「私が結婚しない理由」で考えたこと

「役立たず」な人々

少子化、晩婚化。
このまま日本の人口が減り続けると、大変なことになるという。国民総生産はガタ減りし輸入は途絶え会社は倒産し、年金制度は本格的に破綻し貧しい老人が巷に溢れ、数少ない若者はますます働く意欲をなくし人心は荒廃し世相は乱れ、かくして日本は先進国の仲間から脱落して貧しく混迷したアジアの弱小国となると。
きっとそのうち、結婚して子供の二人もいれば、将来の日本のためになっている「聡明な人」(勝ち犬ではない)、なかなか結婚しない人は、みんなのことを考えない「役立たず」(負け犬ではない)ということになってしまうのではないか。


特に、結婚したのにわざわざ子供を持たない人生を選択した人など、相当「役立たず」な人である。私もその腺で生きてきたクチだが、どう生きようと個人の自由、自由にした責任は自分で負うという個人主義で許されると思っていた。
なのに、爆発的な人口増加で食糧難が目前という地球規模の危機に憂える「聡明な人」とは誰も呼んでくれないばかりか、まさかこの歳になって、お前は日本の社会のためになってないではないか!自分のことばかり優先して役立たずめ!とチクチク責められるようなことになるとは(まだなってないが)、思ってもみなかった。


こないだの土曜日の夜、NHKの教育テレビで『私が結婚しない理由』というテーマで、20代後半から30代の男女20人ほどをスタジオに招いて、いろいろ意見を聞くというのをやっていた。男女比は、1:3くらい。
みんないつかは結婚し、できれば子供も持ちたいようだが、まだ「結婚しないわけ」の大きなポイントは、「結婚した際のリスクを考えてしまう」からだそうだ。
つまり、個々の考えが多様化し生き方の選択肢が増えたため、なかなか自分に合う相手が見つからない、従ってリスクの少ない結婚のかたちに辿り着けないということである。
それに対して、うーん、そうですか、しかしねえどうですかねえ‥‥といった雰囲気で、今一つ、日本が直面している大問題に対しての、切迫した危機感が感じられない番組だった。あんまり切迫すると、出演しているそれぞれいろいろと事情アリで独身でいる人々を、チクチク責めかねないシリアスな雰囲気になってしまうからだろう。


昔は、年頃になったらさっさと結婚し、女は子供を産み、男は家族を養う、それが大人の生き方というものであるという通念があった。
そして結婚の実質的な意味とは、女の場合は一生の生活の保証を得る、男の場合はセックスと食事がプライベート空間に確保されるということであった。その条件下(今もこれを条件にしている人はいるようだが)だと、どうせなら「いいとこにお嫁に行く」方がいいし、どうせなら美人で料理が上手い人がいい。
しかし高望みしていては「いきおくれ」になってしまうので、真面目そうな人なら分相応のところで手を打つ。美人はそうそういないので、健康で気立てが良ければ手を打つ。どっちにしても結婚はしなければならないのだから、そう我がまま言わずにさっさと手を打つ。
だいたいそういうふうに、決まっていたのである。


今は、「結婚しなければならない」という社会的強制力がない。だから切羽詰まっているのでもなければ、適当なところで手を打たなくていい。
更に、仕事をする女は、家事、育児がすべて自分の肩にかかってくるだろうと思ったら、結婚を躊躇う。男が結婚したがらないのは、家族を養いながらだんだん給料が上がっていくという、先々のビジョンが持てないかららしい。
つまり結婚を遅らせる人々にとって結婚は、考えもなしに下手にすると、苦労したり貧乏になったりする「損なこと」になっているのだ。
出演していた皆さんはそこまではっきりとは言わないが、概ねそういう考えであるのは読み取れた。


じゃあ、男が家事育児能力を身につけ、女の仕事能力が正当に評価されて、もしどちらかの仕事がたちゆかなくなっても、なんとか助け合ってやっていけるだけの環境が整っていたら、みんな結婚し子供を作るのだろうか? そこを鑑みていろいろと社会制度の整備とか行われているのだが、それだけでOKになるのかどうかというと疑問である。
男の家事育児参加、女の仕事と家庭の両立、それは共働きを目指すカップルにおいての、結婚の最低条件に過ぎない。


