私のことはあなたがすべてわかってくれる

脱性器的快楽

それはアナルセックスのことではない。いや、「脱性器」だからそれも入るのかな? しかし"場所"が近過ぎるし性器的快楽の補助のような。どうなんだろ。
‥‥のっけからそういう話ですみません。脱性器的快楽については、宮田さんの記事(07/11/23追記:現在閉鎖されてます)を参照して頂きたい。


宮田さんの議論の文脈では、脱性器的快楽とは、ペニスとヴァギナの関係以外の、特に女性同士の身体的、精神的快楽のこと。
私の言い方だと、なんかくっついているだけで気持ちいいの、みたいな。一緒にいろんなことするのが楽しいわね、みたいな。わかるわ女同士ですもの、みたいなものである。同性愛とまでは自覚されないが、横並びでゆるく繋がっているまったり心地よい感じ。
その脱性器的快楽に、女性達が大変魅せられているという話である。
こういう志向は古くは、昭和初期の少女小説に描かれた先生やお姉様への思慕、女学生間の三角関係あたりの乙女ワールドから始まるのだろうか。宝塚の男役へのファン心理の共有も、脱性器的だ。宮田さんがとりあげていた「冬ソナチアン」達を結びつけてるペにしても、「脱性器的存在」である。
ヨン様とは手をつないでいるだけでいいの。一緒にいろんなことするのが楽しいわね(セックス抜きで)。それをわかってくれるのがヨン様。むしろセックスなんかない方がいい。だいたいペニスとヴァギナの関係は、基本的に能動・受動の関係から逃れられない。いつも気持ちいいとも限らないし。
「何もしなくても、足を絡めて寝ているだけで満足」という女の気持ちは、そのあたりから来る。それを理解しないと、女性とはつきあえない時代である。それだけはどうしてもわからんな、などと言っている私の夫のような男は、前世紀的男根主義者として徐々に駆逐されていくのである。


男女のセックス=愛情表現と思っている人もさすがに消滅し、性的快楽=セックスという図式さえこうして相対化されている今、性器の結合は、あまたある性的快楽のほんの一部。
セクシャリティも性的快楽も多様であるという論議も活発なので、異性愛、同性愛を問わず脱性器的快楽を描こうとする物語は、これから小説や映画でますます増えてくるだろう。
これを「異性愛(性器)主義批判」という方向で、積極的に捉える人も多いようだ。もちろん、多数派の異性愛以外の愛をマイノリティだからと言って抑圧、排除するのは、良くないに決まっている。
が、話がそちら方面のことに及ぶと、「お米だけが主食じゃないよ、パンだってパスタだって美味しいじゃん。お米主義はダメ」と主張しているように聞こえるのはなぜだろう。さらには時として「ご飯しか食べないというのは味覚が貧困」みたいに聞こえるのはなぜ。


パンもパスタもおいしいだろうが、それはご飯がおいしいのと同じである。つまり、おいしさ=快楽を味わっていることにおいては、両者は同じ。
だから、男女の愛が制度と幻想の上に成り立っているもの(それは事実)だと言って、ユートピア的女性同士の関係こそ素晴らしいという主張に賛同する気にも今いちなれない。個人単位で見れば、すべては自分の舌を満足させたいがために過ぎない。


私はご飯しか食べられないヘテロな人だ。パンやパスタに行きそうになったことはあるが、やはりそちらにはあんまり向いていないと自覚した。
行きそうになったきっかけは、私の場合、異性との関係にひどく傷ついた時だった。もう男はやだ。男的なものからとにかく身を遠ざけたい。そう思っていた頃に、同性と抱き合ったりキスしたりしたことがあった。それは一瞬だったが、とても気持ちいい体験だった。
別に相手に「私、男はもうイヤなんです」という話をしたわけではない。ただ偶然何かが共鳴したのだと思う。
‥‥いや「共鳴」なんてェ書き方は、カッコつけ過ぎだ。自分が勝手に「私のことはあなたがすべてわかってくれる」というモードになっていただけ。相手はたぶん私の態度に柔軟に合わせてくれたのである。
彼女は、どことなく私に外見の雰囲気が似ている人だった。自分に似たその人とお酒を飲んで話していたら、なんかもっとくっつきたくなって一緒に踊った。いちゃいちゃしている私と彼女を、まわりの男性は呆れて見ていた。
後で考えると、私は自分と抱き合って自分とキスして自分といちゃいちゃしていたことになる。つまり、一時的に自分の舌を満足させ、傷ついた自分を慰めたいがために、他人の体(と好意)を利用していた。
そういうことは、異性愛でもよくある。その点においては、異性愛も同性愛も、性器的快楽も脱性器的快楽も同じだろうと思う。

