人称代名詞をめぐって

「僕達」と「私達」

今頃こんなことを知ったのも遅いのかもしれないが、村上春樹は、ほとんどお家芸と化していた「僕」を、今回の新作ではやめたらしい。『アフター・ダーク』の視点は「私達」。
「私達」が誰なのか知りたい気もするが、村上春樹には興味をなくしているので、本買って読むまでには至らない。「僕達」ではなく「私達」なのだから、語り手は性的にもかなり抽象化されているのだろう。
「私達」。漠然とした一人称である。


しかし、「私達」がどういう「私達」なのか、普通は文脈の中でおのずと推測される。
「私達の税金を何に使うのか?」の「私達」は納税者であり、「私達だって力仕事できるわよ」の「私達」は女達であり、「早く私達を助けに来て下さい」は救助を待つ人々である。
書き手が男の場合は、時々「僕達」となる。「僕達に未来はあるのか」は将来に不安を抱く若者達であり、「僕達はなぜ別れてしまったのだろう」は別れた恋人(あるいは友人)同士であり、「僕達の綾波レイ」(古い)の「僕達」はオタクである。


どういう「僕達」なのか、よくわからないケースもある。
エッセイなどで多用される「僕達」。昔、新人類と言われた世代やその周辺の人の書く「僕達」、雑誌STUDIO VOICEの「僕達」などが、概ねこういう感じだった。そこでの「僕達」は何者とあらかじめ明言されてはいないが、「僕達」に読み手が含まれるという設定がされているのは明らかなのである。
その内容が説得力のあるリアリティを感じられるものであれば、「僕達」の使用は大変効果的だが、そうでもないのに多用されていると気色悪い。
こちらには一向にぴんとこないことを、「やっぱり僕達は〜なのだ」「しかし僕達は〜だったのだろうか」などと延々読まされれば、だんだんムカついてくる。「勝手にこっちをあんたの仲間にするな、その手を離せ」という気分になる。
そういう文に限ってまた、ぐじぐじとどうでもいいことをひねくり回している。なんかナルシスティックで自意識過剰な「僕達」なのである。


「僕達」多用の先駆けは、雑誌POPEYEではないだろうか。
理念とかイデオロギーとか思想とかの共通基盤を完全に失ったところで使われ出した「僕達」は、物の情報だけでつながった消費する「僕達」だった。そしてそれ以後、消費街道を爆走する脳天気な「やっぱり僕達は〜なのだ」の「僕達」と、ちょっと内省的なポーズをとってみせる「しかし僕達は〜だったのだろうか」の「僕達」が共存共栄しているのである。
ここには80年代から脈々と続く、ノンポリ文系オタク男のメンタリティが抜き難くある。まあいつまでも勝手に言っとれや、と思う。


一方、「私達」は女性雑誌で使われる。例えばJJなんかの「私達のデート・メイク」とか、VERYの「私達が満足できるハイクラスのビストロ」(今適当に作った)など。
しかし、「私達」という言葉自体には、「僕達」より公に近いニュアンスがある。エッセイで「僕」と共に「僕達」をラフに多用する男は多いが、女の場合「私」が圧倒的に多く、「私達」ならどういう「私達」なのか意味が限定されていることが多いのではないだろうか。
女があえて限定せずに「私達」と書く場面は(場面にもよるが)、「私」を脱してここは「私達」と言わねばという気概(と若干の無理)がどこかに感じられる。いい意味でも悪い意味でも。「私達は」と最初から書き始める女は、「僕達は」と始める男ほど気楽そうに見えない。


つまり女の個的「私」と公的「私達」との境は比較的はっきりしているのに比べて、「僕」と「僕達」は地続きである。
男が「僕」と言えば、それは背後に「僕達」が控えた「僕」であり、その「僕達」は漠然と「みんな」に繋がっている。
もちろん文章の中で「僕」と「僕達」を厳密に使い分けている男はいる。でも女ほどその精神的境界腺は明確ではないのではないか。humanと言えばmanを表したということと似ている。
そう言えば東京都知事も「僕」の人であるが、この人の「僕」は「私達」の元に置かれる公「僕」ではない。「私達」の上に君臨している(鼻持ちならない元作家の)「僕」である。

