芸術家の行く末

この間、ある集まりの後の飲み会で、爆笑問題の番組『爆笑問題のニッポンの教養』に坂本龍一がゲストで出演したという話が出た。誰もその回を見てなかったのだがその人の話によると、太田が好きな音楽としてサザンをかけると坂本はうんざりした顔をし、「歌詞が聴けない」というようなことを言ったらしい。じゃあ『い・け・な・いルージュマジック』は?というと、「歌詞なんか全然聴いてなかった」と言ったそうだ。確かにたいして意味のない歌詞ではあったし、当時見ていてなんか恥ずかしかった。
で、彼が番組でかけた曲の一つがジョン・ケージの『4分33秒』だったという。非常にわかりやすい厭味である。


などと思っていたら、昨日たまたま、番組を見たらしいusukeimadaさんにトラバをもらった。
現代音楽に対峙する気まずさと場違いな思い - 倒錯委員長の活動日誌


これに私は

ケージ「聴かせた」って?元々アカデミックなのにポピュラー方面に色気を出したことに潜在的な罪悪感を感じていたサカモトは、大衆文化やサブカルへの嫌悪を刺激されたんでしょう(と番組見てないが言ってみる)。

というブコメをつけたが、ちょっと乱暴過ぎるのでその補足的メモ。


アカデミズム出身の坂本は、80年代初頭のテクノ、ニューウェーブ大流行の中でYMOを商業的に成功させた。その後『戦場のメリークリスマス』で映画音楽に色気を出したり、忌野清志郎と共演したり、いろんな音楽のミックスをやったりして、たぶんポストモダンを体現しているつもりだったのではないかと思う。だが巷の大衆芸能やサブカルの方がずっと速く猥雑で「面白い」。アカデミシャンのやるポストモダンは真面目だが遅い。


そこで坂本は現実にコミットしようと、ポリティカル・コレクトネスに手を出した。芸術的実験で行き詰まったアーティストが辿る道だ。でも、筑紫哲也と組んでみたり巷の人の声をミックスした音楽CD*1で平和を訴えることこそ、何よりも現実から遅れたものだったはずだ。坂本が番組で語ったという「音楽なら誰とだって共感しあえる、しあえるからこそそれは危険でもあるんだ」をそのまま敷衍すれば、平和のメッセージなら誰とだって共感しあえる、しあえるからこそそれは危険でもある。


爆笑問題に代表される下世話。世俗との結託。ポピュラリティ。それは、芸術家坂本龍一がもっとも憎む、というか憎んできたものだろう。であれば、芸術家は芸術至上主義でいくしかないことになる。一番最初に出ていたはずの結論に改めてそうやって居直るのでなければ、芸術を続ける理由は生業と惰性になる。
そう考えると、(見てないけれども)その番組での太田や田中と坂本の埋め難い溝は、ずっと前の太田と宮田藝大学長の溝より、ずっと深くまた意味のあるものだと思う。



●関連:ニュース23の「WAR AND PEACE」- Ohnoblog
「爆笑問題のニッポンの教養」7月15日放映が酷かった件 - Ohnoblog2

*1:全国のぼんサヨホイホイの音頭を取っていた。関連記事一番目参照。