こどもと言葉と世界のルール

ただ、私が思うのは、人間が正しさを求めるその姿というのは、まさに人間の本質ではないかということだ。人間は弱い。我々は、生来的には直感として正しさ感じることはできないのだと思う。これは、うちのこども(3歳)を見ていると強くそう思う。うちのこどもは保育園に通っているのだが、そこで言われたであろうルールを常に杓子定規に振りかざし、すぐに誰が悪いかの断罪をはじめる。おもちゃを買えとねだるから断れば、小さい子のお願いを聞いてあげないのは悪いことだ*3!と指をさして追求してくる。あのね、お願いにもいろいろあってねと説明するわけだが、私には彼が交渉を目論んで詭弁を弄しているようには思えない。純粋に正しさを求めているのだ。何かを欲しいとちゃんとクチに出して言うことは良いこと*4で、それを聞き入れないのは悪いこと*5なのである。何故正しさ求めるのかといえば、それは何が正しいかがわからず、不安だからだろう。だからこそ、まずは比較的容易に手に入れることのできる言語化された明確な基準のうちに正しさを見出そうとするのではないか。そしてその不安が完全に解消されない限りにおいて、つかの間の安堵を得る唯一の手段こそが、他人を断罪し、自らの相対的正しさを実感することなのだと思う。
うちのこどもと、「正論原理主義」 - よそ行きの妄想より一部抜粋


ブクマコメには「正論ではなく子供らしい屁理屈では?」という指摘もあったが、興味深い話だと思った。私はこどもがいないので、自分のこども時代の記憶や人のこどもを観察した中でしか語れないけれども、こどもは物心ついてしばらくすると、大変に「正義漢」になる時期があるように思う。
砂場で一人だけ陣地をたくさん取っているために、押しのけられているこどもがいると、「いっちゃんだけたくさんとっちゃダメなんだよ!」と言う子がいる。「一人だけいい思いをするのはダメ。みんな平等に」と先生や親から教わっているので、早速それを実行しているのである。
もちろんいっちゃんがたくさん陣地を取っているおかげで、友達だけでなく自分の陣地も小さくなっちゃったという不満もある。その不満に正当な理由を与えるものとして「いっちゃんだけ〜ダメなんだよ!」が適用されるのだ。


おとなから見ると、こどもの求める「正しさ」は「屁理屈」に見えることも多い。なぜなら、目的はあくまで自分の欲求(我が侭)を叶えることであって、いついかなる時もその「正しさ」を保持するくらいに中身を理解しているとは思えないからである。こどもは覚えたての「正しい/正しくない」を、自分の「快/不快」に都合良く当てはめているだけだと。
だがこどもにとって、自分の「快/不快」ほど重要なことはない。そして常に「快」を求めようとしても、いつもおもちゃを買ってもらえるわけでもなく、おとなに言うことを聞いてもらえるわけでもないのも何となく知っている。どうやらこの世界は自分の「快」を疎外して成り立っているところもあるらしい‥‥と、こどもは気づく。
そのルールがまだこどもには呑み込めない。自分にはわからないルールで自分のいる世界が動いていることほど、不安なことはない。


それを少しわかりやすくしてくれるのが、言葉である。「こういう時はこうしちゃダメなのだ。それはこれこれこうだから」。最初のうちは「それはこれこれこうだから」の部分はよく呑み込めないままに「こういう時はこうしちゃダメなのだ」ということだけ、インプットされることも多い。
それでこどもは何度も「どうして?」と訊く。どうしていけないの?どうして私の要求は通らないの?私はこうしたいのになんでダメ? 「ダメったらダメなの!!」 そんなことを言えばこどもはますますわけがわからなくなるので、丁寧なおとなはこどもにわかるように何度も説明をする。


そうなのか。ダメには理由があるのか。ちゃんと理由があるダメが正しいことなのか。いや、幼いこどもがそこまで言語化して考えるわけではないと思うが、それまで混沌としていた世界が、とりあえずその件については「正しい/正しくない」「良い/悪い」で切り分けられることをこどもは知る。
こどもは言葉を通して、初めて世界のルールの一端を知る。世界は自分の「快/不快」をそのまま受け入れてくれるところではないという、恐ろしい事実を。


でもその本当の恐ろしさに気づくのはずっと後だ。こどもはやはりあくまで自分の「快/不快」に忠実に生きたい生きものだから、自分の「快」を「快」のままに、自分の「不快」を「快」に変えるべく、ルールを適用しないではいられない。その矛盾にこどもはまだ無自覚だ。むしろおとながお墨付きを与えたルールを手に入れ、それを振りかざすことに喜びを覚える。水戸黄門の印籠を手にいれたようなものである。これは快感だ。
こどもにとって一番わかりやすい「正しさ」は、弱い者の正しさである。こどもは圧倒的に弱い者だから「正しさ」はこどもの味方だし、弱きを助け強きを挫く勧善懲悪の物語はそれをもっとも単純に示してくれる。
だから見るからに正義に燃えるこどもも時々いる。誰かが虐められていると、遠くからでもすっとんできて「いじわるしちゃいけないんだよ!」と審判を下す。見ていた回りの子も「そうだよ、いけないんだよ!」と加勢。言われたこどもは不貞腐れたりバツの悪そうな顔をする。いやぁ気持ちいい。正しいことは快感なのだ。


正しいことが少しでも「快」と結びつかなかったら、こどもにとって世界のルールはいつまでも恐怖だから、これは避けられない過程である。
やがてそのルールで自分も裁かれるということを身をもって知って、こどもは自分が世界の中心にいるのではなく、その一部に過ぎないことをだんだん理解するようになる。こどもにとっては悲しい経験である。しかしその悲しい経験の積み重ねを通してしか、おとなになれないのだから仕方がない。


こどもは言葉によって、「快/不快」の自分ワールドから「正しい/正しくない」の世界に参入する。そして「正しい」と「正しくない」の間に膨大なグレーゾーンがあることも知る。世界ってほとんどグレーゾーンじゃないか?くらいな感じになって、こどもは時に「正しさ」を疑うようになる。
それでも、明確に「正しい/正しくない」を決めなければ、どうしようもないことはよくある。自分が最低限これだけはと信じる「正しさ」と、照らし合わせて判断せねばならないこともある。
一番難しいのは、その「正しさ」で自分を裁くことだ。自分をも裁くことができて初めて、その「正しさ」はその人にとって実のあるものとなる。これはとても苦しい経験である。おとなになれるかどうかの分かれ目である。


・・・こどもについて書いてきたが、なんだかずっとおとなのことを書いているような気分になってきた。
書いたことはすべて自分に返ってくるものである。
私はおとなになれているのだろうか?