ニュース23の「WAR AND PEACE」

仲良しの二人

坂本龍一もうダメダメだなと、昨日のニュース23を見て改めて思った。
ニュース23の15周年記念企画で、全国から「WAR AND PEACE」というテーマで詩(朗読)を募集し、それに坂本が曲をつけたということである。二千数百もの応募があり、そこから19人の詩が選ばれて、それぞれが住んでいる日本各地にテレビ局が赴いて朗読の模様を撮影、録音している。
そうした制作過程のVTRが放映され、坂本が筑紫哲也にインタビューされ、曲が演奏された。
しかし何度目だろう、坂本龍一筑紫哲也の番組に出るのは。坂本は筑紫の番組でもっているんじゃないかと思えてくる。


ちなみに、「WAR AND PEACE」の英語版は既に今年出たアルバムに収められていて、そこでは坂本の作った詩を職業、人種、年齢さまざまなニューヨークの人々20人に一節ずつ朗読させているらしい。
なぜ自分で読まないのだろうか、自分の作った詩なのに。他の人々が読んだ方が、職業、人種、年齢を超えた多くの人が戦争と平和について考えているという雰囲気が出て良いからであろうか。たぶんそうだろう。
なんとなくイージーな発想だと思うが、このCDは話題になったらしい。話題であるということをさっそく筑紫が2月に番組で取り上げ、そのことだけで坂本をスタジオに呼んでいた。


それで、今度は日本語版である。告知のページ(07/11/23追記:現在はない)冒頭には「〜 皆さんからの詩と声を募集します 〜“戦争反対”、“平和主義”。そんな言葉がとどかなくなった世界。とどく言葉を一緒に探してみませんか?〜坂本龍一ニュース23」とある。
筑紫哲也はそこで以下のようなメッセージを発している。

『視聴者の皆さんと共に、この曲の日本語バージョンを作れないだろうか』 
坂本さんからこんな問いかけがあったのは、ことし2月、彼の番組出演の直後でした。
戦争と平和は「筑紫哲也 ニュース23」が番組発足当初からこだわってきたテーマでもあり、アイデアはふくらみました。
番組も今年15周年を迎えますが、みなさんからの "とどく言葉”をお待ちしています。


戦争と平和にあの番組がどうこだわってきたのか、私には全然わからないが、"とどく言葉"って何だろう。
反戦」が戦争に向う当事者に「とどかない」言葉になったとしても、結局「反戦」以外にメッセージ内容は考え難い。
そして、誰もが戦争はいやだと思っているはずなのにも関わらず、戦争が起こっているのだから、それは戦争をやってる(やりそうな)当事者に届かねば意味はないだろう。
しかし歌ごときで戦争が止むはずもない。
なら、当事者を選挙で支えて戦争に加担しているのが一般市民だから、やはりまず一般市民に届くのが重要ということだろうか? 
でもそういうメッセージって、もうみんな聞き飽きるほど聞いている。いったいどこにどのように「とどく」のがいいというのだろうか? 
この文面からはそれが曖昧である。


それにしても、この告知ページ。坂本の写真貼り過ぎ。ジャケ写真以外に3枚もカッコつけたやつが。こういう企画で、どうしてこうも自分を露出しないといけないのだろうか。
ただこういうのをブチ上げて、全国19箇所のロケを敢行し、それぞれの人の映像と共に坂本の曲を流したら、ニュース23の15周年、いや「戦争と平和」にこだわってきた筑紫のニュースキャスター15周年記念を飾るに相応しくはあろう。筑紫の飛びつきそうなことだと思う。


ニュース23は筑紫の個人番組である。自分の名前が冠されているのをいいことに、まともなニュース報道をきちんとやらないで、自分の趣味に偏った好き放題なことをしているなと思う。
昼間TBSで流していた国内ニュースを、なにも編集せずそのまま流すだけだったこともある。それで筑紫の好きな文化人インタビューだとか、海外ロケなんかに時間と金を割いている。
多事争論」なんかも、そこらの人でも言えるようなしょうもないコメントしか言わない。割舌も悪い。本当につまらない。なのになぜか大変エラそう。すごく自己評価が高そうなのが伝わってくるところは、坂本と共通している。


