「男→女」

仕事の帰り、車を運転して家に向かっている途中の話。


私の前に、荷台に小さめのクレーンを搭載したトラックが走っていた。
信号で止まった時、そのクレーンの後ろの部分に「男→女」とペンキで書いてあるのが読めた。
一辺15センチくらいの白い四角の中に青い細明朝体で「男」、同じく白い四角の中に深紅の細明朝体で「女」、その間にあるのが赤い普通の矢印。
なんだろう?これ。


もしこのクレーンが運転手個人の物だとすると、この「男→女」はその運転手の個人的メッセージだろうか。
ベタな想像をすると、その運転手は男性から女性へ性転換した人だとか。「男→女」の意味を普通に考えると、「男から女へ」であり「男から女になった」ととるのが自然に思える。
しかし仮に性転換した人だったとしても、そういうことをここでこんなメッセージとして発するだろうか。
性転換したことを不特定多数の人に吹聴したいという性転換者は、少ないと思う。カミングアウトする人も中にはいるが、男性から女性になって、普通に女性として生きていきたいと思うなら、元男性だったことは普段は隠したいはずだ。
しかし男から女になれるということを、主張したい気持ちもどこかにあったりして。女になってこうして生きてる人はいるのよ、と。そういう心境をわかる人にだけわかるように知らせたかったりして‥‥。


そう思ったら、どうしてもその運転手を一目見てみたいという欲求がわき起こってきてしまった。
トラックの右のサイドミラーを注視したが、反射してあまりよく見えない。トラックの右側に入ってチラ見したいと思ったが、トラックはずっと右車線を走っているので無理。次の信号で左車線に並んでみようと思ったが、他の車が連なっていて無理。
私は、ずっと「男→女」を見ながら、そのトラックの後を走った。


「男→女」は、「安全運転」と書いてあるような事務的な感じで書かれていた。矢印の部分はペンキが一部剥げかけ、全体の印象として、後からわざわざ書いたというより、最初から書いてあったように見える。まるで業務連絡のように。
ということはこれは、重機業界の符丁みたいなものだろうか。たとえば「男」に相当するのが最初に引くべきたぶん大きいレバーで、「女」に相当するのが次に引くべきたぶん小さいレバーとか、あるいはまずレバーを「男」マークから「女」マークに引けとか。クレーン車なんか運転したことがないのであくまで想像だが。


フォークリフトなら乗ったことがある。乗ったと言っても運転したのではなく、ただ運転席に座っただけ。
芸大の彫刻棟の前の石彫場にフォークリフトはあった。女性の助手の人が様々なレバーを操って大きな大理石を移動しているのを見て、「カッコいい」と思った。それで誰も見てない時にこっそり乗ってみた。
その時「男→女」とどこかに書いてあったかどうかは、覚えていない。


私が右折する交差点で、そのトラックも右のウィンカーを出して曲がっていったが、信号が赤に変わり私は停車しなければならなかった。
「結局ナゾのままか」と思っていたら、トラックは右折してすぐ左手の吉野屋の駐車場に入っていった。
ということは、運転手が降りてくるわけだ。
なぜか胸がドキドキしてきた。


駐車場に停まったトラックを注視していたら、頭にタオルを巻いたヤンキー風の若い男が降りてきた。タオルから出た茶髪が肩にかかっていて、中肉中背。見たところ男性だ。ここからだと男装している女性には見えない。
運転手は吉野屋に入っていった。遅めの昼食でもとるつもりなのだろう。
私もその隣に車を停めて吉野屋に入り、さりげなく運転手の隣に座り、牛丼並を注文してから、おもむろに
「あのー、クレーンを積んだトラックを運転してる方ですよね。隣に車を停めたので見たのですが、後ろに書いてある「男→女」ってどういう意味か、伺ってもよろしいでしょうか」
と聞いてみたい。ああ、ものすごく聞いてみたい。
でも不審に思われるかもしれないな。なんだよ、このオバサンって。


‥‥と悶々としながら、吉野屋の前を通り過ぎて家に帰ってきたのであった。
世の中には私の知らないことがいっぱいある。