小論文添削というお仕事

痛々しい文章

昨日と今日はせっせと家で、小論文の添削をしていた。私が直接予備校で小論文の授業をしているわけではないが、貧困に喘いでいますと各方面で言っていたら、親切な人が仕事を回してくれたのだ。本当にありがたい。
やったことがなかったので最初はやや不安だったが、どうにかこうにかやれている。大学受験で小論文というものがなく、書いたことがなかった私には、新鮮ですらある。毎回送られてくる課題文(過去の大学入試に使用されている文章で、時事問題や現代社会の諸局面の分析を行ったもの)を読むのも、結構楽しみだったりする。


すらすらと読めてすらすらと頭に入り、読み終わった後でううむ‥‥なるほどねえと言わしめるもの、それが、一般的に良い文章だと思う。
え?と思わせてえ?え?え?の連続の中で、驚きと共に読み終わり、そうかそうだったのか!と思わしめる推理小説みたいなのもいい。個人的にはこっちの方が好きだ。
しかしそういうハラハラドキドキの綱渡り的なやつは、小論文の課題文にはなく、概ねは前者である。いずれにしてもいい文章には、苦労や呻吟の後が見られない。


で、その課題文を読んで設問を読んで、さて受験生の小論文を読もうかという時が、最もスリリングである。それはもう、苦労と呻吟の後が生々しくも痛々しく刻まれているからだ。
苦労も呻吟もしている時間がなくなって、ええいとばかりに強引にまとめてしまった痛々しさもある。論文らしい言い回しは使えるが、肝心の論理が破綻している痛々しさ。大風呂敷を広げたはいいが、どう収拾をつけていいかわからなくなって尻つぼみになった痛々しさ。それ以前に、日本語になってない痛々しい文もちょくちょくと。


普段少し硬めの本や文章を好んで読む習慣があるのであれば、課題文を解読して90分で600〜800字の自分の意見をまとめるのは、それほど困難なことではないだろう。
しかし大半の受験生に、そういう習慣はない。だから、上手く書けないのは仕方ない。私が大学で持っている授業のレポートのレベルを考えると、大学生になる前のトレーニングの途中ならこんなものかとも思えてくる。
だいたい自分だって、18、9才できちんと論理的な文章が書けていたかどうか、かなり怪しい。


そういうことはわかっているが、最初のうちは、3本添削したところで頭痛がした。「なんだぁ?この文は」「ちょっと、自分で意味わかって書いてんのー?」といちいち毒づいていた。自分の文章にはなかなか客観的になれないものだが、人の欠点は手にとるようにわかる。
とりあえず、最初から最後まで一応間違いのない日本語で、それなりに筋道の通った文章があると、それだけで安心する。惜しい、いいとこに目をつけてるのになというようなのに出会うと、もう嬉しくなる。滅多にないけど。
そんな中で、うっすらと見えてきた、二つの傾向がある。


一つは、言いなり型。課題文の主張をなぞっているものだ。課題文はなかなか反論しにくいような完成度の高い文章なので、どうしてもひっぱられるのだろうが、ほとんど最初から最後まで、課題文に書かれたことしか書いてないやん、というのもある。
もう一つは、言い張り型。課題文をきちんと把握せず、勝手な自己主張に走っているやつ。なんとか独自の意見を書きたいと思うあまり、理路は短絡し表現は乱れ、結果説得力に欠けた一人よがりの論述となっている。
言いなり型と言い張り型。一字違うだけだが、結果は全然違う。


言いなり型には、ある種の逃げと諦念がある。
「えー。そんな急に意見書けって言われても。そんなこと、考えたこともないし。これ以上のことなんかわかるわけないし」
一方、言い張り型に共通して感じるのは、「イライラ」である。なんだか文章全体から、何とも言えずイライライライラしたものが漂ってくる。
受験生だからか?それもあるだろう。しかし、大学生のレポートでもそう感じるものが時々あるから、いちがいに書き手の特殊な立場の問題だとは思えない。時々その「イライラ」が何なのか、とても気になって立ち止まってしまう。

