『星の牧場』と近所のゴッホさん

風邪気味だったりして頭があまり働かない時に、よく子どもの頃に読んだ本を読み返す。今日は『星の牧場』を読んだ。小五くらいの時に学校の図書館で借りて読んでから、何度か読み返している本。児童向けとなっているが、大人でも充分面白く読める。むしろ大人になって読んだ方が味わい深い。


舞台は第二次世界大戦が終わって少し経った頃の信州あたりの牧場。そこで働いている青年モミイチは、出兵中に酷い負傷を負いマラリアに罹り、記憶を失った人である。彼の覚えているのは、マニラやインドネシアのスラバヤで入院していた時の現地の町や自然の風景、楽隊の音、そして世話をしていた軍馬ツキスミのことだけだ。
乗っていた船が魚雷を受けて沈没しかかった時、モミイチは一人で馬達を繋ぐ綱を切って逃がそうとしたのだが、彼自身も大怪我のまま海に投げ出され、ツキスミとはそれきり生き別れになってしまったのだった。
牧場にも山にも馬はいないのに、馬の蹄の音が聴こえると言うモミイチを、牧場の人々は「頭がおかしくなった」と不憫に思っている。モミイチの頭の中には、ツキスミと過ごした日々が現実とも幻想ともつかない美しい「記憶」として残っていて、やがて馬蹄の音に誘われて山の奥に分け入って行き、そこでオーケストラをやっている愉快なジプシー達と出会う。不思議なことにその何人かは、かつての戦友達にそっくりである。


シラカバの林やマツムシソウのお花畑や山の朝焼けや夏の夜空など、自然の描写が生き生きとして素晴らしく、まるでツルゲーネフの小説を読んでいるようだ。山の中を転々としているジプシー達の気侭な暮らしはどこか無国籍な感じで、彼らがモミイチにふるまう食べ物(干した鹿肉とかグーズベリーのジャムとか七色のミネラル水とかカニとカタツムリとクルミバターのピッツァとか)が、またとても美味しそうなのだ。
最後にモミイチはツキスミに山の中で「出会う」のだが、その場面は幻想的な絵画のごとく描かれている。そもそも山の奥のジプシー達も、実在していたのかどうかわからない。おそらく「そこ」は、現実の世界と霊界が交差するような特殊な場所だったのだろう。
孤児だったモミイチにとってツキスミは初めて心を通わせ合える唯一の相手だったから、彼は結局そちらの世界に招き寄せられていったのだ。実直で無口で孤独な青年の中にある、失った愛する者への止み難い思いがせつなく哀しく伝わってくる。
彼が牧場で働きながら、炭焼きをしながら、山の中をほっつき歩きながら、何を見て何を聞いていたのか、何を探し求めていたのか、回りの人には最後までわからないのだった。



ここから物語とは別の話です。
久しぶりに読んでいて突然思い出したのは、子どもの頃道でよく見かけたおじいさんのことである。私の家は市街地のずっとはずれにあり、1960年代〜70年代中頃は、まだ畑や雑木林があちこちに残るのんびりとしたところだった。学校帰りにしばしば、そのおじいさんと遭遇した。
おじいさん(と言っても最初に見た時はまだ50代だったと思う)は白髪の多い頭を坊主刈りにし、いつも学生服の上下のように見える黒い粗末な服を着、素足に破れた運動靴を穿いて、てっくてっくと道を歩いていた。比較的長身で痩せていてやや猫背で、顔は赤銅色に焼けていた。


初め見かけた時は、子供心にちょっと怖かった。「浮浪者のおじさん」かとも思った。その当時の浮浪者とは今のホームレスと少し違って、服かどうかわからないボロをまとい髪はザンバラに伸びていて髭もボウボウ、ズダ袋を引きずって繁華街を徘徊したり、駅前にムシロを敷き空き缶を前に置いて座っている人だった。そういう浮浪者というか物乞いの人を、街中で何度か見かけたことがあった。
でもそのおじいさんは、浮浪者にしては髪はいつも短く刈り、髭も伸ばしてなかった。ただ服がいつも同じで大層みすぼらしく、そんな格好で歩いている人は近所にはいなかったから、道で出会うとなんとなく端っこの方に避けていた。当時そのあたりはまだ舗装されてない道が多かったせいか、ツンツルテンのズボンの裾とそこから出た踝が、砂埃でいつも白く汚れていた。


