タラ子のプライド

デザイン専門学校で、一年生のデッサンの授業をもっている。今は、組み合わせた複数のモチーフをB2の画用紙に、約15時間にわたって精密にデッサンする課題。
時間が三分の一ほど過ぎたある時、1人の学生が「描き直したいので、新しい紙もらえませんか」と言ってきた。
実は、ちょっとプロポーションがおかしいことは、30分ほど前に指摘していた。細部をいい感じに描き込み出した時だったので、少しショックだったようで、彼はすぐ直すということはしなかった。私も無理強いはしなかった。しかしそれが、そのうち必ず気になってくる種類の狂いだということがわかり、思い切ってやり直そうと思ったようだ。
この時点で一から描き直すのは、結構勇気がいる。周囲の学生が彼を感嘆の眼差しで見ていたので、私も「決断力あるねぇ」と言った。


指摘されても、「違ってない」と強弁する学生はたまにいる。それまで「これでいい」と思い込んでいたのが「違っているよ」と言われて驚くのだ。言われた通り見直して、確かに違っているとわかる。それだけでも凹む上、直すにはせっかく苦労して描いたところを消さねばならない。
自分が正しいと思ってやっていたことを自己否定するのは、やはりつらいものである。書き直す労力もバカにはできないし、周囲には遅れをとる。そういうことを考えて「違ってない」と一旦はダダを捏ねるのだ。それだけでは収まらず、
「今日は寝不足で体調が悪いから、うまくいかなかった」「この位置は不得意だから、最初からあんまり描きたくなかった」「ちょっとおかしいのは知ってたけど、後で直すつもりだった」‥‥
とか言い訳が始まることもある。50人中1人くらいそのタイプがいる。
私はそういう学生を「タラ子」(言い訳タラタラ)と呼んでいる。


タラ子は、何か問題を指摘された場合、言われた中身を詳しく点検するのではなく、まずやれなかった言い訳を考える。言い訳を並べ立てることで相手の同情を買い、自分のデッサンの拙さや取り組み姿勢の甘さに対する批判の矛先を逸らせると思っているようだ。
そのことによって守られるのはタラ子のプライドだけだが、それが結構高いので、自分で自分の非を言うならともかく、人に言われて素直に認めるのは嫌らしい。
言い訳は防御であるが、それが嵩じて開き直った反撃になることもある。
「わかってるけど、ズバッと言われるとやる気をなくす」
そういうことは、最初のうちは誰でも多かれ少なかれ感じることだ。特にそれまで何かについて厳しい指導を受けたり、何度もダメ出しされたことのない学生は、そう感じやすいものだ。
しかし講師が学生のやる気をなくさせるために存在しているわけではない、ということは皆知っているので、「やる気をなくす」とは口には出さない。私の方も、学生がそれなりの努力をしているのは知っているので、それが結果に現れていなくても「やる気あるのか」とは言わない。
互いにそれを口に出さないでいる御陰で、表向きの信頼関係に基づいた「場」が形成され、私の授業も成り立っている。学生のデッサン力が伸び始め、表向きが実質的なものになるには1、2ヶ月はかかるので、それまでは多少ストレスが溜まってもお互いに我慢だ。


大半の学生が我慢して言わないでいてくれていることを、タラ子は易々と口に出す。信頼関係や「場」を保つことより、その場の自分のプライドを守る方が大切なのである。
まあ「場」とか何とか気にしないで自分の実力の向上だけに務めてもらっていいのだが、タラ子はそれもできない。実力をつけようと思えば、指摘に耳を傾けねばならず、それに基づいて自分のやっている内容をよく点検しなければならず、言い訳なんか言っている暇はないからである。逆に言えば、言い訳が言えるうちはまだ余裕がある。
そのうちスタートラインは同じだった友人達にじわじわ差をつけられ、タラ子は焦り出す。
「何をやったらいいのかわかんない」
と泣き言が出る。
「もうお手上げだから、先生直して」
プライドもへったくれもなくなる。
「まず、これとこれを確かめて。次がここ」
「先生、最初からそれ言ってくれてたら良かったのに」
‥‥言ってたって。あんたが聞きたくなかっただけで。


新しい画用紙に描き直しをした学生は、そのペナルティを跳ね返して猛烈な勢いで追い込んで、まあまあの点数を取った。講師に指摘されたとこだけ直せば、もっと効率は良かったはずのデッサンを反故にしてまでやり直しをしたのは、「大変でも一から全部自分でやり直さないと気が済まない」というプライドだろう。タラ子のプライドとはだいぶ違う。
なぜそうなるのだろう。専門学校に来るまでの18年間でそうした違いが生まれているのだろうが、私にはそれを知る術はない。