12 歳の父性

『誰も知らない』の明君萌え

一昨年いろいろな賞を取り、カンヌでは最優秀主演男優賞まで取って話題になった映画だから、今頃見てるのはちょっと遅いが、昨日、来週の授業で使うドラマのビデオを借りに行ってふと思い出し、『誰も知らない』を借りてきて見た。
東京で起こった、母親による子ども置き去り事件を元にした話である。

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12歳の長男を筆頭に、それぞれ父親の違う兄弟姉妹四人とシングルマザー。
母親はその事情を隠し、夫が海外出張で長男と二人暮らしだとアパートの大家に嘘をついているので、三人の子どもは部屋から出られない。長男明と長女の京子は学校に行かせてもらえず、働いている母親に替わって幼い弟と妹の面倒を見、家事を分担している。
YOU演じる母親は、子どもの父親には全部逃げられてしまっているだめんずウォーカーで、外でしょっちゅう「恋」をしている恋愛体質。子ども達を可愛がってはいるが、彼女自身が子どもなので、明や京子の方が大人に見える。
母親に置き去りにされ、お金も底をつき、電気も電話もガスも水道も止められ、子ども達だけの生活はだんだん困窮していく。
明は長男の責任感と子どもなりの知恵で、何とかこの難局を乗り切ろうとする。母親が仕事ではなく、男とどこかに行ってしまったことを彼だけは察知している。
そして、子どもにはとても耐えられないような現実をどうにかしようと一人で悩み、悩みは妹達に見せまいと気遣い、今日明日を生き抜くことに必死になり、時々疲れ果て、普通の少年らしい願望(学校に行きたい、友達がほしい、野球がやりたい)と、その諦めの間で揺れている。


長女は母親を待ちわびてだんだんウツになるが、幼い弟と妹は無邪気だ。その日常が淡々と描かれる。
最後の方で悲劇が起こるのだが、その場面さえ涙はない。戦時下の国ならこういう子どもも珍しくないだろうが、現代日本の都会の真ん中で「誰も知らない」そういう立場に立たされてしまったということが、彼らの不幸である。
子どもを放置する母親のどうしようもない無責任さや、その母親に子どもを押しつけて逃げた(のであろう)男の身勝手さや、シングルマザー家庭の深刻な問題などを云々するのは容易い。キャッチコピーも「生きているのは、おとなだけですか」。
しかしそういうメッセージ以前に、私が釘付けになったのは、柳楽優弥演じる明君。もうほとんど恋をしてしまった。12歳の男の子に。


中年女が何を気色悪いことぬかしとんのか? ‥‥別にいいです、そう言われても。
ジャニーズ系美少年ではない普通っぽい男子のやや暗めのルックスが、まず大変良い。誰もが賞賛することだが、キッとした強い目がすばらしい。
今は15歳になってマックスファクターのCMに出ている柳楽君に、キャーキャー言っているおばさんも多いようだ。しかし私が「恋」をしたのは、あくまで12歳の明君である。


「お母さんね、今好きな人がいるの」と長男に打ち明ける脳天気な母親に、呆れたように「また?」と呟く明君。
食事の支度をし、ダイニングキッチンのテーブルで漢字のドリルをする明君。
末の妹の父親のところに金の無心に行く明君。
ゲームセンターで知り合って友達になった(おそらく同学年の)少年達と遊ぼうと、中学校の校門で待っていて結局振られる明君。
汚れたTシャツにぼさぼさ頭で、コンビニの裏口で売れ残りの弁当をバケツにもらう明君。
それから、学校で疎外されている孤独な女子中学生のサキちゃん(おお、私と同じ名前!)と知り合って、ふと自分のTシャツが汗臭くないか匂いを嗅いでいる明君。
生活に疲れ、聞き分けのない弟にキレる明君。
少年野球に飛び入りで参加し、束の間年相応の少年っぽい表情を見せる明くん。
妹のためについに薬を万引きする明君。
そして、大きなスーツケース(この中に最後の悲劇がある)をサキちゃんと飛行場の近くの空き地に埋める明君。


息子のいる母親がこれを見たら、たまらないものがあるだろう。いや、子どものいない女が見ても、激しく母性本能を刺激される。
一人で健気に闘っている明君をぎゅう〜と抱きしめてやりたい気持ちになる。そしてなんかおいしいもの作って、お腹一杯食べさせてやりたい。
母性愛には性的欲望が混じっているのではないかと宮田さんが先日のブログで書いており(07/11/21追記:現在ブログ閉鎖)、私もそれに賛同する立場だ。だから明君に「恋してしまった」気持ちには、まさしくそういうものがあるということを認めよう。

