「HN:素朴な疑問」の人の「タネあかし。」について

これについて言及すること自体、「釣り」にますます乗ることになるという見方もあろうが、自分のスタンスをはっきりさせるいい機会なので、遅ればせながら書いておこうと思う。
個人的にはこちら(11/20追記:旧ブログのコメント欄は復元できませんでした)で「陳謝」に対する返事はしたが、「ネット上の人格を担保としていない人」との議論は慎重であった方がいいという意見(ARTIFACT@ハテナ系)が出ていた。
つまり相手の情報がほとんどない状態では、まともに議論に挑まない方が賢明であると。確かに私はその点無防備である。
しかしネット上に言論の蓄積がない人を警戒するとなると、ブログを持ってない人、これまでネットの議論に参加していなかった人の意見は、どんなに面白いことを言っていてもスルーされることになるのだろうか。そうすると掲示板の議論など不可能になりそうだ。


私の場合、コメント欄に書き込まれた時、その人のこれまでの言論が追跡不可能でも、書き方に真面目さが感じられ意見内容に興味が持てれば、なるべく丁寧に対応するようにはしている。
書き込んだ人がどのくらいの期間ネットで発言しているかを、気にしたことはない。むしろやりとりの中で、どのような意見傾向の持ち主なのかを考える方が面白い。
その人の意見がネタかどうかということは、まともな議論が継続されている(と自分で判断できる)間は考えない。まあ私は基本ベタの人で、ネタをやりとりしている余裕もないが。
仮に途中(または後)でネタとわかったとしても、私にとってそれらの意見が興味深かったという事実に変わりはないし、やりとりして得たことの(自分にとっての)意味も変わらないように思う。
唯一相手と問題が共有できていなかったという事実が残るが、それをもし「裏切られた」とか「寂しい」と思うとしたら、自分が相手に一つの人格を見て継続的な交流を望んでいたからということになるだろう。
そこまで行くには、かなりの長期間、密度の高いやりとりをするか、その人のブログを前から読んでいて信頼できると判断していないと無理だと思う。


今回の議論の中で、「HN:素朴な疑問」の人は論理的整合性だけに興味があり、表明したい何らかの意見を持っている人ではないということを知った時点で、私とはスタンスの違う人だと感じた。
そして開設されたブログにおいて、烏蛇氏への対応に若干忌避感を感じ、その後の意見内容に対する興味も失い、私はコメントをやめた。その替わり、何らかの反応を引き出すためとしか思えない長文を毎日のように書く"情熱"の出所は、どこにあるのかに関心をもった。
「HN:素朴な疑問」の人は最後に、すべての反応はブクマも含めて想定の範囲内だったとし、一方で今回の目的は達成できたとしていた。
私から見ても、今回コメント欄、トラバ、ブクマコメントで発言した人の言説から、とりわけ目新しい発見が何かあったとは思えない。手間暇かけて、あらかじめわかっていることを確認したという以外に、何が達成できたのかは不思議に思う。


私の印象に残ったのは、ネタとかベタとかいうことではなく、「HN:素朴な疑問」の人のブログの一連の記事も、「これだけはマジ。」としている最後の記事も、奇妙にパラノイアックだったということである。特に「非モテ」について。
そしてもっと奇妙なことに、「ネタ」でも最後の「マジ」でも、「非モテ」に関してのスタンス、視線はほぼ同じなのである。卓袱台返しになってない。にも関わらず過剰な「してやったり」目線。意味がよくわからなかった。


結局あそこにあったのは、「ネット上で不特定多数に読まれている自分の言葉」を巡っての自家中毒のように私には見えた。
こうしたことはもっと薄められた形で、さまざまな言説の中に潜在しているのだろう。たぶん私の言葉の中にも。