会話男

非モテの鍵

コミュニケーション能力があるかないかが、何よりも重要なことのように言われるようになったのはいつ頃からだろうか。
「コミュニケーション」とは意思疎通のことだから、世捨て人でない限り、何人もある程度は欠かせない能力ではある。この言葉にはいつも微妙にしっくりこないものを感じるが、他に適当な言葉を知らないので私も仕方なく使っている。


就職の面接などでチェックされるのも、コミュニケーション能力。
仕事が対話を基盤としていたり、それも不特定多数を相手にする場合、特に重要視される能力である。相手の立場に立って話すとか、建設的に話を進めるとか、思考回路の異なる人と対話する努力をするとか、特殊な仕事に就いてなくても求められる場面は多い。
コミュニケーション技術とか能力は、最近では、恋人獲得能力の一つとしてよく云々されている。
非モテのために磨かねばならないのは、おしゃれセンスとコミュニケーション能力ということになっている。イケメンゆえにモテる、金持ちゆえにモテるは無理でも、コミュニケーション能力が高いゆえにモテるというのは、努力すればできそうに思えるので、ネット上ではそっち方面の話題が一頃活発であった。


だが、恋人獲得のためのコミュニケーション能力とは、対話の中で何か鋭い真実を突くとか、意見を闘わすとか、議論を発展させるとかいうことではない。以前共感能力だと書いたことがあったが、よく考えてみるとそれだけでもない。
ありていに言ってしまうと会話力、会話における自己プレゼン能力、ということに尽きる。私の見たところ、モテる男の人というのは、例外なく自己プレゼンに長けている。
女の話をよく聞くのが、プレゼンその1。聞いているようで聞いてない人が多い中、ちゃんと「聞く姿勢」ができているということはポイントが高い。
ただし聞いて共感しているだけでなく、気の効いたツッコミもできなければならない。それもあまり鋭い真実を突くとアウト。上手な返しのテクニックやバリエーションが問われる。
そして大抵の話題にそつなく対応できる守備の広さがあり、知識量は豊富で話は面白く、しかし喋りが暴走するということはなく、褒め上手。
つまり、バランス感覚に優れ頭の回転が早く博覧強記でユーモアのセンスがあり女心を察知している男。
書いただけで軽く疲労感を覚えるが、顔でも金でもなくモテると言われる人は、そのようなプレゼンテーションが苦もなくできる「会話男」である。そういう印象を相手に与えられる能力が、モテにおけるコミュニケーション能力なのである。
おそらくどんな脱非モテへのアドバイスを見ても、そう書いてあるはずだ。


もちろんナチュラル・ボーン「会話男」というのはいない。その手の能力は一朝一夕には身につけられない。たゆまぬ知識の吸収蓄積とセンス磨きと場数をこなしてきたキャリアが要求される。
そういうキャリアを、「会話男」は内心実は大変自負している。そしていわゆる口が重かったり、話し下手な男に対しての優越意識がある。優越意識が自信となって、ますます会話に磨きをかけられる。
上級者になると「ニュース・ステーション」の頃の久米宏くらいの、いかがわしさが漂う。古館ではダメだ。たまに踏み外すから。
そう言えば昔、久米宏が会話術の本の中で、コミュニケーション能力に優れた女性タレントとして、デビュー時の榊原郁恵を挙げていた。いつも明るく笑顔を絶やさず、言うことが前向きだからだとか。
それはただアイドルだからだろうよ。と思ったが、女向けのモテ技術本とか雑誌では、筆頭にそういうことが必ず書いてある。そして、ほんの少しの「意外性」が重要だというのもお約束。


つまりモテる「会話男」にぴったりなのは、自分の会話術に寄り添ってくれるフォロー力と、会話を活性化させる「驚き」を持った女。
驚かせ過ぎはいけない。スパイス程度にしておかないと。「会話男」は自分の話芸を芸術的な料理のようなものだと思っているので、調味料の配分には気を使う。