リスク回避と幸福の追求

「結婚して幸せになる」という言葉がある。それは、一人でいる時以上に楽しく豊かな生活をするという意味だ。 それまでの生活レベルを落とさないで暮らしていけることが、まず前提。今より貧乏になるかもしれないようなリスクは負えない。その上で「一緒に楽しむ夫婦」が理想となる。
だからお互いに、価値観や趣味やセンス、つまり身につけてきた「文化」がそこそこ合う相手でないと難しい。
知的で洗練された自分ワールドが完成している人ほどそうなるだろう。そういう多様な細分化された文化の中を生きてきたのだから、仕方がない。あえて「異文化交流」に乗り出す者はチャレンジングだが、理解する努力と妥協、場合によっては闘争が求められリスキーだ。
そこで賢い男女は、結婚を前にして相手をこの上なく冷静に観察せざるを得ない。


すべては、「個人の幸福の追求」のためである。これが、何をおいても絶対のテーマなのである。
その上、「リスク回避」の考え方も徹底している。
「リスク回避」と「個人の幸福の追求」。この命の次に大事なことを、日本の将来なんかのためにないがしろにしてたまるか。
この考え方が根底にあるから、たとえ相手がいてもみんなおいそれとは結婚しないのではないかと思う。


番組のコメンテーターで参加していた作家の石田衣良氏は、「結婚のリスク」という発言に対し「あえてマイナスのカードを引いてみることも、人生には必要ではないか」という、まるで自分のエッセイにでも書きそうな、普通に考えると「ええ〜?」的な意見を言っていた。これが番組中、出演者に向けられた中で一番「キツい意見」であった。
この意見を「まあ、そういうものかもね」と思えるには、それなりの年期が必要となる。
例えばリスクもデメリットも考えずに若気の至りで結婚してしまい、その後あらゆるリスクとデメリット及び「異文化」にぶつかりジタバタと見苦しく足掻いた挙げ句、人生半ばを過ぎてようやく自省と諦観の心境に辿りつきつつある者(私のこと)なら、「まあ、そういうものかもね」と思えるかもしれない。


昨今の離婚率の高さを見ると、結婚は往々にしてマイナスのカードであるらしい。自分だけはプラスのカードを引いたつもりでも、「リスク回避」と「個人の幸福の追求」からすると、結果的にマイナスのカードに変わってしまう。
冷静沈着なリスク回避能力があり、なおかつ「結婚して幸せになる」つもりの男女は、「あえてマイナスのカードを引いてみる」なんて老成した大人の考えを持てと言われても、ピンとはこないだろう。
でも「マイナス」だとか、それが「人生に必要」かどうかなんてこと、最初にわかるわけがない。そんなこと考えもせずに、引いてしまうものなのだ。マイナスだろうが何だろうが一緒にいたい、という闇雲な決断は、恋愛の勢いとその時のノリによってしか下せない。


ということは、一時の情熱でつっぱしってしまわないと、今どき結婚なんかできないということである。
そこで「ほんとにこの人でよかったのかな?もっと私に合う人がいるんでは?」とか、「この先一生こいつの顔見て暮らしていくのか。うーむ‥‥」などと、冷静になっていてはダメなのだ。盛り上がった気持ちが冷めないうちに、どさくさ紛れに結婚してしまう、それしかない。
そうではなく、仮に、じっくりあらゆる方向から冷静に検討を重ねて、これなら大丈夫と判断し結婚したとしよう。
それでも、「ほんとにこの人でよかったのかな?もっと私に合う人がいるんでは?」とか「一生こいつの顔見て暮らしていくのか。うーむ‥‥」と思う時は来るかもしれない。
結局、努力と妥協と闘争の日々は避けられない。それがどうしても嫌なら、一人でいるのが賢明である。