年増殺しの台詞

もちろん長女の京子ちゃんにも、私はかなり感情移入した。自分が長女なのでそれは容易だった。
いくら頼れる兄さんがいても自分と歳の近い子どもだし、お母さんに甘えたいのは10歳前後なら当たり前。母親の中の異物(女)をなんとなく感じながらも、会いたい思いが嵩じて、押し入れ(母の残して行った服がある)の中に閉じこもってしまう京子ちゃん。
明君が「母さんはもう帰ってこない」と、お金に替えるため母親の衣服を押し入れから乱暴に引っ張り出すのを、「やめて、触らないで」と必死で押しとどめるシーンは、涙なしには見られない。
だから私としては、彼女もぎゅ〜としてやりたい対象なのだが、それは明君とはまた違うのである。明君はやっぱり男だからなんかが違う、というほかない。これ以上子どもだと私的にはちょっとわからないが、異性は異性である。
しかし単に異性である(それも好みのルックスの)というだけでは、恋愛感情は生まれない。孤立無援の中で困難な立場を引き受け、幼いながら発揮される少年の「父性」‥‥私はそこにやられた。


「父性」とは本来、子どもに服従を強いる絶対的な権力の別名であり、力の象徴である。
しかし少年がそれを持つと、その中身は変容する。子どもから「男」を経ないで、一足飛びに「父」たる役目を押し付けられているところから、変容は生まれる。少年の「父性」とは、本人も意識せず、そんなもの発揮したくもないのに、やむを得ず発揮せざるを得ないもの。
だから「父性」を成熟した大人の男が持っていても、そんなに惹かれない。むしろ「父性」を振り回すような男はウザったい。母性愛を押し付ける女が、若い男にとって鬱陶しいのと同じだ。
が、ずっと年下の持たなくてもいい立場の者がそれを持っているのを発見すると、意表を突かれる。


たとえば『ギルバート・グレイプ』でジョニー・デップが演じた主人公ギルバートは、24歳だが明君と状況が似ている。
父親は死に過食症で寝たきりの母親、姉妹、知能障害の弟を抱え、家族を支えるため田舎町でただ地味に働いている青年。人妻と不倫しているが、それはほとんど互いの一時的な性欲を満たしているだけの関係で実りはない。彼の人生に「青春」みたいな輝かしいものはない。
いずれも、自分のわがままを押さえ、自分の欲望を諦め、身内の犠牲になって黙って過酷な何かを耐えている。環境がして彼をそのようにふるまわせているのである。
明は母親に対して、子どもというよりむしろ諦観しつつ見守る者だ。12歳なりに自堕落な母親への怒りもあり、一方でもっと普通に甘えたい気持ちもあるだろうとも思うが、相手の性格と状況がそれを許してくれないので、一人で闘うしかないと次第に肚を括っていく。
そこにあるややあぶなっかしい感じと、意外にも頼もしい感じ。
手を引いてやりたい感じと、手を引かれてみたい感じ。
少年の「父性」には相反する要素が微妙なバランスで共存している。うまく説明がつかないが、そこがこちらのツボを直撃する、年増殺したる所以(男でもそういうことあるのではないかと思う)。


ということは、母性愛には、一方的に息子を守ってやりたい、構いたいという感情だけではなく、息子に守られたい、構われたいという感情もあるのではないか。
母親になったことのない私だが、明君みたいな子に「守ってもらいたい」とふと思ってしまった。内面的にはすごく大人な少年に、「しっかりしないとダメじゃないか」とかマジに叱られてみたい。時には頭も撫でてもらいたい。それが大人の男じゃいや。
‥‥なんかおかしいですか。


もしかすると、自分が息子や娘ほどの歳の子どもを教える立場にあるので、逆にそう思うのかもしれない。
専門学校では去年、「先生、俺のおかんになってくれ」と言われて引いた。そういう一方的な甘えはいくら冗談でも勘弁。ところが今年は、のっけからまったく違う台詞を聞いた。1年生の授業の冒頭、新歓コンパのお知らせをさせてくれと教室にやってきた去年の学生達。代表でそれを述べた男子が最後に言ったのは、
「じゃあみんなデッサン頑張って。サキちゃんをイジめちゃいけないよ」
半分笑いをとるためとはわかったが、一瞬クラッとしたのは確か。「もう歳だからね」と付け加えなかったところは、特にありがとう。もう私「おかん」でもいいわ。‥‥と心の中で言いつつ、実際は黙って流した大年増の私である。