名前をめぐる諦観と「私」の始まり

今年も十数枚しか来ない年賀状に、二枚「佐紀子」様宛があった。私の名はサが「左」なのだが、よく「佐」と間違われる。「左」は姓ではあるが、名にはあまり使われないので間違えやすい。毎年返事は書いているのにずっと間違え続けている人も。


名前についての少し苦い思い出。
1977年の3月20日、18歳の私は大学受験に失敗して落ち込んでいた。一次と二次をクリアして最終で落ちたのが、よけいに悔しい。大学はそこしか受けてない。浪人決定だ。
父は高校の教員をしていたので、その日から翌日にかけて、生徒から合否を報告する電話が何本もかかってきた。その中に一つだけおかしな電話があった。「え? それはうちの娘じゃありませんが‥‥」。まごついた受け答えをしていた母が電話を切って言った。「お父さん、新聞見て」。
新聞には県内の大学合格者欄があって、高校名と共に名前が掲載される(今でもあるのだろうか)。「名古屋大学文学部」のところにその名はあった。私の名と一字違いだが、オオノサキコと読める。


電話をかけてきたのは、年賀状のやりとりをしている父の昔の教え子の親だった。私の名前の読みと高校だけ覚えていて、「これはオオノ先生とこの」と早合点し、早速お祝いの電話をくれたのである。
「いきなり『お嬢さん、名大合格おめでとうございます』って言われてびっくりしたわ。同姓同名の人がいたの?同じ高校に。珍しいねぇ」
そうだ確かにいた。そのオオノサキコさんは普通科の人で隣のクラスだった。美術科は、体育がそのクラスと合同だったから知っている。背がスラリと高くて聡明そうな感じの人だった。名前は一字違いでも、私と見かけが全然違う。たぶん頭の出来も違う。きっと性格もいいんだろ。ちぇっ、なんだよう(八つ当たり)。



人はあらゆるものを命名する。四つ足でワンワンと吠える動物を「イヌ」を呼んだ後で、さらに「ポチ」と名付ける。
だが唯一、名付けられないものがある。それは自分だ。自分で自分の名前を決めることはできない。誰かに命名されるのだ。これは自分の顔を選べないのと似ている。名も顔も、「自分に先立つ者」から与えられる。自分は受動態。ヤンキーは子どもにヤンキーな名をつけ、美人の遺伝子は受け継がれる。
名と顔という、個人を特定するのに最も重要なものの決定。それが、自分の意思の外にあって選べない。名と顔は、私が自己の同一性を発見する前から、私に刻印されている。私はいつも私に先だって決められたところの「私」に遅れている。その距離は永遠に縮まらない。


もっとも昔の人は一生に何度も名を変えたし、今でも時と場合に応じて変名を名乗ることはできる。HN、複数のペンネームを使っている作家、芸能人。実名から特定されやすいプライバシーを守る目的もあるだろうが、ペンネームや芸名の場合は、商売上のイメージを重要視する方が大きいだろう。蒲池法子は松田聖子でなければならなかった。二葉亭四迷しかり江戸川乱歩しかり。リリー・フランキー辛酸なめ子(本名の池松江美でも書いているが)も「その名でなければ‥‥」の人だ。
なんとなく自分でつけた名のほうが、親に勝手に決められた名より責任がもてる気になるかもしれないとは思う。別の名を自ら名乗るとは、そこで受動性を能動性に転換し「遅れ」を埋め、私が選んだ「私」を確立しようとする振る舞いに思える。それは、「個人の自由意志」で決めたことだから「自己責任」も生じるという、昨今流行りの論理に近接する。


しかし「何者にもなれる自分」は、実はない。複数の名に対応した複数の「私」も、本当はない。ひとつの顔とひとつの名しか持たない私が”存在する”だけだ。
しかも私が自由に選択したことではないのだから、「自己責任」はないはずなのに、私は自分の名を呼ばれれば答え、「前にお会いしましたね」と顔を見つめられて「いいえ」とは言えないのだ。
私の「自由意志」で決めたことではない私には預かり知らぬことに関して、「はい」と言ってしまった時。永遠に縮まらない距離を引き受けてしまった時。それがいつだったのかはわからない。
でもその時に私は、ヒトから人間というものになったのだろう。生きることは、取り戻せない遅れを全力で走ることなのだろう。


もっともそんなことは、普段考えないで生きているんだけれども。
間違えられた自分の名を見る時だけ、私の中で「私」と「私に先立って決められたこと」が点滅する。