不能者として生きる

能動態なき受動態

今年後半は災害のニュースばかりである。
台風といい地震といい、自然の前には人間は無抵抗な子供のごとき存在であることを思い知らされる。
自然現象に生活のすべてを左右されていた太古の人々と比べれば、人為的な力によって自然をコントロールしたり利用したりしてきたとは言っても、規模を超えた現象に対して、人はひたすら受動的であるほかはない。


受動の対概念は能動だが、台風や地震が能動的なものかというと、そういう言い方はしない。
暴君の圧制(=過度の能動性)に苦しめられつつそこに甘んじる無力な民衆(=過度の受動性)といったSM関係は、自然と人間の間に成立しない。成立するかのような気がするのは、自然を擬人化しているためである。
だから家を潰された人は怒りのもって行き場がなく、途方に暮れる。自然に意思や感情はないのだから、せいぜい災害対策を怠って開発ばかりしている行政に文句を言うくらいしかない。


こうした受動性の中に置かれているにも関わらず、受動を受動たらしめる一方の、能動性を発揮する主体はどこにも存在しないという理不尽。対応すべき能動態を持たない受動態とは、いったい何なのだろうか。
こんなことを考えるのも、この間の読書会で、能動/受動、サド/マゾの話が出たからである。


その話を簡単にまとめると、幼い子供はあらゆる情報に晒され、翻弄される受動的な存在である。成長するにつれてそこから脱却し、能動性をより深く身につけるのは、一般に男の方である。
積極性に富み他者を支配しようとし、従ってサディスティックで好戦的な傾向を持つ能動的な男のジェンダーと、その逆の受動的でマゾヒスティックな女のジェンダー。これが逆転した社会、逆転しないまでも隅々まで同等になった社会というのは、今だかつて存在しなかった。
しかし、サディストがなぜ対象をイタぶることに快楽を覚えるのかと言えば、イタぶられる苦痛を知っているから、ということである。苦痛を知らない、つまりマゾの感覚を知らないサディストというのはあり得ないと。
苦しみが起点であり、マゾが原型となってサドが生まれる‥‥。


以上の話を総合すると、人間は本来的に受動的でありマゾであり、「女」であるということになるのだろうか。
人間の本来性が「女」? 自然現象の前で右往左往し苦しみ、もっと生きたいという願いも虚しく死なねばならない人間の、圧倒的に受動態の存在様式を考えると、その通りにも思えてくる。


その中で女という性は、受動性をSM関係というファンタジーを築くことで積極的に維持し続けているのだろうか。少なくとも、関係があることを前提にしないと、苦痛の快感は得られない。
そうなると、女と男がそうした共犯関係を精算したか、そこから落ちこぼれた時初めて、人の本来的な受動性、能動態をもたない絶対的に孤独な受動性に、どちらも直面するということになるだろうか。


既にこの社会で人は、一様に受動的な存在となっているようにも思う。
あらゆる場面で大なり小なり競争を強いられ、その結果が二極化していくこの世界を、誰が能動的にコントロールし支配しているのか、具体的に見ることはできない。


そこに確固とした能動主体が見えないにも関わらず、恐ろしいほど受動性の中に置かれているという、漠然とした諦め。その諦めがだんだん露になってきている気がする。


能動性が発揮できないそうした状態を、不能と言う。人の本来的な受動性、圧倒的に孤独な受動態とは、不能の状態である。
不能者はSM関係始め、あらゆる関係から疎外されている。
そして不能という人の本来性、「苦しみの起点」が露になってくるほど、ファンタジーに私達は逃げ込みたくなるのではないか。そこには男女の関係性があり、関係性が生む苦痛があり、その苦痛を快感として私達(女)は泣くことができる。


そこで不能でありながら不能者の自覚を持てず、苦痛の快感にも泣けない男のジェンダーは、深刻な危機に見舞われると思われる。
それでも「男」から降りたくないならば、目的なき能動性=暴力に走るしかないかもしれない。

ゴリエと落ち武者

ところで話はがらりと変わるが、吉本のお笑いコンビ、ガレッジセールのゴリが演じわける様々なキャラの中で、抜きん出ているのがゴリエと落ち武者だということは、誰しも認めるところだろう。
サル顔のごつい男が濃いメークで金髪三つ編みにハイビスカスをつけて、ミニスカートを穿いて扮するゴリエ
元ネタはたぶん、しまおまほのマンガ『女子高生ゴリ子』で、かつてウッチャンナンチャンの内村が同様のキャラクターを演じたが、ゴリのゴリエはコギャル御用達雑誌Eggの表紙に登場してもおかしくない完成度だ。
コントでの「彼女」は他の芸人にツッコまれ「セクハラ」すらされる受動態で、根も葉もなく明るいナルシストのバカギャル。渋谷あたりにいるケバい女子高生を嘲笑いたい観客がSなら、ゴリエはMである。