無駄なコミュニケーション能力

恋愛におけるコミュニケーション能力を高めたい人は、万全の「会話男」を目指す。しかし私から見ると、会話の上手過ぎる「会話男」はほぼ例外なく、ナルシストである。そして、ナルシストが「コミュニケーション」を越えて踏み外す道というものがやはりある。


たとえば自分の中での「映画(でも小説でも音楽でもマンガでも好きな俳優でもいいが)ベスト10」みたいなものは、誰でも少し考えると出て来る。
「ええと、『荒野の七人』」
「あ、私もそれ入る」
「それから『ゴッドファーザー』」
「私も!」
「それからね‥‥」
という感じ。一気にすらすら出て来るものではない。
しかし「会話男」は、
「ベスト10? うむ、10本に絞るのは至難の技だな」
とか言いながら、1分以内に女のあまり知らない映画のタイトルを監督名、主演俳優名つきで並べられるのである。
「へえ、映画詳しいのね。私どれも見てない」
と女は感心。すると、
「ベスト100ならちゃんと選べるかもしれない」
などと言って、翌日本当にメールで「マイ・フェイバリット・シネマ、ベスト100」を送ってくる。解説つきで。
知の埋蔵量を誇りたい男は、時々加減というものを忘れる。


知でノックアウトできない相手に対しては、カウンセラーになる。
女のまとまりのない冗長な話を辛抱強く聞いてやった後、
「君ってさ、口ではそう言っているけど、実はこうなんじゃないのかな? つまり君が求めているのは、こういうことなんじゃないの? それが君の本心だったりして。僕はそんな気がするな」
みたいなことを、水割りグラス片手にたたみかけるのが「会話男」のコミュニケーション技術。いや私がそういう目に会ったということではありません。あくまで想像。
こういうことは、中年がやることである。中年でマメで分析好きなら、それなりの年期も入っているから引き際も心得ており、嫌みでもウザくもなくできる場合があるかもしれない。そうでない場合、ただのおせっかい男だ。
だが会話において、軽いカウンセリング要素を男に求める女は多いので、やり過ぎなければ需要はあるのだろう。


バランス感覚・頭の回転・博覧強記・ユーモア・女心を察知。このうち三つくらい欠けているのが、普通である(私の夫など、どれも満たしていない)。
たとえば話を良く聞いて受け答えも的確だが、知識に偏りがありユーモアセンスは今いちで女心には疎いとか。知識やユーモアはあっても、受け答えがワンテンポずれるとか。マニアックな話題で喋り過ぎるとか、お世辞が下手だとか。
そうしたコミュニケーションのデコボコ感というものが、会話の本質である。
だが、「間の悪い」コミュニケーションというものを若者は嫌うらしい。テンポよくスムースに流れないと落ち着かないようだというのは、学生の会話を聞いているとわかる。そこにあるのは本来の意思疎通ではなく、ノリと暗黙のルール(「空気を読め」)を守らせる同調圧力だ。


恋愛の場面だと、同調したい(そして好かれたい)という欲求と、安易にそうすると中身がないと思われる(やっぱり好かれたい)という心配の板挟みとなりがちである。相手との微妙なズレに自覚的なのでさらにデコボコ感が出てしまう。その結果さらなるズレが醸し出され、それにいたたまれなくなり、どうでもいいことを喋り過ぎて後で後悔したりするのが定石。
そもそも、過不足のない十全なコミュニケーションなんてものは、ない。特に異性間では、いつも何かが多過ぎるか、足りなさ過ぎる。


その点、「会話男」は全部仕切ってくれるから、女としては楽ちんだ。
しかし全打席内安打で盗塁スクイズ何でもござれみたいな、用意周到な会話を展開されても、時間は潰せるが心底魅了はされないだろう。この人は自己完結型のナルシストね。そう見えた瞬間、興味は失せる。
だから、異性とのコミュニケーション技術とか能力など、最低限のマナーを守っていればそれで結構。
あのやっかいな恋というものは、いたたまれないデコボコから生まれるのではなかったか? 
非モテで汲々としている人には、そういう基本的なことを言いたい。