谷亮子について考える2

誰も書かないこと

「すごいのは認めるけど、何となく嫌い」。その理由を先日分析してみたわけだが、何か物足りない。まだ悪口言い足りないということではなく、何か重要なことに触れていないという気がする。考えていてそのもやもやの正体がわかった。
つまり、谷亮子は、美人じゃないということである。 そのことに私はきちんと言及せず、避けて通っていたと思う。
また人の顔をことをあれこれ言うのかと言われても、そこがすべての違和感の出発点だと気づいた今は、そこから改めて話を始めざるをえない。


美人じゃないことがいけない、という話ではもちろんない。そうだったら世の中の女の少なくない割合を占める不美人(私も含めて)にとって、ただの理不尽な話となる。
ではなく、美人ではないという自覚が何ら言動に現れていない、ばかりか自分を美人だと思っていないか? 自己認識を間違っていないか?「ヤワラちゃん」は。そういう拭い難い疑念が、彼女に違和感を持つ人々の中にあるということだ。誰もそれをはっきり書かないので、ここらで書かないといけないと思う。


美人とは決して言われない女というのは、よほど性格が歪んでない限り、謙虚である。自信の持てる何かが内面にあっても、自分の社会的地位が高くても、心の奥底に常に一抹の不安定要素を抱えている。
統計をとったわけではないが、それほど美醜で判断されていると女自身が意識せざるを得ない局面が、世の中に多いということである。
だから、美人で態度のでかい女は「ちょっと美人だからって」と妬まれ、不美人で態度のでかい女は「ブスのくせに」と蔑まれる。美人で謙虚な女は「あんな美人なのにいい人だ」と褒め讃えられ、不美人で謙虚な女は、別に面白くも何ともないので何も言われない。
まったく、女は救われないと思う。


すべてにおいて堂々としている「ヤワラちゃん」は、そんな女のちまちましたいじましさとは無縁である。美人だのブスだのの境界腺に一喜一憂している愚かな女達とは、完全に一線を画した闘いぶりで世間の支持を得てきた。
プロスポーツ選手、しかも「男らしいスポーツ」と看做されていた柔道の選手だから、本人にとっては当然かもしれないが、世間の方も「食い気は出しても色気は出してはいけない種類の女」と、彼女をカテゴライズしていた。世間とは横暴だ。亮子にだって、色気も性欲もあるのに。


もし彼女が「プリンセス・メグ」みたいな可愛い顔だったら、あるいは女子プロレスキューティ鈴木(古い)みたいなグラビアアイドルタイプだったら、事情は違っただろう。おじさん向け雑誌の巻頭グラビアでひっぱりだこだったかもしれない。女性向け雑誌のファッションページに一回くらいは登場できたかもしれない。
しかしいくら「ヤワラちゃん、かわいい」って言ったって、その「かわいい」のベクトルが違うんだから、女の子がナルシシズムに浸れるような「仕事」は彼女に来ない。


結婚披露宴のドキュメント番組も、「セクシー始球式」(そういうものがあったらしい)に対しても、ブラウン管のこちら側にあったのは怖いもの見たさの欲望でしかなかった。試合では堂々としていてもらいたいが、色気方面のことではあまり堂々としていてほしくない。それが世間の彼女に対する、意地悪な思惑であった。

マスコミのいやらしさ

しかし世間が自分をどうイメージしようと、亮子本人には関係ない。むしろ美人じゃないという「ハンディ」を跳ね返すかのような大胆な行動すら取ってきた。一週間ほど前、それを思い出させる記事を見た。
週刊文春・夏の特大号。「アテネに咲く女神たち」として、カラーグラビアに八人の若い選手が、モデル並みのファッショナブルな装いで登場している。
もちろんそこに亮子は入っていない。どこに登場しているかというと、「日本人メダリスト達、栄光の軌跡」というモノクロページである。96年のアトランタ大会で「まさかの銀メダル」となり、敗退直後の肩を落として座り込んでいる田村亮子の写真が載っている。よりによって。


