「私はノンポリで異性愛者でディズニーランドとイチローが好きです」「で?」

好きなものについて語ること - 倒錯委員長の活動日誌


セクシュアルマイノリティの人が自分の性的指向について語ることは、少し前まで避けられてきた。性に関することは秘匿しておくべきものという社会通念と、言うまでもなくセクマイ差別があったからである。
同様に、自分が消費している性的ファンタジー(本人の性的指向とは必ずしも一致しない)についても、あからさまに語ることは避けられてきた。美少女アニメエロゲーを好むとかBLの愛好者であるといった言明は、相手が同好の士でもない限りわざわざすることはないだろう。
だがネットの言説空間においては、自身の性的指向や性的ファンタジーの消費傾向について、カミングアウトする人が増えてきたようだ。
一つには、同じ立場や趣味の人々と交流するという実際的な目的のため。もう一つは、セクマイ差別の撤廃という社会的コンセンサスができあがってきつつあることと、さまざまな性的ファンタジーの表現、受容は(ファンタジーの次元において)肯定されるべきという考え方が背景にあって、表明しやすくなっているということがあると思う。


こうして、ゲイの立場からレズビアンの立場からオタクの立場から腐女子の立場から(他にもいろいろあると思うが)、さまざな言説がネット上にたくさん見られるようになっている。
私の見たところ、特にはてなダイアリーではこれらについて議論されることが多く、また比較的リベラルな意見が目立つ。たとえば、ヘテロがセクマイに対して取りうる立場は、「その人権がマジョリティと同様に保障されるべき」以外にないだろうし、オタクや腐女子に対してそうでない人が取れる態度は、「どんな表現を消費しようと個人の自由」以外にないだろう。基本的には。
もちろん性的指向とファンタジー消費とは、若干レイヤーの違う問題である。前者は変更できないものであり、だからこそ深刻な問題も生じるが、後者は一律にそこまでのものではないとされている。だが、それらを巡って議論される場合は、前者は人権問題、後者は表現の自由の問題が関わってくる点において、共に「個の尊重」という認識がその前提にあると思われる。
だからもし、ゲイであるとか腐女子であるということ(その表明)自体が差別的視線に晒されたり排除されたりするようなことがあれば、すぐさま批判の矢が飛んでくるのは当然である。そして、「体制」や「規範」からはみ出て見えるものに対して、差別抑圧してはならないという指摘がされる。人のセクシュアリティは多様であり、人の趣味嗜好もまた多様。そのことは肯定されるべきであると。


これはまったく正しい。事実としても正しいし、「人権」と「表現の自由」の政治的観点から見ても、正しい(表現の自由が人権を侵害することも時にはあるだろうが、その話は措いておく)。
そしてこの「政治的な正しさ」が機能し、誰もがそれについて配慮せねばならない限りにおいて、「セクマイであることの表明」と「ヘテロであることの表明」、また「腐女子やオタクであることの表明」と「その趣味をもたないことの表明」は、対称的にはならない。
誤解を怖れずに平たく言えば、ヘテロであるとかオタ・腐趣味をもたないということは、「体制」や「規範」の中にいることを意味するのであって、あえて言明するようなことではないのである。むしろ、それを強調したり能天気且つポジティブに語ったりすれば逆に、ヘテロセクシズムに囚われてセクマイへの配慮がないとか、オタクや腐女子への偏見があるのではないかとして、批判される可能性もある。
かように、マジョリティが「政治的な正しさ」を保持するとは、単に自分と異なる対象を差別したり偏見を表したりしないだけでなく、自身のマジョリティとしての性的指向や、マジョリティとしての性的ファンタジーの表明の仕方にも配慮を求められるということである。これは好むと好まざるとに関わらず、傾向としてそうなってきているのではないかという話だ。


さて、やっと冒頭に上げた記事、「好きなものについて語ること」について。
人が「好きなものについて語る」時、マジョリティの趣味をあえて主張することは少ないのではないだろうか。それとはやや異なる趣味、異なる嗜好について、表明しようとする。ネット上で同好の士を見つけたい場合もあるだろうが、その趣味嗜好を自分の「個性」として自認し、「体制」や「規範」とはやや異なる自分をプレゼンし承認されたいという欲求をもつからではないかと思う。
従ってたとえば、「私はノンポリ異性愛者でディズニーランドとイチローが好きです」などと自己紹介するのは、あえて「異性愛者」を名乗ることの意味付けを度外視すれば、まるでインパクトがないと言える。ゴマンという人が自分語りをしているネット上で自己アピールをするのに、誰が「こいつはそこらに掃いて捨てるほどいる、何の屈託もない平凡な奴だろうな」と思われたいだろうか。
人はよほどの意図がある場合を除いて、自分の好きなものを並べる時に「マジョリティ=平凡であること」をわざわざ強調しない。特に性を巡る事柄については、ネットで語ることのパフォーマティヴな効果に自覚的であればある人ほど、そうなると思われる。マジョリティの指向、趣味は「体制」的「規範」的であって、そこではあえて「個」や「自由」を主張する積極的な意味も生じないからである。