夜11時台のニュースというのは、終日仕事などでニュースが見られなかった人のためにあるはずだが、仕事から疲れて帰ってきて、ああしたキャスターと音楽家の馴れ合い的な場面を見せられると、大抵の人はうんざりすると思う。
私からすれば、筑紫がテレビで言うところの「戦争と平和」なんてどうでもいい。
筑紫哲也坂本龍一という「文化部の男」の、見事な結託ぶりだけが見物である。


平和の詩

坂本龍一は詩を募集にするに当って次のようなメッセージを発している。

英語版『WAR AND PEACE』は、イラク戦争のころ作りました。
なぜ人間は古来から戦争ばっかりしているのか。そんな根本的な疑問が浮かんだんです。
かなりひねって、ユーモアを入れて作った歌詞なんですけど、今回募集するのも単純に「反戦」や「非戦」でなくてもいい。
「なんでお父さんは暴力をふるうんだろう」でもいいし(笑)。
みなさんなりの、WAR AND PEACE、どしどし応募してください。


英語版の詩は疑問形ばかりで、確かに単純な「反戦」や「非戦」ではない。さすがにそういうメッセージでは「とどかない」こと、歌で反戦平和を訴えるのことの幾許かの虚しさを坂本は知っている。
暴力によって権力を掌握し他者を支配したいという人間の欲求と、その欲求に見合ったかたちで形成された社会を、人為的にコントロールしない限り戦争はなくならない。そして既にこれまでのような「人為的コントロール」は尽きているのだから、今のままだと絶望的だということである。そのくらいまでは、坂本もバカではないので認識していると思う。


そういう坂本の「憂鬱」に反して(?)、番組で紹介された詩は予想通り、素朴な「反戦」「非戦」ムードの強いものだった。
おそらく二千数百通のほとんど全部が「戦争をやめよう、殺しあうのはやめよう、平和が一番」というメッセージのものであったろうと私は推測する。
「人間は戦争する生き物なんだからしかたない」「平和は永久にこない」「北朝鮮に戦争をしかけろ」なんてのは、おそらくないはずだ。
しかし全国からそれだけの応募があったというのは、すごいことなのかもしれない。特に10代の応募が目立ったという。
そしてその人々は、やはり心から純粋に平和を願って書いているのであって、選ばれたらあの坂本龍一のCDに自分の詩が載る(当然名前もクレジット)とか、ニュース23に取材されて一躍有名になるという「名誉」に惹かれて応募した、と思ってはいけないのだろう。ニュース23的には。


誰でも「戦争がいい」とは思わない。
「世界が平和になればいい」とは誰でも言うことである。
誰にでも言えるから、それだけの応募があったとも考えられる。
こんなに応募があった←世界平和を願うメッセージの多さ←坂本龍一知名度筑紫哲也(=ニュース23)の威力、というふうに見せたいのがわかってしまって、応募した人には申し訳ないけど私はとてもしらけた。


個人の純粋な祈願というものはあると思う。
年の始めに神社に行って「今年も健康で働けますように」というのは、心からの祈願だ。神に祈っているのである。誰かにお願いしても無理な話だから神に祈る。
「世界が平和になりますように」という祈願も同様だ。「世界平和」というのはそういうものになっている。いくらピース・デモをやっても国会を取り囲んでも、戦争阻止は無理だったという事実があるのだ。


無理だからしなくてもいいという論理にはならないが、しても「とどかない」ことをしているのではないかという認識は必要だ。
たとえ無理でもしなければならないという一点しか、そういう行動を支えるものはない。それは決して癒しではないはずだが、時々癒しに見えてしまう。歌ならなおさらである。


平和祈願の詩に、上手い下手は関係ないだろう。しかし何らかの基準でもって選ばなければ、曲が作れない。二千以上のフレーズを一曲に乗せるのは、いくら坂本龍一でも難しい。やってみたらよかったのではないかとも思うが、曲として売れる商品にはならないだろう。
純粋で真摯かもしれない二千数百の平和のメッセージより、当然ながら曲としての出来、作曲家坂本龍一の「音楽性」が優先されるということである。
それで19人に絞られたわけだが、それらのどこが「とどく言葉」で、選ばれなかったのはなぜ「とどかない言葉」なのか、こちらにはわからない。
選んだ後の感想として坂本は「もう少し(地域が)ばらけるとよかった」というようなことを言っていた。つまり方言のバラエティがもっと欲しかったということである。詩の募集の段階でも「土地の方言やお国言葉も大歓迎」と言っている。
そうすれば英語版でやったみたいに、こんなにいろいろな地域の言葉遣いも異なる人々が平和を祈願しているということを表現できるからであろう。自分のCDにそういう言葉のバラエティを作って何か「幅」みたいなものを持たせて、それで「訴求力」を高めたいということだろう。
高名な音楽家が、こんな浅いアイデアで曲作ってしまっていいのかと思うが、作ってしまうのである。