「ボク」と 「アタシ」

さて、女が「僕」を使う特殊な場合を考えてみよう。
まず思い浮かぶのが、イルカの『名残り雪』と、森田童子の『ぼくたちの失敗』。あの当時(70年代後半)、「僕」を使うのが、10代後半のちょっと自意識の高い女子の一部で流行っていた。「僕」と言うより「ボク」って感じだ。サロペットにアラレちゃんみたいなメガネかけたボーイッシュな女の子が、クールに「ボクってさ、○○なんだよね」とか言うイメージ。今では、ロリータアニメの中に、かなり変形して生き残っている種であろう。
ボク女は中性性に徹していて、セックスの匂いがない(という自己イメージを持っている)。 相手のことは当然「キミ」と言う。
今どき「キミ」を使う女は、ドラマに出て来る女教師くらいだ。私も「キミ」「キミ達」は滅多に使わない。大抵「あなた」「あなた達」である。
知人の女性は授業で学生達に「おまえ達は‥‥」と言うことがあるそうだ。真似してみたいが、勇気がいる。「おまえ達は‥‥」と言って話し始めたら、それにつられて語尾が「〜だろーが」「〜じゃねえか」と下品なことになってしまいそうだ、私の場合。


女の使う男の一人称で新鮮だったのは、雑誌CREA創刊当初(90年代初め。あの頃のCREAは今と違って面白かった)、放送作家町山広美がコラムで使っていた「俺」である。実に自然に使われていて、驚いた。
女の子の「ボク」には何となく無意識の媚びを感じるが、「俺」には感じない。


しかし「俺」が流行ることはなく、女の子の一人称と言えば通常「あたし」ということになっている。室井佑月など30過ぎても「あたし」で、女性自身の連載コラムを書いている。「あたし」を書き物の一人称に使っただけで、なんとなくバカだけど正直な(しかも若い)女のイメージが作れるわけだが、しかしいつまで使うつもりなのだろうか?40近くなるとかなりヤバいと思う。
「あたくし」ならいいけどね、デヴィ夫人も使っているし。死ぬまで使えそう。
Jポップの女性シンガーの歌でも「ボク」や「キミ」(特にキミ)はよくあるが、やはり主流は「あたし」である。
昔のチャラとかYUKIなんかが「アタシ」(なんとなくカタカナ)代表だが、あの手のガーリーな「アタシ」が私はあまり好きではない。「イノセントで少し小悪魔な女の子」の、計算された匂いがプンプンするからである。例外的に許せるのは椎名林檎くらいだ。


こうした「アタシ」の元祖は、山下久美子だったのではないか。『バスルームから愛をこめて』の「アタシ」は、今でも耳にこびりついている。
「アタシ」の「シ」の発音は、shiとshuの中間である。「ア」であどけなさを、「タ」で蓮っ葉な感じを、「shi(u)」で女らしさを表現しているのである。そうだ中森明菜なんかは、激しくshuの人だったな。「わたしゅは」と言っていた。そう言えば山口百恵もそれ気味だった。
シをshu気味に発音する人は、ジもju気味に発音する。もちろんMC向けの発音なのだが、昔はそういうのがステキということにされていたのである。


ともかく、他のことではあまり男女の差異がなくなったとしても、言葉、特に人称代名詞となると、結構壁がある。
普通に男言葉で喋る若い女(「メシ食ってかね?」とか「早くやれよ〜」とか同性異性問わず友達同士では喋っている)は最近いるが、「おれ」「おまえ」を普段使う女子は少ない。それを恋人の前でもやっているかというと、更に少ないだろう。
たとえ「つまんねえなー」などと言っていても「アタシ」が一人称だから許されるのである。
「アタシ、つまんねえなー」。普通である。
噺家の「あたし」や歳老いた女優の「あたし」は、使い込まれた感じがしていい 。「あたしゃね」は、ぴんと背筋が伸びてる感じがするので好きだ。少し歳をとったら使ってみたい。
おそらく昔は、一人称はジェンダーレスに近かったのではなかっただろうか。田舎に行けば、若い女でも「オレ」「おら」とか言ってるし、今も方言として使っているところはありそうである。


作家の岩井志麻子が、エッセイや鼎談などでたまに使う「ワシ」には、ゾクゾクする。「ワシも〜よのう」。かっこいい。岡山の田舎では普通だったのだろうか。
私も郷里に、そういう深い味わいのある方言があればよかったのにと思う。授業で学生の感想文の分析するにも、「このおなごの書いとることはのう、ワシが思うに」とシミジミやれる(老人言葉か)。「えーこの人の解釈を分析してみるとですね」じゃつまらんのう。

