ネット上の暴力

こないだのエントリのコメ欄(11/19追記:5/31のコメント欄は復元できませんでした)で、ショータ氏とやりとりしていて考えたネット上の暴力について。ここでは、罵倒について考えてみる。


罵倒言葉はそれ単体で取り出せば、不快な言葉である。できれば口にしないでおきたい。しかし、相手から浴びせられた罵倒に、痛烈な罵倒でやり返すということは、場合によってはありだろう。
「どんな挑発的な言葉を投げつけられても、それに乗ってはいけない。泥沼になるだけだから」という意見もあるだろうが、すべての人がそこまで我慢強いわけではないのだから、これは仕方のないことだ。
誰かを貶めるための卑劣な誤摩化しや理不尽な権力、暴力の行使に対して、怒りとともに罵倒することもよくある。それによって、同じ立場にいる者を勇気づけることもあるので、この手の罵倒はそれなりの意味を持つ。
力を持たない者にとっては、言葉で殴りかかることが唯一の抵抗であり、その武器だけはあると示すことが最後の希望であったりする場面はある。
ファックコミュニケーションでは一転して、罵倒が親しみの挨拶として両者に認識されている。それを見て不快感や疎外感を覚える人はいるのだろう。どちらか一方と交流があれば尚更だ。
しかしこうしたことはあらゆる人間関係で起こりうる。すべての人とまったく同じように接することは難しい以上、どういうスタンスでコミュニケーションを取れるか/取りたいかが、相手によって違ってくるのはやむを得ない。


以上のシチュエーションにおいて、罵倒は許容されていいと私は思っている。逆に言えば、そういう了解がない場で吐かれる罵倒には、強い忌避感を持つ。
気に入らない者や言説に対して、その理由を論理的に説明をする手間を省き、ただ不快感の表明として吐かれる罵倒言葉。喧嘩でもないのに、いきなり威嚇や脅しとして吐かれる罵倒言葉。さしたる根拠も示されないまま投げつけられる罵倒や嘲りは、理不尽な暴力である。
それは道を歩いていて、通りすがりに人を殴るような行為に似ている。殴るのがその人のカジュアルな挨拶だとしても、普通は許容されないだろう。一方でどんな立派な行いをしていたとしても、それによって相殺されることはない。


リアルでは許容されない暴力が、ネット上にはある。それを許容する「場」があるからだ。何の理由も示さず投げつけられる罵倒を芸風とかキャラクターだとして容認するような感覚が、曖昧に共有される「場」。
驚くべきことに、ネットの人間関係や人との距離感に敏感な人が、罵倒者の無礼な振る舞いを黙認していたり、人を褒めることの暴力性を懸念する人が、交流している相手が罵倒を吐き散らしていることには寛容だったり、批判を価値観の強要と取るような人が、他人を一方的に貶める言葉を吐く者を擁護したりする(その言葉が自分に向けられたものでなければいいのだろう)。
本当に忌むべき暴力とは、実は個々の罵倒でも罵倒者でもない。
論理立てた批判も議論もせず罵倒を繰り返す者を許容することで、罵倒された人々を二重に罵倒することになる「場」である。そういう「場」を、人間関係のしがらみによって曖昧に維持しようとする人々である。そこにあるどうしようもない想像力のなさ、鈍感さの中に、真の暴力性は孕まれている。