解説は「(前略)さぞガックリと思いきや、直後に自転車競技十文字貴信と仲良く手をつないでのショッピング。ヤワラちゃんの精神力と腕力の強さに日本中が恐れ入ったが(後略)」。
「腕力の強さ」が柔道方面のことでないのは明らかである。まるで「ヤワラちゃん」が十文字貴信を「腕力」で強引に誘い、強引にショッピングにつき合わせたかのごとき連想をさせる。自分のことは棚に上げて言うが、なんという底意地の悪い書き方。
その隣の写真は、十文字選手であった。
「(前略)というより『ヤワラちゃんの五輪デートのお相手』と言った方がピンとくるかもしれない。当時『メダル獲って、浮かれて見境がつかなくなった』という関係者もいたけれども」
これを読んだ時、一瞬だけ亮子に同情した。この書き方は、ほんとにいやらしい。書き手の浅ましい下衆な根性が透けて見えるようだ。言外に、「田村亮子とデートするなんて、よほど見境のない状態の男のすることだ」と言っている。
はっきり言ったらどうなんだ、田村亮子は恋愛対象にはならないと。それが言いたいだけでしょうが。
こんなもって回った言い方で揶揄されていたら、そりゃ闘争的にもなるよな。


そう言えば谷佳知選手との「キャンプデート」の時も、えらい言われようだった。
プロ野球選手のキャンプ合宿に押し掛けてくるとは、どういうことだ色ボケが!というニュアンスもあったが、美人でもないのにまあ色気づいちゃって、堂々と恋愛なんかしちゃって‥‥という視線がそこにあったのは事実である。
「美人じゃないと恋愛してはいかんというのか?」と言い返したくもなっただろうと思う。いや「プロ野球選手をゲットできる私をみんなが嫉妬している」と思ったかもしれないが。
いずれにしても、私を小バカにした世間をそのうち思いきり見返してやる(ような結婚式を挙げる)、と思ったに違いない。

死ぬまでファイティング・ポーズ

こうして、亮子の胸の拳はどんどん固くなった。
試合に対してはもとより、私生活でも常にファイティング・ポーズ。谷佳知に向けてというよりは、世間に向けて。「披露宴&新婚旅行」番組も「セクシー始球式」も、狙い澄ましたかのようなインタビュー時のセリフも、その闘争心の現れである。
あんた達、私が美人でないって一点だけで今まで散々コケにしてきたな。思い知らせてやろうじゃないか、これでどうだ。まいったか。
そんなこと実際に思っていたかどうか知らない。「もう何をやっても注目されちゃうなあ」と悦に入っていたかもしれない。
しかし今ほとんど亮子の精神分析モード(患者はここにいないけど)に入っているので、無意識では「思い知らせてやりたい」と思っていたんじゃないかということにして頂きたい。


そうやって「闘争」しているうちに、何かと「女のヤワラちゃん」「セクシーなヤワラちゃん」というものを売りたがるマスコミに乗ってしまっていた亮子である。そういうかたちで見られることに快感を覚える点では、普通の女性であると思う。
しかしそれが単なるナルシシズムであると認めるのは、前人未踏の偉業を達成してきた闘う女としてのプライドが許さない。「みんなが私のすべてを見たがっている」というふうに自分を納得させ、そういう通常は「美人用」のポジションに勝手に居座ってしまったところが、亮子の計算違いであったと思う。


世間は美人の色恋沙汰やセクシーショットには目がないが、不美人のそれには冷たいという原理原則を、彼女はスルーした。ここまでは好感を持たれ、ここからは反感を招くというラインが、柔道一直線でやってきた彼女には見えない。そんなものいちいち気にしていたら、五輪二連覇などできなかっただろうが。
あまりにも「大物」になってしまった彼女の周りには、イエスマンしかいないのかもしれない。自分に関するすべてのことが有り難がられていると思えば、どこまでも昇っていってしまっても仕方ない。
そんなところに「ヤワラちゃんはあんまり美人じゃないんだから、マスコミにはしゃいで出るのは控えた方が」なんて面と向って言ってみなさい、投げ飛ばされる。


ちょっと前、松浦亜弥がドラマで柔道少女の役をやるというので、指導している場面を週刊誌で見た。二人が、顔を寄せあって撮られている写真もあった。それを見て、メディアというのは徹頭徹尾、不美人への悪意に満ちたものだと改めて思った。もし私ならそのショットだけは固辞したかもしれない。
が、谷亮子はいつものようにニコニコ笑っていた。笑っているにも関わらず、あくまでファイティング・ポーズを崩さないような雰囲気。
もうかなわんな、この女には。俗人のスケールではない。拳の固さが違うのだ。