純愛でも結婚でも

日常を共にする他人というのは、ほんとにメンドくさいものだ。適当なところでうまく折り合いをつけていかないと、どうにもならない。人と一緒に暮らして学ぶ最大にして唯一のことは、こういうことだ。
そう思っていたら、それにダメ押しするようなことが内田樹の本に書いてあった。

結婚は快楽を保証しない。むしろ、結婚が約束するのは、エンドレスの「不快」である。
だが、それをクリアーした人間に「快楽」をではなく、ある「達成」を約束している。それは再生産ではない。「不快な隣人」すなわち「他者」と共生する能力である。
おそらくはそれこそが根源的な意味において人間を人間たらしめている条件なのである。


内田樹『街場の現代思想』)


いやはや。達観の境地とは、このようなものだろうか。「不快」を「理不尽」に置き換えると、更によくわかる。
しかしこれも、「あえてマイナスのカードを引いてみることも、人生には必要ではないか」と同じで、「結婚して幸せになる」つもりの男女を困惑させる言葉だろう。
むしろこれは、結婚して「エンドレスの「不快」(理不尽)」を味わい、見苦しくジタバタしてきて疲労困憊した者を慰め諌める言葉なのだ。
考えてみれば、結婚に限らずこの世の多くのことは、「エンドレスの「不快」(理不尽)」を孕んで成り立っている。
なかなかスムーズにいかない仕事、やってもやっても片付かない雑用、ちっとも先の見えない景気、ますます陰惨になる世相、着々と進行する環境破壊、いつ来るかも知れぬ大災害、いつ来るかも知れぬ鬱と不安、どんどん失われる記憶力、じわじわ衰えていく容貌‥‥。
この世に生まれてきたことそれ自体が、「不快」で「リスキー」で理不尽極まりないことなのである。


そういう意味では、一人でいようが二人でいようが、みんな同じ運命を背負っている。そこでリスク回避ばかり考えていたら、たぶん誰とも関れない。
結局のところ、結婚するしない以前に、「人は算盤勘定抜きに他者と関わっていけるかどうか」という問題が浮上してくる。これは考えてみると、結構難しいことだ。そこで思い当たる究極のかたちは、「純愛」しかない。
純愛の中に、「その後に来るのは「エンドレスの「不快」」かもしれない」という算盤勘定はない。喜んで「不快」で「リスキー」な生を積極的に引き受ける、それが純愛に飛び込む傍から見れば愚かな人の姿である。
リスクを回避した「豊かで楽しい生活」を結婚の条件とするなら、純愛は結婚とは両立しない。

冷静な人は、危険な純愛を諦めて安全な結婚を選ぶ。というか選んだ気になる。そして手の届かない純愛に憧れる。
しかし、ここまでの結婚分析と現状認識の延長線上で考えてみると、純愛という生き方も、結婚という生活も、理不尽と隣り合わせに生きるという「不快」で「リスキー」な生の一様式であり、飽くなき「個人の幸福の追求」とは本来的にそぐわない。
誰の手にも、最初から「マイナスのカード」しかなかったのだ。
なんと、対照的だと思われた純愛と結婚の共通点が、ここに見つかってしまった。冬ソナにまだうっとりしている主婦の人は、そこんところに気づかれますように。


資本主義社会のこの世の中では、「個人の幸福の追求」こそが生きる意味だとされてきた。その通りに生きてきた大人が何かにつけてリスクだメリットだ(損だ得だ)と言っているのを、子供はちゃんと観察してきた。
そういう子供が成長して、結婚を、あるいは「他者との共生」(と言えば聞こえはいいが、要は努力と妥協と闘争)を、リスクゆえに避けるのは当然である。これを今からどうこうするのは、難しい。


というわけで、日本の将来のかかった大問題には、「オニババになるぞ」と脅かす以外に対策なしという結論になってしまった。でもそれによって、独身男女が雪崩を打って結婚に向かい、子供をどんどん作るともあんまり思えない。
つまり私もいろいろエラそうなこと言ってても、長生きすれば巷に溢れる貧乏な老人の一人として「役立たず!」と石もて追われる身になるかもしれないということだ。やれやれ。