F君の手

「自分を慰めたいがために、他人の体(と好意)を利用する」ことに、あからさまに利用されたこともある。小学校の修学旅行の時の話。これを書き出してから、ああそんなこともあったと思い出した。


修学旅行は何が楽しいかと言うと、「夜」である。夜、お座敷に友達と一緒に寝るのがとにかく楽しい。枕投げ、プロレスごっこに興じるのはもっぱら男子で、女子の場合は噂話と告白タイム。ゲームに負けたら、クラスの好きな男子の名前を言わなきゃならないとかそういうの。
同じ部屋の女子は別の部屋に集まって騒いでいたが、私とSさんは騒ぐのが苦手だったので参加しなかった。Sさんとは席が隣同士で少し仲良くなった間柄。とても小柄で大人しいけど時々ユニークなことを言う彼女が、私は結構好きだった。


みんなが戻ってきてまたひとしきりペチャクチャやっているうち、一人眠り、二人眠りしてだんだん静かになり、やがて軽い寝息のほかは何も聞こえなくなった時、
「オオノさん、まだ起きてる?」
と隣で寝ていたSさんが突然囁いた。
「起きてるよ」
「ちょっとお話しない?」
「いいよ」
それから彼女は小さな声で、綿々と告白を始めた。私へのではなく、クラスのF君への思いを。
F君はあまり目立たない男子だったが、身だしなみがとてもよかった。手を洗った後、いつもきちんとアイロンのかかった真っ白なハンカチをポケットから出す男の子。それが私のF君の印象。
Sさんは、そういうF君が好きで好きでたまらないが、告白は恥ずかしくてできないのである。でも誰かに言いたい。そして聞いてもらいたい。
「F君ってよく見るとハンサムだよね。F君って時々面白いこと言うよね。F君ってカッコいいと思わない?」
「そうだね」
「ねえ、私とF君ってどう思う?」
「結構お似合いだと思う」
「ほんと?ほんとにそう思う?」
「うん、思う。背もつりあってるし」
だいたいそんなような他愛もない会話をヒソヒソ声でした。


それからしばらしくして、Sさんはおずおずと
「オオノさん、ちょっと手貸して」
と囁いた。何だろうと思いながら布団の中から右手を差し出すと、彼女は私の掌をそっと取って
「これ、F君の手だと思っていい?」
と訊いた。
「いいよ」
私は11歳にして、Sさんの幼い欲望を直感的に理解した。好きな男子の手に触りたい、手をつなぎたいという気持ち。私はSさんの恋心に半ば同調していた。
そんなにF君が好きなのか。でも言えないのね。そりゃさぞせつないだろうね。この際、私の手をF君の手だと思って好きなようにしなさい。
私は右手を差し出したまま上を向いて、暗い天井を眺めていた。Sさんは私の掌を優しく両手で包んで撫でた。私はピアノを習っていたから比較的手が大きい。たぶん超小柄なSさんにとってみたら、男の子の手だ。彼女は私の手を撫でながら、
「F君‥‥F君‥‥」
と泣き出しそうな嬉しそうな声で呟いた。彼女の息が私の掌にかかった。
それから私は、なんか柔らかくてしっとりした感触を手の甲に感じた。
それはSさんの唇だった。
Sさんが私の手にキスしてる。それも何回も。
「F君‥‥好き」
チュッという微かな音。
急速に複雑な気持ちになってきた。彼女の欲望を理解したと思っていたが、事態は想像以上のところに進展している。
別に嫌なわけじゃないけども。私の手は今F君の手だから、別に私が困ることはないんだけども。ただものすごく落ち着かない。Sさんの唾液がついたところが、なんかスースーする。でもここで何か言ったり動いたりしたら、余計に変なことになるような気がする。
私は天井を見たままじっとしていた。Sさんが私の手を自分の胸の真ん中あたりに押し当てた時も、息を殺していた。


30秒後か1分後かわからないが、彼女は小さい溜息をついて、
「ありがとう」
と言って手を離してくれた。私は引っ込めた手をこっそりシーツに擦りつけて、布団の中でパタパタ振った。そうしないと、自分の手に戻らないような気がして。
ちらっとSさんの方を見ると、戸の隙間からの光で、彼女の目を閉じた満足気な横顔がぼんやり見えた。
「これで私、F君の夢見られそう」
「ん」
「オオノさんも、私がいい夢見られるように祈っててくれる?」
「ん」
「うれしい。F君、おやすみ」
「‥‥おやすみ」