usukeimadaさんは、冒頭に掲げた記事でこう述べている。

でもホント言えば、日常生活でホモとかヘテロとかがまるで気にされないというのが、だれにとっても一番いいはずだ。そしてそのことは、性の問題であるがゆえにLGBTではない人だって、僕らにだって向けられる。自分がロリコンであるとか、シスコンであるとか、ショタコンであるとか、競泳水着フェチであるとか、メガネフェチであるとか、それらはその人固有の性的指向であるのだけれど、おそらくそれらは自分で決めたものではないだろう。いつの間にか、そうなっていたものだ。そんな偶然的に決まったアイデンティティを、性だからといって自己の中核に据えるよりも、もっと大事なことだってあるのではないか。


ロリコンやシスコンやショタコンや競泳水着フェチやメガネフェチは、ホモ、ヘテロという性的指向セクシュアリティ)とは異なる性的嗜好に近いと捉えたほうがいいと思う*1し、それが性的アイデンティティと同じくらい自己の中核に据えられるものかどうか、私にはわからない。ネットではその話がしやすい、していて楽しいだけという人もいるかもしれない。
それはさておきここでの焦点は、性的好みの表明がネット上で盛んにされていることについて、「個人の自由」と言いつつも、usukeimadaさんはなぜ疑問を覚えるのだろうかという点である。言い換えれば、さまざまな性的指向や嗜好についての言説が多様で豊かになっていくことについて、なぜ苛立ち(に見える)を表明しているのか。
これは単に、ヘテロ&オタ・腐趣味なしのマジョリティ(というのはusukeimadaさんへの「偏見」で申し訳ないが)による、そうでない人への無自覚な抑圧願望ではない、と私は推測する。議論が混乱していた前の腐女子記事の流れから、どうもそのように捉えられてしまっている向きがあるが、むしろその逆ではないか。

だから、今回あのような発作的、挑発的と思われかねない文章を書いたことは、そういう「好きなもの」を素直に表明できる人たちに対する、嫉妬心や劣等感のあらわれだと指摘されれば、それは否定しようないことなのである、というのは最後に書いておく。


これまでなら、性的指向や嗜好が「普通」の人からなかなか理解されない人は、無駄な軋轢を避けるために語ることを控えてきた。今でもそういう面はかなり残っていると思う。だからこそ尚更、語ることは「性規範への疑義」、「多様性の賞揚」という観点からも評価されるのだ。もちろんそこに差別的言辞があれば批判されるだろうが、とりあず語ることが抑圧されてはならないというコンセンサスがある。
一方、マジョリティの無自覚な語りには規範や権力が潜在しているとして、反発されたり、政治的にチェックの対象となる(それを非難しているのではないので、念のため)。
ここには二つの問題がある。一つには、性を巡る規範に敏感な言説空間において、マジョリティであるがゆえに、逆に語るべき言葉、語って意味のある言葉がない、自分の語りは性に関する言説の豊かさに寄与しない‥‥そう一部のマジョリティが自意識過剰気味に感じてしまう‥‥ということがあるのではないかと思う。
もう一つは、性に関する限り、自分が他でもなく"それ"を「好き」である理由は、自己の無意識の闇の中に深く深く根を降ろしているということ。仮に娯楽として消費しているだけであっても、自分のまだ知らない(ことになっている)欲望が、そこに抑圧されてあるかもしれない。そのような得体の知れないものを無邪気に日の当たるところに曝け出すなど、恐ろしくて簡単にはできない。


usukeimadaさんは「性の問題が特権視されている」「もっと大事なことだってあるのではないか」と書いていた。ただ、さまざまな趣味嗜好が細分化された中で、恋愛話が若者の共通の話題としてまだ根強く残っているように、性の話題は他の立場や考えや環境の相違を超えて、多くの人がそれぞれの立場から参入し語ることのできるテーマだということは言えるだろう。だから「非モテ」や「痴漢」や「セクハラ」の話題があそこまで盛り上がるのだ。
ではそうした議論と同様に、ロリコンやシスコンや各種のフェティシズムについて、当事者が「議論」することは可能なのだろうか。性が無意識と深く関わっているものであるならば、「好みの表明」から出発した客観的な自己分析や議論はなかなか難しいと思われる。
であれば、性より「もっと大事なこと」があるから性については語らなくていいということではなく、「好みの表明」(と、それを暗に支える「表現の自由」や「個の尊重」など「政治的な正しさ」)だけに依拠しない語り方を、いかにして模索していくべきかということになるのではないだろうか。

*1:と、この時点では思っていたが、そんふうに分けられるものではないかもしれないと、後で考えるようになった。