純愛論1. 純愛は恋愛とどう違うのか

「胸キュン」と「胸ズタ」

純愛。私にとってそれは長い間、口に出すのがちょっと恥ずかしい言葉であった。
その言葉に初めて出会ったのは、昔、中学校の図書室で富島健夫の小説を立ち読みした時。富島健夫と言っても若い人は知らないだろうが、官能小説の大家である。もちろんそんなものは中学校の図書室にはなく、あったのはもっと昔に量産されていた少女向けの純愛小説の方。
それは古臭いと言えばかなり古臭い、しかし男子とつきあったことのない当時の私には、ややおマセな内容であった。そういうものを、書架の陰で結構ドキドキしながら読んでた中2の自分。
70年代初めのことである。今思うと穴があったら入りたいような気恥ずかしさを覚える。


純愛なんて、まるで自転車を押しながら歩く中学生のカップルの掌の汗を濃縮したような単語ではないか。そういう牧歌的なものは、少女まんがとコバルト文庫の世界以外、もう日本には存在しないことになっている。‥‥と大人になった私はずっと思っていた。
しかし、90年代にぼちぼちと現れ、2004年に突如として爆発した純愛ブームの中で、それまでとてもウケるとは思えなかったベタな純愛物語が次々ヒットし、そこらの小学生からオバチャンまで「純愛」を口にするようになった。
このままいくと、不倫も援交も出会い系もすべて純愛タームで語られるのではないか、という勢い。今さら「純愛なんて」と恥ずかしがってる方が牧歌的だろ、ということになったのである。


そういう純愛物語の大安売りの一方で、純愛がどういうものかは、どうも見えにくい。
純愛とは何か。
愛する人は、純粋な人なのか。
純愛するから、純粋になるのか。
純粋ってどういうこと。
純愛の行く末は、幸せか不幸か。
そして、なんでこうも皆純愛(物語)に惹かれるのか。


世の中に恋愛論はあまたあるが、純愛論はほとんど見かけない。
純愛ブームについてはいろいろ語られたが、真に腑に落ちる言葉は見当たらない。純愛など女子供の戯れ事で、真面目に論じるほどのものでもないということだろうか(学者にとっては)。
では、学者じゃない人にとっては?


「純愛映画って超泣ける」「泣けるっていいよね〜(はあと)」
「純愛って胸キュン」「だよね〜(はあと)」
「いま純愛中なの」「いいな〜(はあと)」
その程度のことで、純愛および純愛ブームは片付けられそうになっているような感じだ。
でも純愛って、単なる「胸キュン」なんですか。古今の有名な小説や映画を見れば、胸キュンどころか(そういうのもあるけど)、胸ズタズタである。身も心もボロボロになってるのもある。死が待ち構えているのもある。つまり、あまり生易しくない。


生易しいことをドラマにしても仕方ないということもあろう。
しかしそれなら、戦争とかテロとか飢餓貧困とか不治の病とか無差別殺人とか幼児虐待とか、もっと生易しくない題材はいくらでもある。
にも関わらず、それらに匹敵するかのごとき真剣さとエネルギーで、純愛は描かれている。

気づいた時は手遅れ

現在、純愛を巡る言説について整理してみると、3つのレベルがある。
1、純愛ブームという現象について
2、純愛物語というコンテンツについて
3、純愛を実際にすることについて


1と2については、「泣けるっていいよね〜」を脱した観点で、客観的に分析してみることは可能であろう。
しかし3は難しい。純愛は、あくまで当事者のもの。純愛について凡百の言葉を並べるより、実際に純愛した方が早い。
そして純愛の渦中にある人は、おそらく多くを語らない。カッコつけてるわけじゃなくて、純愛を生きるのに必死だから、それを語っている暇がない。
これは、恋愛にも結婚にも言えることかもしれない。ただ、恋愛について多くを語らない人は、それが人にはあまり語れないタイプの恋愛だからであり、結婚について多くを語らない人は、語ったところでどうにもならないことを知っているから、だったりすることもある。
純愛の渦中にある人が寡黙になる、他とのコミュニケーションを積極的に求めないとすると、それは純愛によって自己完結できているということになろうか。言葉の無意味さに出会っているということであろうか。
そんなすごいものなのか、純愛って。


広辞苑を引くと、「 [純愛] 純粋な愛。ひたすらな愛情。」という素っ気ない説明である。広辞苑も、純愛については多くを語らないのである。
そこには暗に、純粋ではない愛、ひたすらではない愛情もあるという前提がある。つまり愛にはいろいろあると。その中で、純粋でひたすらで生易しくないのが純愛とすると、凡人にはおいそれと手を出せないもののようにも思われる。