疑似レズ同調集団

Sさんは、翌日は何事もなかったかのようなケロッとした顔をしていた。だから私も何事もなかった顔をした。
自分を慰めたいがために、他人の体(と好意)を利用した彼女に対して、腹は立たなかったし嫌悪感もなかった。私はそれをわかって「手を貸した」のだから。
それより、普段とても地味なSさんの、なんか大人の女の人のような恋心の激しさとやってることのギャップを、理解しようと努めるので精一杯だった。そうしないと、なんか気持ちが片付かない。
あれが、F君でなくて「オオノさん‥‥好き(チュッ)」だったら、私は思わず手を引っ込めたかもしれない。そういう感情が自分に向かってくるのは、ちょっとタンマ。でも他人への恋愛感情なら想像できる。小6でも恋愛はそれなりに大切なものだ。


これは、「ヨン様への憧れ」を介して結びついている女性達の関係とは一見違う。が、「ヨン様への憧れ」のところを「F君への恋愛感情の理解」とすれば似て来る。
私がF君のことを大嫌いだったら、「手を貸す」のは断ったはずだ。そんな男子への恋心は理解の外。F君に別に興味はなかったが、Sさんの気持ちは素直によくわかった。
一方で私は、彼女がもしアタックしても無理だろなと冷静に思っていた。そういうことも、他人からすると直感的にわかるものだ。たぶん聡明なSさんも、行動に出るつもりなんかない。同性の友達に人には言えない胸のうちを聞いてもらって、密かに夢見てることをシミュレーションして味わってみたかったのだ。
そこまで私に気を許しているSさんに、「諦めた方がいいと思うよ」とか「私の手をおもちゃにしないで」などとは言えない。


女子の間では、まずは同調することが掟である。「そうだよね」「私も」が合い言葉。仲良くなるとトイレタイムまで同調。テストの点も同調。もちろん持ち物とか服装の趣味も"おそろ"が楽しい。
「私はそう思わない」「あなたの言ってること、おかしいと思う」「それ、私は嫌い」なんてのは禁句である。そういう窮屈なのが苦手だったので「私は私」を通してきたつもりの私も、個人的に同調を求められるとなかなか拒めない。


Sさんに手にキスされたことから、脱性器的快楽に目覚めることはなかった。脱性器どころかまだ未性器的段階。でもオナニーというものは既に知っていたし、性欲もはっきりと自覚していた。そして、自分はちょっと早熟過ぎるのではないか?という孤独と不安があった。
だからSさんにも性欲(キスしたいってのはそうだ)があるということを知って、少しほっとしたのは事実だ。もしかしてSさんもオナニー知っているのかも‥‥。その想像だけでも、孤独と不安を和らげるには充分である。


同性は決して私を傷つけない。私を理解してくれる。身体的にも精神的にも、私のことはあなたがすべてわかってくれる。「そうだよね」「男にはわからないよね」と同調して、優しく包み込んでくれる‥‥。
そういうことを、女子は女子の集団の中で体得していく。同性集団の中において、女子はだいたいレズビアン体質なのである。だが一度「私はそう思わない」と言い出すと、徹底的に排除されることもある。
中学くらいになると、男子同士はかなりおおっぴらにオナニー談とか性的体験を語り合うものだと思うが、女子の場合はそこまでしないことが多い。もっと曖昧な形で"連帯"を確認する。
更衣室なんかで着替えしていて「AさんDカップなの?いいな〜」とか言いながら、「ねえねえ触らしてー」とどさくさ紛れに触ったり。触られた方も「やめて〜」とか言いながら、結構嬉しそうだったり。
そう言えば抱き合ったり悪戯半分にキスするのは、女子同士ではたまにあった。脱性器的快楽の目覚めだ。ただしそういう"戯れ"が許される相手と許されない相手がいるので、見極めが大事。


このような若い頃の疑似レズ同調集団を経て、男性と一対一でつきあってなんかいろいろ疲れて、また中年くらいで疑似レズ同調集団に戻ってくる、というパターンはありそうだ。
そういう、同調を男に求めても決して得られないと知って女同士まったり仲良くするのと、最初から男には期待しないで女に行くのとで、どれだけの違いがあるだろう。
あるいは、一人の男への愛を通してつながるのと、憎しみを通してつながるのと、どれだけ違うだろう。


ヨン様ファン(男への愛?)、男嫌いの真性レズビアン(男への憎しみ?)、大奥(愛憎半ば?)、フェミニスト(男社会へのヒステリー?)‥‥。「男」という項目を介してある種の同調性を持つ点で、どの女の集団も本質的に似ている。そこで孤独と不安は解消され、脱性器的快楽にも没頭できる。
では、「男」という項目を一切介さない女だけの身体的精神的つながりは? 「女の園」と言われてきたあらゆる領域に男が参入している現在、ないかもしれない。
とすれば、「男」という媒介項を外せた時、女の集団は離散し、一人一人になるのだろう。
それが、堪え難いほど孤独で不安かどうかは、わからない。