとりにいたたまれなくなったのか、やがて夫は黙って病室の外に出ていった。


「いい?お父さん、お父さんには奥さんがいます。カズコです。そうだね?」
「‥‥あんただがね」
「それから娘もいます。いるね?」
「‥‥‥ああ」
「上がサキコで、下がユリコです。そうだね?」
頷いて、私の言葉を吟味するように父は目を閉じた。
「私はサキコ。あなたの娘。私とユリコのお母さんが、お父さんの奥さん。ね? いつも「お母さん」て呼んでるでしょ」
父は眉間に皺を寄せてぎゅっと固く目を瞑った。そして訴えるように、
「もう、ややこしくしないでくれよぅ」
と言った。


私のしたことは、認知症の老人に対してまったく良くないアプローチだった。
相手が思い違いをしていても、否定してはいけない。無理矢理わからせようとするのもいけない。それとなく話を変えた方が良い。そういうことは知識では知っていた。しかしいざそれが自分の身に降り掛かってきた時、私には余裕がなくなってしまった。父が私を認識できないということがとてつもなく悲しく不安で、その感情に自分が負けてしまった。


その後、実家に寄って母と叔父に父との会話を話した。「あんたのお母さんは、もう死んだがね」を、自分が死んだことにされてしまったと勘違いした母は泣きそうになった。あんた=(私)=お母さんだから、あんたのお母さん=だいぶ前に死んだおばあちゃんということになるので、お母さんは殺されてないよ、と言って宥めた。私と母が一緒に行けば、まだ見分けはつくだろう。
叔父「しかしそれはまあ、ちょっとショックだったわなぁ」
夫 「適当なところでやめときゃいいのに、この人もムキになってポンポン言うもんでさ」
私 「だって‥‥焦ってたんだよ内心」
母 「そのうち、あなたに向かって『お母さんを、抱きしめたい!』って言ったりするかしらねぇ」
私 「うわー。でもそしたら言う通りにしてやるわ」
叔父「おや?お母さんちょっと太ったね、なんて言ったりしてね」(一同大笑い)
最後は笑いも出て、私も母も少し気分がほぐれた。笑いにでも包まないとやってられないという気持ちも少しはある。


夫の知人の話を思い出した。まだそんなにボケの進行していないお母さんが病気で入院し、息子は時々病室に通っていた。ある日もひとしきり世間話をした後で、お母さんは「ところでお宅さん、どちらさんだったかね?」と息子に尋ねた。悲しいというのも通り越した、何とも言えない虚しさと寂しさに、言葉が出なかったという。
私の場合は母と取り違えられたので、「誰だかわからない」ところまでは行っていない。いつかはそうなる可能性が高いにしても。
父に「あんたは、僕のワイフだがね」と言われた時、ごく幼い頃の私の口癖だった(らしい)「パパのお嫁さんになる」に、50年も経って父が答えたような奇妙な感覚に、一瞬囚われた。あのシュールな衝撃を、私は当分忘れないだろう。

*1:「〜(だ)がね」は名古屋弁で、「〜じゃないか」「〜なんだよ」といった、意味を強める語尾。「〜だけどね」ではない。