しかし幾多の純愛物語を見れば、純愛は「手を出す」ものではなく、不可避的に陥ってしまうもの。気づいた時はもう手遅れで、後戻り不可能な状況に放り込まれている。
「気づいた時は手遅れ」は恋愛も同様だが、その後が違ってくる。どこまでも純粋でひたすらである以外のあり方は、ありえないのが純愛。あとはそれを運命として甘受し、邁進するしかない。
邁進のプロセスで純愛者は、さまざまな厳しい選択を突きつけられる。純粋でひたすらな愛に、ハンパな妥協は許されない。
純愛という単語のほのぼの感に反して、純愛はしんどいものである。

恋愛と結婚の関係

恋愛は純愛とは、異なる。
純愛は細い一本道だが、恋愛は百メートル道路もハイウェイもバイパスもある。恋はゲームとののたまう恋愛上級者も珍しくない。
ちょっと身ぎれいにしてそうえり好みしなければ、今や誰でも簡単に恋人を見つけることができる時代。これがダメなら次、次がダメならその次というふうに、サーフィンのごとく相手を乗り換えている人もいるらしい。


昔は、恋愛の延長線上に結婚を考える人が多かった。
今でも、熱烈恋愛している相手と、そのまま結婚する人はいくらでもいるようだ。恋人との幸福な結婚。それは、恋愛の最重要課題の一つであろう。初恋の人と結婚してしまったなんて、うらやましいのかうらやましくないのかよくわからないが、「ロマンチック」な話もごくたまに聞く。幼なじみや、学校の先輩(や同級生)とずっとつきあっていてとかいうのも、なんとなく微笑ましい気がする。
しかし、そこらを歩いている若いきれいな女子をつかまえて尋ねてみなさい。今つきあっている人を生涯の伴侶にしたいですか?と。
「えー?恋愛して楽しい人と結婚したい相手とは別でしょ」という、しっかりした答えが返ってくる確率は、おそらく70%以上。


数年前からある大学で「ジェンダー入門」を担当するようになったので、授業でいろいろ調べてみると、女子にはそういうしっかり者が多い。
小倉千加子の『結婚の条件』でも、そのような女子学生が平均的な像として描かれていた。夢と現実の境目ははっきりしているのである。
「この人はルックスも好みだし楽しいしセックスの相性もばっちりだけど、結婚はちょっと」と、「これならどこに出しても恥ずかしくない。合格」との間には、見えない線が引かれている模様。
いろいろ恋愛経験はして、多少の無駄をしても男を見る目を養っておいて、最終的には結婚向きの人と結婚したいという計画が、なんとなく立っているのである。
女子と生まれたからには、若い時は男子にちやほやされてナンボ。恋愛は、言い寄ったり言い寄られたり言い寄られるように仕掛けたりして、楽しむもの。その中に純愛っぽい胸キュンなやつが、一つくらいはあってもいい。せつない失恋も一つくらいはあってもいいかも。オプションとしてね。


既にそう若くはないが結婚を望んでいる女子になると、下手にあれこれ恋愛して時間を潰しているわけにはいかない。従って最初から「合格」ラインに達しているかどうかの見極めが必須となってくる。
2000年に大ヒットした月9ドラマ『やまとなでしこ』のヒロイン桜子も、「出会ってから一週間が勝負なの。だらだら恋愛なんかしてたら、セフレにされるのが関の山」と言っている。もちろんその出会いは「運命の出会い」のごとく演出し、熱烈恋愛モードに持ち込まねばならない。純愛?そんな乳臭いネタで遊んでる暇ないわ。

プロに純愛論は必要ない

純粋な快楽と、結婚に持ち込む前戯、という両極の間の対異性行動心理。それが今の恋愛の姿である。
一方の極、純粋な快楽としてのみ楽しめる男女は問題ない。それはいわば恋愛のプロであり、プロにとって恋愛は人生に必要不可欠な無駄である。
もう一方の極の、結婚にもちこむ前戯と割り切れる桜子タイプもプロ。こういう人は、逆に無駄を嫌う。いずれにせよ、プロでもないのにプロを気取ると、大変な目に遭う。


プロの人々は「恋愛論」なんてものを読もうとは思わない。まして「純愛論」をや。従ってここまで読んできた人は、紛れもないノンプロかプロから転向した人だ。
ノンプロの我々凡人の恋愛心理は、誰かに愛されたい、誰かを愛したい、相思相愛になっていちゃいちゃしたい、楽しいことを全部二人で共有したい、何か大きな心の支えがほしい、そうやってこのパッとしない人生を輝かせたい‥‥という欲求に裏打ちされている。