これだけだと今まであったような虐められキャラと変わらないが、ゴリエは大勢のチアガール達を率いて派手なダンスを見事に踊りまくり、そのSM関係を脱臼してしまう。ヤケクソと言うのも憚られる一方的なポジティブさ。ほとんど、ショーアップされたゴリエのオナニーシーンと言おうか。
ゴリエは、他者のいない自己完結したファンタジーに生きる女の子だ。おぞましいものを見たくない上品な趣味の人は決して受けつけないであろうが、私は釘付けになった。「彼女」の純粋さに。


ゴリエ人気はニューハーフ人気と似ている。女の子達が熱狂するのもよくわかる。受動態キャラがあそこまで弾けたら、自分のことのように応援したくなるというものだ。
これを女性の芸人が演じていたら、たぶんこのカタルシスは得られまい。森三中あたりの誰かにやってもらいたいような気がするが、痛々しくも生々しくもなく突き抜けた爽快さでゴリエを演じるのは、至難の技であろう。ゴリエは過剰なジェンダーによってモンスター化した気の触れた醜女(最近はカワイイということになっているが、どう見ても醜女)だから、女がやるにはキツイと思う。


さて、ゴリエに次ぐ人気キャラの落ち武者もゲテモノだ。
白塗りの顔に頭部中央を剃った侍ざんばら髪で、しかもパンツ(又はふんどし)一丁の超ネガティブなビジュアル。最初にたまたまテレビで見たシーンでは、何十人もの自衛隊員に扮する男達に追われて、奇声を上げながら野原を走り回っていた。
見るからに「不能者」である。


志村けんのバカ殿も不能者だが、ゴリの落ち武者とは位相がまったく異なる。
落ち武者には、そのバカさ加減に巻き込まれてくれる常連の取り巻きがいない。落ち武者は、「殿」の立場を追われて壊れてしまったバカ殿なのである。
バカ殿はよく笑うが、落ち武者はほとんど笑わず能面ヅラ。バカ殿はただのゆるいバカだが、落ち武者は自分が惨めな負け犬であることを自覚できない気違いである。
滑稽この上ないスタイルなのに、共演者との間に常に妙な緊張感を漂わせ、言語障害気味の支離滅裂なセリフを口走る落ち武者に、私は魅了された。


それで思い出したのは、北野武の『座頭市』に端役で登場した、頭のおかしい小太りの百姓侍である。ふんどし一丁にざんばら髪で薄汚い鎧兜をつけ、見えない敵を目指して奇声を上げながら家の回りを走り回っていた。

もう一つは81年に起こった深川通り魔殺人事件の川俣軍司である。
デンパなことを口走り通りすがりの人を次々柳刃で刺した気の触れた男は、覚醒剤のため心神耗弱状態にあったとして無期懲役になった。 何よりも印象的で当時話題になったのは、犯行当時の彼の姿である。
半ば禿げたざんばら髪を振り乱し、パンツ一丁‥‥。


パンツ(ふんどし)一丁やざんばら髪や奇声に、いや異様な風体の敗残者の気違い男に、どうして私は萌えるのか。


川俣軍司はそのひどい格好のせいもあって、当時最も嫌われ笑われ様々なネタにされた犯罪者だったが、ゴリの落ち武者は同じような格好でえらい人気である。あのキャラにエロスを感じている女は、潜在的に多いはずだ。
自覚できない「不能者」の目的なき能動性が、ストレートなビジュアルで迫ってくるのに胸をつかれるのだ。キモいとか変態とか言って嫌うことはできない(そう本能が告げている)。


ゴリエと落ち武者は、同じ芸人が演じているから「共演」することはないし、もし仮にありえたとしても「彼ら」は男女の共犯関係から落ちこぼれた者だから、どういうコミュニケーションが成立するのか想像できない。
それで、ゴリエが「不能」なはずの落ち武者にレイプされるところを、私は想像した。あまりにもリアルな想像になって、苦痛(の快感)を感じた。
ゴリエと落ち武者は、純愛で結ばれてほしいと思った。