『歓びを歌にのせて』の奇跡と幸福

歓びを歌にのせて [DVD]

歓びを歌にのせて [DVD]


昨夜、wowwowで見たスウェーデン映画『歓びを歌にのせて』(2005/ケイ・ポラック)。
正直この邦題はあまりぞっとしないなと思い、始まる前に出た「過密なスケジュールで心身ともに疲弊した指揮者が、第一線を退いて故郷の村に帰り、村の聖歌隊との交流を通して生と音楽の歓びを再び発見していく」といった解説に、癒し系のお涙頂戴映画かと思っていたら、そういう安易なものではなかった。最後まで引き込まれて観た(以下ネタばれあり)。


オープニングは、一面の麦畑。その中で幼い少年がバイオリンの練習をしている。そこにいじめっ子達がやってきて、逃げる彼を追いかけボコボコ殴る。主人公の指揮者を苦しめる、忘れたいが忘れられない記憶だ。
天才少年バイオリニストとしてデビューし、今は人気指揮者として成功した彼は、過労が祟ったか心臓発作に度々見舞われてドクターストップがかかり、一人故郷の村に帰ってくる。


少年時代のトラウマのあるその村になぜ帰る気になったのかは、描かれない。7歳で村を出、15歳のデビュー時に名前を変えたこともあり、村人はその高名な指揮者が村の出身者であることは知らないし、彼もそれを隠している。
指揮者は廃屋となった小学校を買い取り、そこで暮らすことになる。雑貨店店主や牧師に教会の聖歌隊の指揮を頼まれ、一旦は断るものの、村人の素朴な歌声に惹かれて引き受ける。


聖歌隊と言っても、10人くらいしかいない。仕切りたがりやの雑貨店のオヤジ、若い娘、神経質な独身女性、夫のDVに怯える妻、牧師の妻、デブ・コンプレックスの男性、おじいさんにおばあさん‥‥。
指揮者は、ただ声を合わせて歌っているだけだった彼らに、ワークショップから始めて、それぞれの声の個性を発見させ、「皆が心を一つにしないとハーモニーは生まれない」と教える。
こうして彼らと指揮者の間に、ぎくしゃくしながらも徐々に信頼が築かれていく中、さまざまな人間関係が明るみになっていく。


指揮者が若い娘を贔屓していると誤解して、疑心暗鬼になる独身女性。DV夫(実は昔のいじめっ子なのだが彼自身は指揮者に気づいていない)に殴られても練習に来る妻。妻の熱中ぶりに不安を覚え出す牧師。ひょんなことから聖歌隊に参加して、自分の居場所を見出す知的障碍の青年(彼は最後に重要な役割を担う)。
溌剌とした若い娘の明るさと率直さに指揮者の気持ちはほぐされ、淡い恋愛感情も芽生えるが、自分の特殊な立場と、かつて恋人を事故で失った記憶が、彼の行動を牽制している。
DV被害者の女性が教会のコンサートで素晴らしいソロを披露する場面は、圧巻だ。だが、指揮者の人気に嫉妬した牧師が、村の風紀を乱したとして聖歌隊の指揮を解雇してしまい、妻は怒って家出。DV被害者の女性も子どもを連れて家出。


指揮者に関わった人間は、次第に自己の欲望を目覚めさせられ、膠着していたさまざまな関係に亀裂が入るのである。キリスト教の規範を守ろうとする牧師と「異端者」たる指揮者。保守的な共同体とそこに訪れて異変を起こすマレビトという構図にも、きれいにはまっている。
もちろん指揮者はそれを意識して行っていない。外来者たる彼も、次々起こるトラブルに翻弄されながら、だんだん自分自身と向き合わざるを得なくなる。
「妻をたぶらかした」としてDV夫に暴行され負傷した指揮者は、聖歌隊の前で自分がこの村の出身であったことを告白する。聖歌隊の人々は、言葉ではなく美しいハーモニーでそれに応え、指揮者はいつのまにか「皆が心を一つにする」が実現されていることを知る。そして終わりの方になって、件の娘ともようやく相思相愛を確かめ合う。
‥‥とまあここまでは、いろいろあって面白いし感動的でもあるが想像できそうな展開だ。


意表を突かれたのは、最後のシーンだった。
オーストリアで開催される合唱コンクールに出場することになった、聖歌隊(何十人かに膨れ上がっている)の本番の舞台。この流れでいくと、指揮者の元、全員の心がかつてないほど一つになって奇跡のような素晴らしいコーラスが満場の拍手を浴び、グランプリを獲得して村に凱旋!めでたしめでたし。
となるかと思っていると、これが全然違うのだ。四方八方丸く収まる大団円で終わりがちなハリウッド映画とは、一味違うオチ。


もちろんステージで「奇跡」は起きる。だがその場に指揮者はいない。
ステージに辿り着くまでに持病の心臓発作を起こした指揮者は、会場のトイレで倒れ、瀕死の状態で天井のスピーカーからかすかに流れてくる音を耳にする。
それは、指揮者が現れない不安で「声」を出し始めた知的障碍の青年に合わせて、聖歌隊のメンバーが徐々にハモりだし、やがて会場中の人がそのハーモニーに誘われて参加し作り出している「音響」だ。
床に座り込んだまま指揮者は、自分のいない場所で発せられる壮麗なハーモニーに恍惚として耳を傾ける。


死に向かって薄れる意識にフラッシュバックするのが、麦畑のシーンである。
バイオリンを弾いている少年のところに、いじめっ子の代わりに一人の男性が現れて、少年を抱き上げる。あれは指揮者自身だ。大人になった指揮者が、子ども時代の自分を抱きしめている。


長い間避け続けてきた良い思い出のない故郷、いじめの記憶。それらを忘れるために名声と成功を勝ち取ったのに、主人公は自分がかつて捨てた場所、忘れたいと思った場所に帰り、さまざまな出来事に巻き込まれた。
言い換えればトラウマは彼を、それが起こったところに呼び戻し、再度試練を科した。それまで守られた立場にいた指揮者は、村人達とのコミュニケーションに苦闘し、時間をかけて「やり直し」をした。
「やり直し」の仕上げが、それまで何かと指揮者に頼り切っていた聖歌隊の起こした「奇跡」だ。それが彼に、麦畑の幸せなイメージ(過去との和解)を喚起した。


聖歌隊の「奇跡」は、指揮者が発作を起こして間に合わなかったからこそ、必然的に起きた。つまり彼の最期の「幸福」感は皮肉なことに、この先、聖歌隊の面々と歓びを分かち合うことも、村の娘との未来も失われたことが確信された時に、初めて訪れる。
主人公の死は、マレビトは共同体に変化をもたらしたところで姿を消すものであることを意味しているのだろうか。
私はそれ以上に、この作品が、一人の人間が自分を苦しめてきた過去と向き合い、それと和解するまでの心の旅を描いたものだからではないかと感じた。