その人がわりと近所に住んでいる人だと知ったのは、小学校三年か四年頃だった。母が聞いてきた話によると、若い時徴兵に取られていて何年かしてやっと外地から復員してきたら、婚約者が別の人と結婚してしまっており、それ以降頭がちょっとおかしくなったということである。婚約者の人は相手がなかなか帰ってこないので戦死したものと思い、諦めてしまったのかもしれない。
家族とも死に別れたので、遠い親戚が引き取って家の離れに住まわせていた。たまに農作業も手伝っているようだった。「あの人は何もしない大人しい人だから、怖がらなくてもいい」と母は言った。


もしかしたらあの黒い学生服みたいなのは、出兵する時に着ていた軍服なのかなと思った。ボロボロになってもそれを着ている。夏も冬もまったく同じ格好だった。半袖シャツだったりコートを着ているのは見たことがない。そして年中素足に運動靴。
カンカン照りの日も風の強い日も、外を歩いていた。雨がざんざん降ってる中を、傘をささず足も早めずに歩いているのも見た。彼にとって気候の善し悪しは、歩くことに全然影響しないようだった。
いつも両手をズボンのポケットに入れていたが、たまに小さい新聞紙の包みを小脇に抱えている時もあった。どこかで拾ったのか左右違う運動靴を穿いていたりした。



家ではその人のことを「ゴッホさん」と呼ぶようになった。「ゴッホの自画像にそっくりの顔をしている」と父が言ったのだ。画集で見たら、本当によく似ていた。
ゴッホさん、よく見るとなかなかハンサムよね」と母が言った。確かに彫りの深い顔立ちをしていた。ただ画集のゴッホよりゴッホさんの方が年をとっていて眼光も弱々しげで、顔に刻まれた皺も深かった。


ゴッホさんは、毎日ずいぶん遠いところまで足をのばしているらしかった。ある日街までバスに乗って買い物に行った母が「今日、松阪屋の前をゴッホさんが歩いていた」と興奮して言った。この辺から街の中心部まで20キロはある。「あんなとこまで歩いて?」「あの人どこでも歩いて行くのよ。バスからテクテク歩いてるのを見たこともあるわよ」。
ゴッホさんはいつ見てもまったく同じ歩調で、てっくてっくと歩いていた。長い道のりを歩き慣れた人のようなその歩き方で、ずっと遠くの方から見かけても「あ、ゴッホさんだ」とわかった。
いつも前を向いたままで無表情だったが、たまにブツブツと何か呟いたり、ふと思い出し笑いをしているような顔の時もあった。通りすがりにじっと見ても、まったくこちらは目に入ってないふうだった。
小学生のわんぱく坊主が「ヘンなじじい!」と聞こえよがしに言って逃げていっても、見向きもしなかった。耳が遠かったのかもしれない。野良犬が足下にまとわりついているところも見たが、構うわけでも追い払うわけでもなくてっくてっくと歩いていた。自分の世界に入り込んだ人のようだった。
時々どっかの公園で寝ているのか、服の背中に枯れ草がくっついていることがあった。怖いという気持ちはなくなったが「草、ついてますよ」と声をかける勇気もなく、私はそのやや猫背の後ろ姿を見ているだけだった。


ある時、母が玄関先を掃こうと表に出てみると、ゴッホさんが家の石垣の前にうずくまって何かしていた。覗き込むと、U字溝に溜まった枯れ葉を掻き出している。それも素手で。別に頼んだわけではない。母は「おやめください」とも言えず、「どうもすみませんね」と話しかけたが、ゴッホさんは口の中でなんか呟いただけで、下を向いて作業に没頭していた。
しばらくしてまた母が表に出てみると、家の前から隣の家の前までU字溝がすっかりきれいになっていて、傍らに濡れた落ち葉がまとめてあったそうだ。
どうやらゴッホさんは、気が向くと人の家の前の溝を勝手に掃除したりしているのだった。生け垣の前に三色スミレマツバボタンが咲いている家があり、その回りに少し生えた雑草をせっせと抜いているのを見たこともあった。近所では「あの人がやりたいんだから、黙ってやらせておこう」ということになっているようだった。
いつのまにかゴッホさんの短い頭髪は白髪混じりではなく、真っ白になっていたが、着ているものは相変わらず同じだった。



私は高校を卒業して受験のために上京し、年に2、3回帰郷するだけになった。ゴッホさんのこともすっかり忘れた。
大学を出て郷里に戻ってきた時、ふと思い出して「そう言えばゴッホさんて元気かな」と母に訊ねると、数年前に他界したとのことだった。「しばらく見かけないからどうしたのかと思ってたら、肺炎をこじらせて亡くなったそうよ。お葬式の知らせも来なかったけどね」。70はとうに過ぎていたと思う。
ゴッホさん(の名前はついぞ知らないままに終わってしまった)は来る日も来る日も歩きながら、いったい何を見て何を聞いていたのだろう。何を探していたのだろう。
もう誰にもわからない。