とどかない言葉

さて、その曲であるが、なんといったらいいのだろうか。例の坂本調のとりとめのない感じの音に、19人の朗読がちりばめられている。聞いていてなんだか陰々滅々としてきた。
ひとつひとつの詩は心の籠ったものなんだろうに、こうして処理されるとまるでお経のように聞こえる。 力強くも楽しくもない。感動もない。ひたすら坂本の自意識だけが伝わってくる。やはり、これだけ「平和の祈り」があるのに戦争がなくならない、という自分の憂鬱を表現しているのだろうか?  これがどこに「とどく」言葉なのか。


選ばれた19人は年齢、職業、住んでるところさまざまである。一般の無名な人に混じって、ミスチルのボーカルや吉本ばななも入っている。全般に比較的若い人が多かったように思う。
彼らがそれぞれの土地でそれぞれの方言で自分の詩を朗読しているビデオクリップが流れるのだが、それを見ていて私はなぜか気恥ずかしくなった。
それらの詩があまりにも素朴でストレートだったからではない。それもちょっとはあるが、そういう見せ方に、なにかとってつけたような、わざとらしさと押し付けがましさを感じた。あえて言えば「ニュース23的な感じ」と言おうか。


本人の「現場」での映像があれば、朗読内容がよりリアルに聞こえる、ということなんだろうと思う。また、音がついていれば、それが高名な音楽家のつけた音ならば、言葉もより訴える力を持つということなんだろう。
映像も音もなく、単に詩の朗読だけだったらダメなのだ。そういう演出というか、底上げ感覚というのが、いかにも業界の発想である。しかしいろいろ料理すればするほど、どうにも不自然さが募ってくる。
内容は「WAR AND PEACE」だが、実質的には「反戦平和」。誰もあえて反対しないテーマである。
そのテーマのもとに行われるすべてのことは、「良いもの、正しいもの」となる。
そういう大前提を皆で共有し拍手することが、この企画の条件なのだ。
そんなものが企画と言えるのか。


坂本龍一の書いた英語版の詩に曲をつけて、いろんな歌手にいろんな言語で歌ってもらった方が、まだいくらかマシだったと思う。
それでは芸がなさ過ぎるというなら、あの詩の疑問形に対して答を募ってもいい。「とどく言葉」ということを考えたら、答の詩を募集したっていいはずだ。
どうして問いのままで投げ出しておくのだろう。応答にしないのだろう。


結局、しても「とどかない」ことに居直っているのである。しても「とどかない」レベルだから、居直れるのだ。
したら「とどく」かもしれないというレベルで頑張っているのは、マイケル・ムーアである。明確に反ブッシュのメッセージを打ち出し、あれだけ影響力を与えるものを一人で作ってしまった。
坂本ははっきりと反小泉と歌えるのか。そういうことを歌わないから「とどかない」ということは、考えたことないのだろうか。なんとはなしに「反戦アーティスト」みたいな位置を確保しているだけなのか。


「WAR AND PEACE」は音付きの朗読だから、歌ではない。一応音楽の体裁にはなっているけど、坂本ファンでもない限り音楽として聴こうという気にはなれない。ビデオクリップとして成立するのがせいぜいだろう。「責任者」坂本龍一が、いったいどういうメッセージを発したいのかは曖昧だ。
筑紫とツルんでごちゃごちゃやってないで、自分で書いた詩を自分で歌うべきだと思う。
歌えないなら誰かにちゃんと歌わせて、それで「とどかせて」みろよ、音楽家を名乗るなら、と私は思う。


比較してはいけないかもしれないが、ジョン・レノンのイマジンは口ずさめる詩とメロディをもっていた。
誰かに「とどく言葉」を曲にするなら、ただ聞かされているのではなく、歌いたくなるものでなくてはならないと思う。言葉が「とどく」というのはそういうことだ。
もちろん、いくらイマジンが歌われたって戦争はなくならなかったし、それはもはや癒しとしてしか機能してないかもしれないが。