谷亮子について考える

金屏風の前の女

向うところ敵なし。一点の曇りもない勝利。押しも押されもせぬスター。
このオリンピックでまた金メダルを獲得した谷亮子は、もはやアンタッチャブルな存在である。
もともと柔道にもオリンピックにも興味はないので勝とうが負けようがどうでもいいし、スポーツ選手としての谷亮子に何の文句もない。文句つけようがないし。
ただ私は谷亮子という「女」にだけ興味がある。その「女」のプライベートな部分を、彼女はマスコミに売ってきたからだ。


亮子の「女」としての迷いのなさ、根拠なき自信に、私はこれまで圧倒され続けてきた。
かつて「将来は女優になりたい」などと口走ったのは失笑もので済んだが、結婚式に至るあれこれと新婚旅行までをすべてドキュメントさせた(「された」と言うより「させた」)番組(この春放映された)は、本当にすごかった。先日久しぶりにテレビで試合後の谷選手の満面の笑みを見て、それを思い出した。


女性性が排除されているプロスポーツ界にいる反動であろうか、とにかく結婚披露宴にまつわるありとあらゆるところに、田村亮子は異常に細かくこだわっていた。もちろん夫の意見などハナから眼中にない。というか夫に意見はない(たぶん)。主役は徹頭徹尾、私亮子。
結婚披露宴くらいでしか主役になれない平凡な女であったら、そこに賭けるというのもわからないではないが、プロスポーツ選手の彼女は恐ろしいほど真剣勝負であった。試合に望むがごとき、鬼のような厳格さであった。
会場の金屏風の花吹雪の絵柄を自らデザイン。もちろん衣装も全部自分でデザイン。事前の衣装合わせにも余念がなく、造花一輪に至るまで妥協を許さない。
似合っていようがいまいがお構い無しなのは、どんな結婚式にもある程度言えることだから仕方ないが、若さのかけらもないコテコテの過剰なデザインである。いや他人のセンスをとやかく言うのはやめよう。本人がいいと思ったらいいことだ。
新婚旅行にテレビのクルーを同行させた異常も、とやかく言うまい。「『女』として絶頂期にいる谷亮子」「意外と女らしい素顔のヤワラちゃん」を、どうしても見せたかったのだ。どれも素顔じゃなくて、テレビを意識しまくっているということは見ればわかるのであるが。


一度掴んだものは絶対に離さない。すべて自分が仕切る。そしてスポットを浴びているのは常に自分。
これが谷亮子の「女の生き方」である。 スポーツ界の松田聖子
しかし見苦しいものは見苦しい。ビジュアル的にというよりも、「私のプライベートをみなさん見たいでしょう、じゃあひとつサービスしてあげましょう」という鼻持ちならない態度が。芸能人でもないのにそんなことサービスされても、目のやり場に困る。


「国民的アイドル」から「国民的スター」としての、磐石のイメージ戦略が出来ているという計算が、亮子にあったのだろうか。そんなことしなくても、十分スターなのに。
だが自分の勝利を自ら「前人未到」「偉業」などと言ってしまうスポーツ選手というのも、あまり聞かない。新婚旅行を国民に見せてしまう人は、もっと聞かない。これまでマスコミに登場する時の、あらかじめ用意していたかのようなキメのセリフ、「タレント」ぶりに常に私が感じていた違和感が、この番組でもあらゆるシーンに溢れていた。
結婚してからやたらに夫の姓を強調しているのも何となくうっとうしいが、いくら世界チャンピオンだからと言って、ここまで増長を許していいものだろうかと、真面目に思った。そういう番組を、怒りながら最後まで見ていた自分にも腹が立つ。

美しいが美しくない

私が真に怖れているのは、亮子の「引退後」の身の振り方だ。
よもや政界に打って出るつもりでは。かつて自民党大会に招かれて出た「前科」のある彼女のことであるから、出て来ないとは限らない。もしも参院選から立候補なんかしてしまったら、そして当選なんかしたらどうしよう。「政界のマドンナとして」いや「政界のヤワラちゃんとして」とか自分で言ってしまいそうである、今までの言語センスを見ると。頼むから出てこないでくれ。自民党ではダメで、共産党だったら許すとかいったレベルの問題ではない。
しかし政界の「金屏風」なんかも似合ってしまいそうなのが、しみじみと怖い。万が一入閣でもした暁には、かの扇千景ばりのドレスで初登院することは間違いないだろうし。


想像したくないが、芸能界入りも頼むからやめてほしい。まあ日本の政界より芸能界の方が厳しいだろうから、これはどうにもいじりようがないと思われたら、田島寧子みたいにすぐ消えるだろう。「ヤワラちゃん」ファンはそんな谷亮子を見たいだろうか、見たくないはずだ。
しかしそれよりも、「女」としてもすべてを手に入れたい亮子であるから、子供を産むという選択は大ありだ。これまでの様々なインタビュー時の用意周到さからして、今から母になった時のセリフを用意しているのではないかと思う。


世の中の人は、谷亮子が好きらしい。とにかく健気に頑張っている姿がいいと言う。
化粧気もなく闘っている女の姿は美しい。血の滲むような努力をして勝つ女は偉い。私もそのことに異論はない。とても普通の女が到達できない地点に独力で立っているというだけで、すごいと思う。
そこに感心させてもらえればもうそれで十分なのだが、マスコミに登場する彼女を見ると、常にまだ十分ではない満足していないフシがある。


プロスポーツ選手は見られる商売である。メディアの露出が多い点で、俳優やモデルと同じである。プロ野球の選手もサッカー選手もスターになれば、マスコミ的には「タレント」の一種だということだろうから、プライベートが詮索される。プライベートとはもちろん恋愛、結婚(離婚)のことに決まっている。
私がまさにそうだが大衆というのは下世話な欲望を持っているので、スポーツ優等生が優等生であればあるだけ、そうした「性」の様態の一端を覗き見たい。
しかし当事者がそれを売りにするのは、あまり美しくない。美しくはないが売れるので、ひょっとして美しいのではないか、そこに見る価値があるのではないか、という勘違いが起こる。騒いでくれないなら、私から騒いでやろうというマッチポンプ的行為まであと一歩。


せっかく手に入れた「闘う女の美しさ」が、そこで決定的に損なわれていることに、谷亮子は気づかない。周りも気づかない。
大変美味しい料理を頂いてもうお腹いっぱいなのに、また別のフルコースでもてなそうとする困ったサービス精神。もう食えんっていうの。


柔道の選手としても「女」としても、まだまだ上を目指し、それを我々にたっぷりと見せてくれる谷選手。一方は美しく一方は美しく見えないという二律背反。それが、真の二律背反となって誰の目にも映ってくるのはいつのことか。
そこに行く前に、彼女とその周辺のスポーツマスコミはどんな「イメージ戦略」に打って出るのか。
そういうわけで、まだしばらく亮子からは目が離せない。



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