「あなた」と「私」

私の生まれ育った場所は名古屋で、イントネーションは名古屋弁だが、人称代名詞に目立った地方色はない。
ちなみに夫は私を「おめえ」、名古屋訛りで「おみゃあ」(たまに「おみゃあさん」「あんた」)と呼ぶ。おまえ→おめえ→おみゃあと名古屋変化したのである。
私だけでなく、プライベート圏内の大抵の人を、大体「おめえ」か「おみゃあさん」で呼び分けている。本人のキャラクターのせいかもしれないが、それで一応滞りなく人間関係を作っている模様である。
私は基本的に夫には「あんた」であるが、時々つられて「おめえ」「おみゃあ」(たまに「おみゃあさん」「あなた」)で話している。
喧嘩時は「おめえ」「おみゃあ」から「てめェ」に変化する。これだと意外にも早く喧嘩が終わるのである。
「おめえ、これはどういうことだ?」
「おみゃーのせいだろ」
「なんだと。てめェだろ!」
「うるせえ、てめェだ!」
「かってにしろ!」
「バカ!」
‥‥ということで、まもなくやる気をなくす。本当である。


一番最初は「おめえ」に対し「あなた」と呼んでいたので、それはそれは喧嘩が長引いた。
「あなたは、こうでこうでこうじゃないの。私はこうなのにあなただけこうじゃないの。それはあなたがこうこうこうだからでしょ。どうしてあなたはこうで私はこうなのよ」「おめえなあ」「何がおめえよ。おめえ呼ばわりしないでよ。だいたいおめえって言い方、女をバカにしてるじゃない」
「がたがた言うなて」
「がたがたってどういう意味?がたがた言われるのは誰の責任?そもそもあなたはね」
というわけで、永久に終わらない。
向こうは終わっているつもりかもしれないが、「あなた」と呼んでいるこちらは、どんなくだらないことでもあくまで追求の手を緩める気にはならないのである。
「あなたは‥‥」と言われるとちょっと緊張すると言われ、じゃあ「あんた」にするよということで今に至っているが、相手の「おみゃあ」は直らないので諦めた。
時々説明し難い被差別感にかられ、意味なく「おみゃあ」と「てめェ」を連発してみるが、それほどスッキリするわけでもない。やはり闘う時には「あなた」責めでいくのが良い。


「あなた」と「私」は、公私を問わず男女共に使う。また「あたし」も「あんた」も、女専用というわけではない。
しかし一方で、もっぱら男だけが使う人称代名詞には、「僕」や「俺」や「儂」や「きみ」や「おまえ」や「貴様」といったバリエーションが多い。 女には長らく「私」空間しかなかったが、男は公私両方があったので、各場面に応じた人称代名詞が増えたということかもしれない。


こうした非対称性は、細かく見ていくといろいろある。
男の「きみ」「おまえ」は仲間に対しても使うが、「きみ」「おまえ」を使う時の女は、それぞれ教師か年上の女(きみ)、母親か「女王様」(おまえ)である。女の場合は、そこに権力関係が前提とされるのである。
また、親密な感じで「俺」「お前」を使っていた男が、相手の女と距離をとりたくなり、それをわからせるためによそよそしく「君」「僕」、更には「あなた」「私」に暫時移行していくのは、「効果的」である。男の使える人称代名詞に、親密度の落差があるからできる手なのである。


そこで再び村上春樹の「私達」に戻る。
そこに代表されている性があるのかどうか、「私達」だけではわからない。読んでもわからないかもしれない。わかっているのは、「僕」が「僕達」という男性の複数一人称ではなく、「私達」という中性的な複数一人称に移行したという、男の作家でなければ出し得ないある種の「効果」である。ずっと「私」で書いてきた女性の作家に、その微妙な感じを出すのは難しい。
日本人の男は「僕(俺)」と「私」、「僕(俺)達」と「私達」を場面に応じて使い分けることができるのだ。「僕」で(男性の)個人的存在に、「私」で(中性の)社会的存在に。その二つは相補的である。
しかし女の一人称は「私」にのみ集約される。それはもろもろの私的公的な「私」が一つに溶け合った「私」であり、場面に応じた使い分けは不可能だ。
でも「私」がもともとそういう者であることを、たぶん「私」は最初から知っている。