だから「あら、あの人私に気があるのかも」と思っただけで何となく接近してみたり、ちょっといいなくらいの男にチョコをプレゼントして反応を伺ったりするのである。そこで芳しい反応があると、わりと簡単に恋愛モードに雪崩れ込める。反応がなければ、「ま、ネタだったってことで」と言い訳して逃げられる。
一方では、誰もが狙っている「いい男」が妙に欲しくなって、なんとか籠絡しようと頑張ったりする。そしてその延長線上に「結婚」の二文字が見えてくれば、頑張りにもターボがかかる。ダメなら諦めて次に行く。
以上、すべて普通の恋愛模様として語られていることである。


何をぬかす、恋愛をバカにしとんのか、という声があるかもしれない。
恋愛とはもっと全身全霊を賭けるものよ。そして人生を豊かにし、人を成長させるものよ。そんな計算ずくの利己的なものなんかじゃない。恋愛を冒涜するな。
はいわかりました。でもすべての人が、そういう恋愛至上主義者ではない。人生を豊かにし、人を成長させるんでなければ、恋愛ではないというきまりもない。駆け引きしようが騙し騙されようが、人生棒に振ろうが振らせようが、恋愛の本質には関係ない。


じゃあ恋愛って何だと言えば、スタンダールの「ザルツブルグの小枝」の比喩で十分である。
塩の結晶を厚く纏った枯れ枝は、きらきら輝くダイヤモンド(に見えるの)である。

輝くダイヤに魅入られて

愛した相手=生涯の伴侶というロマンチックな考えが崩れ去り、恋愛も多様化したと言われる今、「ザルツブルグの小枝」は、恋愛よりも純愛にこそぴったりかもしれない。
純愛は、恋愛の特殊カテゴリであるが、相手を塩まみれの枯れ枝ではなく「ダイヤのようにきらきら輝くもの」だと、一方的に思い込むところから始まる。
あれは(あの人は)なぜきらきらしているのだろうか?それをどうしても知りたいという想念に取り憑かれ、彼/彼女はひたすらに邁進する。相思相愛になるか片思いで終わるかとか、セックスや障害の有無は、そこでは大した問題にはならない。


恋愛ならば、お互いにきらきら(化けの皮)が剥がれてからが醍醐味だという、大人の考えもあろう。
恋愛関係は、胸キュンレベルからまったりレベルまで様々である。仕事や世の中の雑事や時には結婚とも、うまいこと両立可能である。ふったりふられたりしても、それは相手が悪かった、あるいはよく考えると合わない相手だった、あるいはどちらかが成長したので脱皮したくなった、あるいは何となく飽きたということで、一応の言い訳、決着をつけられる。


ところが純愛はそうはいかない。なぜなら純粋でひたすらでなければならないから。
関係を延命させる策や、日常生活を破綻させない技術や、失恋したのを言い訳する知恵は、純愛にはない。
結婚?そんなところに易々と着地しようと計算するのは、単に真面目な恋愛かできちゃった婚である。
逆に言えば、策も技術も知恵も計算も使えなかった恋愛は、事後的に純愛となる可能性がある。プロを自認する人ですら、時としてそういう目に遭う。プロの自信によって、思わぬところで足を掬われるのである。
純愛は人に、どこまでも厳しい選択を迫る。何でもネタとしてあしらう狡猾さは通用しない。
きらきら輝くダイヤに魅入られて道なき道を歩くマジベタな態度だけが、純愛を支えている。


なんでそうまでして危険な場所に赴くのか? 
なんでダイヤが、塩の結晶に覆われた枯れ枝だと気づかないのか? 
純愛者は、向こう見ずのバカなのか? 
純愛ブームは、バカでベタの大流行りということだったのか? 
それを次から考察していく。


<お知らせ>
純愛ブームだった去年、純愛についていろんな人と意見を交換し、暮れには「純愛とジェンダー」シンポジウムも行い、しかしいまだ「純愛ブームってなん(だったん)だろ‥‥なんで純愛映画に泣けるんだろ‥‥私は純愛をしたのか、しなかったのか‥‥純愛って‥‥あーでもないこーでもない」などと悶々としていたところ、突然「おまえが純愛論を書いてみろ」というストライクゾーンど真ん中の御用命を頂きましたので、これから今年いっぱい、純愛について考え吐き出していくことにします(時々は他のネタも書く予定)。