『女という病』を読む

「自分」スパイラルの女

女という病

女という病


少し前、テレビなどで中村うさぎを見ると私の周囲では、「あの人、そのうち自殺するんじゃないの」という危惧の声があった。
2ちゃんねるのうさぎスレッドでも、同様の書き込みをいくつか見たことがある。まあすぐさま低レベルのバッシングに覆われる2ちゃんなので、彼女を「基地外ババア」扱いする書き込みは多いが、印象に残ったのはその中の「うさぎ、死ぬなよ」。
そのくらい、中村うさぎは「イタくて危ない」感じを微妙に漂わせていた。


買い物依存症からホスト狂い、整形、最近のデリヘル嬢体験までの彼女の「病理」は、多くの女の中に多かれ少なかれあるものだろう。おそらく私の中にもある。それを「病理」とまでは意識できないことが多いから、つまり中村のようなわかりやすく極端な形で表面化しないがゆえに、逆にそれは深く「病理」化するのだろう。
中村はモノ書きなので、そういう「イタくて危ない」自分というものを冷静に分析できてしまうのだが、分析できたからといって、そこから脱することができるわけではない。
これは最初から意識できないより、つらいことである。自分で何もかもわかってしまっていて、しかしそういう自分でしかあり続けられないという苦しみ。


そこに完全に居直ってしまえれば、楽だ。これまでのエッセイでは、「居直り」も自虐的笑いと共に描かれている。
だが中村は根がマジメな人なので(というかモノ書きなので)、次の瞬間には笑い飛ばし居直っている自分もまた、冷静な分析の対象となる。酒井順子なら「ま、大目に見て頂ければ(苦笑)」みたいなノリでやんわり逃げられるところを、中村は逃げ切れないところまで自分を追いつめてしまう。
彼女が言うところの、自分に対する「ツッコミ小人」が自分に取り憑いて離れない、ということなのだと思う。


自分を突き放そうとして中村は書く。私って。私って。私って‥‥ああ私ってなんでこうなのだ。
もはやこれ以上は居直れず、笑い飛ばすにはイタ過ぎ、グジグジと言い訳するなどみっともないので到底できず、かと言って書かないでいるわけにはいかず、書いて人様に読んで頂く以上それなりのサービスもと思い。
そのあたりがイヤになるほどよくわかるので、エッセイにはやや食傷気味ながら、本人からは目が離せない。


自分について書くということは、すごく気持ちいいかすごく落ち込むかのどちらかである。「これだと書いててさぞ気持ちいいでしょう」という文章は、日々の生活や趣味嗜好などを気侭に書き綴っている匿名個人ブログやミクシィの日記などに時々見られる。
だいたい、自分について書いて自分で落ち込むようなことを、普通の人は公の場所でなかなか書けない。だから不特定多数から「こう見られたい」自分を少しばかり演出するのは普通だ。自虐を書いたとしても、自虐を余裕でできる自分に対する気持ち良さ、ナルシズムがある(やれやれ、私も時としてそうかもしれん)。


中村の最近の文春連載が冴えないのは、そういうことを知り尽くしてしまっているからだろうと思う。
彼女がもう十分わかっている自分の病気は、「こんなの私じゃない!」という叫びがこだましている悪夢のような「自分」スパイラルだ。それにハマったこの愚かな女王様を見よ、と中村は書いてきた。
女性性にとらわれる「女」としてのうさぎと、それを批評する「男」としてのうさぎ。たぶん片時も気の休まる暇がないだろう。
その無限地獄を思ったら、ウンザリして死にたくなってくるのではないか。あるいはある日突発的に、目も当てられぬようなとんでもないことをやらかしてしまうのではないか。中村に感じられた危ない感じは、それだった。


しかし彼女は、自分の「分身」に観察の目を向けることで、そういう「危機」を間接的に回避、あるいは昇華しようとした(ように思う)。
『女という病』は、そういう本である。

彼女たちは私だ

中村うさぎは、もともとジュニア向けのファンタジー小説出身だが、その物語作家としての資質がこの本には生かされている。
といっても、これは小説ではない。女が中心人物となっている最近起こった事件(どれも「ああ、あれか!」と思い出せる)を十三件取り上げ、その取材をもとにして半分分析、半分はその女(自分の分身)に中村が「憑依」した形で書いたもの。
まえがきで本人も言っているように、客観的な事件ドキュメントではなく、中村の「私の物語」である。