形式と内容

小論文の課題文は、大抵簡単には解答の出せない現実の諸問題について述べられている。すぐには解答が出せない中で、こういう方向で考えていくべきじゃなかろうか?と筆者は問うている。その問いはまっとうな問いであり、そこまでに至る経緯には論理的な思考回路がある。つまり正論なのだ。
小論文は、堂々たる正論を前にして、これこれの観点から何かモノ申してみろというものである。まだ社会経験も思考経験も浅い若者には、それだけでもプレッシャーだろう。
そのプレッシャーに屈せず、客観的かつ内省的に思考し、独自の視点を持った論理的な文章を正しい日本語にて90分以内に組み立てろ(でないと大学には受からん!)というのだから、なかなか大変なことだ。


小論文に登場するような文章を書いている(本を出している)のは、学者や大学教授といった社会的に成功したインテリである。今まで私が見た課題文では、大御所から見下すようなエラそうな物言いはもちろんなく、改めて考えてみたくなるような内容が多かった。
しかし彼ら筆者が、それを読む受験生の大多数にとって、大学に合格し大学を出てもなかなか行き着けないだろう場所にいて、言葉を発している人々であることには変わりない。
「そりゃ言ってることは正しいかもしれないけどよ、そういうとこにいるから言えるんだろ、クソ」と、内心思わないでもない若者もいるだろう。そう思ってしまえば、受験勉強とは言えイライラもするだろう。


内容に対して純粋に内容で応えるということの根本的な難しさが、こういうところにも期せずして現れるのではないだろうか。
内容は形式の上にのっかっているものである。
課題文と小論文という形式の関係は、あくまで非対称である。一方は一般に読まれる書物となっており、大学入試問題にまで使用される優れたテキスト。一方は、真っ赤に直されて戻ってくる紙切れだ。 仮にものすごく知的に早熟で文章能力の高い受験生がいて、課題文の内容を思想的に越えるようなものを書いたとして、その文章が小論文の課題文としていつか採用されるかというと、そういうことはない。
内容の如何に関わらず、書物と紙切れという非対称、学者と受験生という非対称、権力関係は動かし難くある。様々な形式が両者の関係を決定しているのである。


では、その学者と受験生が、どこかの掲示板で匿名で議論していたとしたら、その言葉に非対称性はあるのだろうか。互いの社会的位相がわからない限り、ないように思われる。でもそれが知れたら、どうだろう。ハンドルネーム呼び捨てでラフに対話していたのが、ちょっとやりにくくなるかもしれない。そこにただちに権力関係が生じることは考えられる。
‥‥いや、どうかな? 学者と受験生の間にそれまでに本当に知的なやりとりがあったなら、どれだけ社会的身分が異なっているのがわかっても、対等でいられるのでは? ということは、内容(議論)が形式(社会的立場、身分、年齢、性別などのあらゆる条件)を越えてしまうことができるということだ。
しかし。そういう形式、条件に一切左右されない言説、議論とは、どういうものになるのだろう? うまく想像ができない。
逆に、個々の何らかの形式、条件が反映されるからこそ、意見の違いが生じ、議論が生まれると考えた方が自然だ。
言説というものは、それを発したのがどこの誰で社会人か学生か男か女かということを、完全にスルーすることはできない。 内容(語られるもの)は、どこかで必ず形式(語る者の立場)の影響を被るのだ。


受験の小論文では、そういうことを棚上げして純粋に内容に向かえということではない。「現代の若者」について書かれた課題文を、現代の若者の立場から分析し意見を書いていいのである。
しかし若者の立場というのは大人の立場より弱くて不安定であると、若者自身が感じている。そこに足場を置いて書く場合、あらかじめ非対称性を受け入れていることになる。実際そういう文章は多い。
受け入れたくない学生は、自らの若者という立場を一旦棚上げし第三者となることで、それを抑圧する。だが抑圧されたものは、行間に得も言えぬ「イライラ」として出現してしまう。


そういう痛々しい文章を、赤ペンでサクサクと直していく。「まあ落ち着け。そう気張るなって」と一言書きたくなるが、書かない。
こうこう、こういう理由でもって、「理路は短絡し表現は乱れ、結果説得力に欠けた一人よがりの論述となっている」ということだけ書く。そういう仕事なので仕方ない。