小津と成瀬の「やれやれ」と結婚詐欺女

去年のことだが内田樹がブログに、小津安二郎の戦後の映画はほとんど「娘を結婚させる話」だと書いていた(こちらの記事で言及)。1950年前後から後のホームドラマは確かに、周囲の大人がよってたかって年頃の娘を何とか結婚させようとする話が多い。
一向に結婚する気のなさそうな娘にヤキモキする親、親に相談されて一肌脱ごうとする会社のおじさん、相談されたかされないかのうちに縁談話をもってくる親戚のおばさん、大人たちに反発する娘、娘に加勢する女友達……といった家族とその周辺の人間模様が、さまざまなバリエーションで描かれる。


戦後の一億総中流化幻想の中で増加したのは、会社勤めのサラリーマンと、恋愛結婚である。そこから、家柄のそう悪くない手堅い月給取りのところに嫁いで専業主婦の奥様になる人生設計と、「運命の相手」と出会い熱烈な恋愛の末に結ばれたいというロマンチック・ラブ志向が生まれる。
親としてはロマンチックなんかより、少しでも「いいとこ」に嫁いでもらいたいわけだが、娘は「まだそんな気になれない」と先延ばししたり、親が上司からもらった見合い話を蹴って「おつきあいしている人がいる」と言い出したりする。苦虫を噛み潰す父親に、「私たちの時代とは違うわねぇ」と溜息をつく母親‥‥。


こうした娘の結婚をめぐる大人達の「やれやれ」を描いている小津安二郎に対し、同じく50年代から60年代に、結婚した娘、しなかった娘の「その後のやれやれ」を描いたのが成瀬巳喜男である。
結婚した娘は新婚期を過ぎ、数年から十年くらい経っている。なにかと不満が溜まり夫婦仲がぎくしゃくする妻(『めし』、『驟雨』(こちらで言及))、倦怠期で夫に浮気されてしまう妻(『妻』)、長男と結婚して兄弟の遺産争いに巻き込まれる妻(『娘・妻・母』)、早くに夫に先立たれ傾いた家の商売を立て直したが、出ていかざるを得なくなる未亡人(『乱れる』)、バーの雇われマダムで美人だが男運の悪い未亡人(『女が階段を上る時』)。
結婚しなかった娘にも苦労が待っている。優柔不断な男に振り回されたあげくに辺境の地で病死したり(『浮雲』)、商売下手な置屋の女主人となって没落したり(『流れる』)、芸者時代に稼いで金貸しになるが打ち解ける相手もなく孤独だったり(『晩菊』)、愛人の子どもを生んだが本妻の子として育ててもらうしかない貧しい境遇だったり(『妻として女として』)。
今、既婚や未婚の女性が観ても、身につまされるものがどこかしらあるように思う。苦労しつつもがむしゃらに生きる女性が逞しくカラッと描かれているのは、林芙美子の自伝の映画化『放浪記』くらいか。


ヒロインは、その時その時の人生の岐路で最善と思われる選択をしてきたつもりでいる。しかし何故か今、こうなってしまっている。こんなはずじゃなかった。どこかで私は間違えたのだろうか。いったいどうしたらよかったのだろう。‥‥と言って、今さらどうなるものでもないんだけど。
こうして彼女たちは、自分の境遇を嘆き、違う立場の女を羨み、あるいはあちらよりはマシだと思い直したりしつつ、最後は似たようなほろ苦い諦観の境地に辿り着く。
結婚した女としなかった女は、「結婚」というものをめぐって補完関係にある。そして、どちらも男への「愛」に苦しんでいる。あるいは元「愛」だったものに。だが幸せの保証も続かないとなれば、頼りになるのは「金」だ(成瀬巳喜男の作品には、借金や財産を巡る軋轢もしばしば登場する)。
それがシニカルなタッチで描かれるのが、本妻と愛人の葛藤を描いた『妻として女として』である。最終的に負けるのは愛人だが、では本妻は勝利の優越感に包まれるのかというとそうではない。二人の女は対比的に描かれながら、「解決」感のなさでは「どっちもどっち」となっている。


小津安二郎は『晩春』(1949)の中で、「結婚したら幸せになれるという考えが、むしろ間違っているんだよ」という台詞を笠智衆に言わせ、成瀬巳喜男『めし』(1951)の中で、「結婚はしてもいいし、したくなければしなくたっていいさ」と上原謙に言わせている。
結婚を薦めるにしろそうでないにしろ、ヒロインの周囲の男性は、結婚すればなんとかなるとか結婚するだけでメリットがあるといった安易なことは言っていないのである。結婚について裏も表もよく知っていたからだ。
というわけで、半世紀も前に「どっちもどっちなんだよ結局は」という知見が披露されていたのだが、現在は「婚活かおひとりさまか」(結婚するか独身でいるか)といった議論が盛んだ。「35歳独身限界説」(by勝間和代)などという、独身者を追い込み結婚を闇雲に推奨するようなメッセージが目につけば、当然それを批判し対抗する言説も出てくる。それにしてもいつまでこういう話が繰り返されるのか‥‥と、いささかうんざりしている人も多いかもしれない。


そんな中、とうとう第三の道を選ぶ女が現れた。結婚詐欺師の女だ。殺人の方は立件されていないが、既存メディアでもネットでも日本中が、戦後の犯罪史に残る最凶最悪の女連続殺人犯の登場を待ちわびている‥‥かのような雰囲気が感じられる。
孤独な男に優しく近づいて有頂天にさせ、結婚を約束し、この女のためなら大金を出しても構わないまでの気持ちにさせる。もしも被害者が本当のことを何も知らずに死んだと仮定すれば、彼女は皮肉にも男性たちにとって夢に見た理想の女である。
相手の年収や職業を厳しくチェックし、少しでも「上」の結婚を目指すようなタイプの婚活女性も、夫=資産としか見てないのであれば、基本的には彼女と同じことをしていると言える。結婚する前に相手を殺してしまうか(今の時点で仮説)、結婚して一生飼い殺しにするかの違いがあるだけだ。


あくせく働きたくもなければ地道な結婚する気もない34歳の彼女にとって、消費だけが今を生きる束の間の実感を与えてくれるものだったのだろう。だが、自分の望む物質的に優雅な生活を、結婚を通じて手に入れることは容易ではないし、独身でも同じである。
そこへいくと、期限付きの「理想の女」になら、簡単に偽装できる。愛の空手形を切れば、現金が振り込まれてくる。小津安二郎成瀬巳喜男の世界の延長線上で、既婚で頑張る必要も一人で頑張る必要もない。
だいたい、「どっちもどっち」で「やれやれ」かもしれない人生のどちらかを、なんでわざわざ選択しなけりゃならないの。みんな、いつまでもそこで右往左往していればいい。私は厭だ。「結婚で幸せになる」も「仕事で自己実現」も嘘じゃないか。そんな文句にいつまでも踊らされていると思うなよ。
34歳結婚詐欺師の女がもしそんなふうに考えていたとしても、私は不思議に思わない。