事件の当事者に書き手の過剰な思い込みが透けて見えると、その文章はちょっと読みにくいものになることが多い。ルポライターの書いた「事件簿」系の読み物でもそういうものが時々ある。
週刊新潮連載の「黒い事件簿」など、書き手によって「なんだかな」と思える時があるのは、いかにも陳腐でわかりやすい心理描写がされているからだ。というか、陳腐な心理というのはアリなのだが、描写の仕方が紋切り型で鼻白むことがある。
『女という病』も、これも本人が断っているように、さまざまな裏付けをとっているとは言え、思い込みや深読み(そして若干の近親憎悪)満載の読み物である。
しかしこの本ではそこが逆に、圧倒的な強みとなっている。それは、事件を起こした女を、一人の女がまるで自分自身のことのように、まさにイタコ状態で書いたがゆえに獲得できたリアリティ、ということに尽きる。


これは、どれだけ綿密な取材を重ねても男には書けない(いい意味でも悪い意味でも)「女の物語」である。いやおそらく中村うさぎにしか書けない「物語」。
しかし中村のスタンスに、愚かで不幸で救いようのない事件の女に対する、哀れみや同情はない。女がこうなってしまったのはすべて男社会のせいだ、あるいは逆にフェミニズムの幻想が女を追いつめたのだというありがちな断罪もない。
もしその手の安直なものだったら、私は最後まで読み通せなかっただろう。


子持ちの保育園園長が預かった他人の子どもを床に叩き付けて死に至らしめるという心理を、私たちは理解できるだろうか。 
かかりつけの精神分析医にまったく虚偽の生い立ちを信じ込ませて婚約者になり、最終的に殺されるくらい振り回してしまうような女を、理解できるだろうか。 
若い母親が自分の子どもの睾丸の一部をカッターで抉り取るという行動に、共感するだろうか。 
自堕落さゆえにホームレスの売春婦になって客と無理心中しようとした女に、同情できるだろうか。
ニュース番組や新聞で見れば、まず「なんてことを」「理解できない」「どうして?」である。そして背景を洗ってみれば、子どもの頃に受けていた親からの性的虐待、不幸な家族関係、閉塞的な日常生活などが浮かび上がってくる。
ああやっぱりね、でもそんな酷い事件まで起こす人は極一部でしょ。それにいくらなんでも殺人や子どもへの虐待は許されない。
そこで私たちの思考はストップする。


中村のスタンスは「極一部ではない」というものだ。
AERAなんかではそういうノリで時々「女の特集」が組まれるが、あれにしばしばつきまとっている軽薄さや無責任な煽りは、中村にはない。事件の女たちは、「自分」スパイラルに陥ってにっちもさっちも行かなくなった女であり、中村は「彼女たちは私だ(そしてあなただ)」という(絶望的な)確信のもとに書いている。
その確信を支えるのは、「女の自意識は、それ自体、病である」(帯の文句)ということである。
「私って、私って(なに?)」という一人称を堂々巡りしているのが、女の自意識である。そこで事件の女たちは「本当の自分」探しにハマって迷走したり、そんなものどこにもないという事実に怯えて転落したり、「幻想の自分」を捏造して暴走したりした。
中村のこれまでの「歩み」も、そのことを物語る。「発症」しないで済む場合もあるかもしれないが、保障はないのだと。


では、その「病」が完治したら、女は「幸せ」になれるのか。 
どんな境遇の女でも、自分幻想に浸ることをやめて現実を直視するべきなのか。 
そして自分を不幸にする現実と闘うべきなのか。 
それを要求するのは酷ではないかと中村は言う。
一連の事件からわかるのは、彼女たちにとって、男女共同参画社会の「意義」も料理を作ってくれる男も「女人禁制の大峰山に登ろう」パフォーマンス(えらい騒ぎになっている)も、ましてや最近流行のロハス生活の「魅力」も、あまりにも遠い出来事だという現実である。


どうにも治癒しがたい「病」と「健康」の乖離。その距離の大きさを前にすると、「べきだ」という言葉や希望の言葉は安易に吐けなくなる。だから中村は「彼女たちは私の鏡像だ」と言い、「軽蔑することはできない」と書いた。私もそれに共感した。
しかしこれこそが、出口なしの不毛なスパイラルだとしたら。
その「先」を中村うさぎは、どう書くのだろうか。