大人の便箋と勉強のできる男の子

用がなくても、文房具店に行くのは楽しい。ずらりと並んでいるノートやボールペンや色鉛筆。それらのすべてが(当たり前のことだが)まだ誰にもまったく使われていない、ピカピカの新品のまま。なんだか興奮する。学校に入学したり進級した時に、新しいノートを買いに行ったワクワク感が蘇ってくる。
小中学生の頃は、学年が改まると「今年は頑張ろう」と思った。新しいノートをおろし、一ページ目は新しい鉛筆で丁寧に書いた。そのうち、勉強意欲が衰えてくるのに従ってノートの字も乱雑になり、最初のページの几帳面さに比べると終わりの方は「あ〜あ」という感じになるのだ。
あ〜あ、今年も成績上がらなかった。来年は頑張ろう。まず新しいノートを買って‥‥。高校からはルーズリーフを使うようになって、おニューのノートをおろすワクワクは味わえなくなった。


店内でも特に私の足が長い間止まってしまう場所は、絵はがきや便箋のコーナーだ。ユーモラスな動物写真や、気の効いたポップなイラストの絵はがき。ラブリーな花柄に、凝った透かし模様入り便箋。
端の方にリボンで結んだスミレの花束の絵などがあしらってある、まるで昔の女学生が憧れのお姉様や先生に宛てて出したような愛らしい便箋を見かけると、つい購入してしまう。使いもしないのに。
メールが普及してから、手紙を書く機会はめっきり減った。この数年、年賀状くらいしか自筆のメッセージを書いたことがない。年賀状ですらメールで下さる人がいるくらいだ。
机の引き出しの中には、長い間に溜まってしまった絵はがきや便箋がざくざくある。死ぬまでに到底使い切れそうにない。


カラフルでおしゃれな封筒や便箋もいいが、やはり究極は、真っ白な封筒に真っ白な便箋である。便箋は細い罫が縦に入っているやつ。紙はなるべく薄手。この一番普通なのが、一番大人っぽい。
その大人っぽい便箋に書かれた手紙を、37年も前の中学2年の時、クラスの男子からもらったことがあった。生まれて初めての、男子からの、年賀状以外の手紙。それなのに私は、そのA君(としておく)に返事を書かなかったばかりか、惨い仕打ちをしてしまったのだった。



A君は、勉強がよくできる子だった。スポーツも人並み以上で、掃除当番などを至極真面目にやる生徒。でもルックスと性格が地味なせいか、目立たない存在だった。
周りのおしゃべりをいつもニコニコしながら聞いていて、なんでも黙ってサッサとこなす、地味だが勉強のできる男の子。それが私のもっていたA君の印象。
一方私は、絵とピアノがちょっと得意なだけで勉強やスポーツができるわけでもなく、可愛くもなく、昼休みなどはバレーボールに誘われても断って図書館に引きこもっているようなタイプである。当然、モテた記憶はない。そしてA君には、というか男子には、まだ何の関心もなかった。


ある時、一人で下校しながら角を曲がる際に何気なく振り返ると、A君がずーっと後ろの方を歩いている姿が小さく見えた。「A君の家ってこっちの方だっけ?」と思ったが、特に気に留めずそのまま帰宅した。彼が私の後をつけていたとは、まったく知らなかった。
外の掃除に出た母が、「門の下にお手紙が置いてあったわよ」と白い封筒を持ってきた(その頃、家の郵便受けは門扉にではなく玄関の横にあって、外からは門を開けて数メートル歩かねばならなかった)。
表に生真面目な書体で「大野左紀子様」と書いてある。こういう場合は即座に察知して親の手から封筒をひったくり自室に駆け込むのが普通なのだろうが、鈍感で無防備な私は「誰だろ?」と母親の前で手紙を広げた。


シンプルな白い"大人の便箋"に、縦書きでまず「拝啓 突然このような手紙を渡す御無礼をお許し下さい。」と書いてあった。なんだこりゃ? 仰天しながら読んでいくと、大野さんは絵が上手で尊敬しているとか、自分も読書が好きだというようなことが書いてあって(他にもあったと思うが忘れた)、「これからも何卒宜しくお願い申し上げます。敬具」と結んであり、A君の名前があった。
頭の中を?で一杯にしている私に母は、「あらー、これラブレターよ」と言った。えっ、そうなの? えっ、でもなんで? なんでA君が‥‥。えーっ‥‥。
封筒からもう一枚、ノートを破ったものらしい紙が出てきた。学校で手紙を渡そうと思ったが機会がなく、やむを得ず「貴方様の御後をつけて行き、お家に入っていかれたので」ここに置いていくことにします、と書いてあった。「貴方様の御後だって。まぁ古風な子ねぇ」と母は笑い出した。中2とは思えない言葉遣いだ。大人びているにもほどがある。


A君が品行方正な優等生であることを知っている母は、「せっかくもらったんだから、仲良くしましょうってお返事あげたら」などと言っていたが、私は困っていた。
別にA君が嫌いだったのではない。ただ、それまで「勉強のできる地味な男の子」としか思ってなかったA君の中に、自分へのこんな個人的な感情が秘められているとわかってしまって、気まずいというかいたたまれないというか、できれば読まなかったことにしたいというか。
家までつけてくるという情熱(途中で呼び止めようとしたのかもしれないが、躊躇しているうちに家に来てしまったのだろう)や、言葉遣いの堅苦しさにも、少しばかり当惑していた。好意を持たれるのは悪い気はしないけど、「貴方様」は勘弁してほしい。


それと、「これがラブレターだということは、つきあいたいってことだ(書いてないけどたぶんそうだ)。そんなのできるわけないじゃん」とも思った。
A君は本やレコードの貸し借りをしたり、交換日記をしたりという、当時の中学生臭い純朴な交際を望んでいたのかもしれない。いやそこまで考えていたかどうかわからない。単に気持ちを伝えたいだけだったかもしれない。
しかし周囲の男子に興味はないかわり、「性」というものには興味津々でそっち方面の知識が無駄に豊富だった私は、無駄にいろんな想像をして「ええとA君にそういう感情はもてない。無理」と結論を出した。第一、男女交際なんてめんどくさい。


かといって、無視するのは悪いと思った。手紙のお礼は言おう。とりあえず。できるだけさっぱりと。
それで翌日、授業が終わった直後にA君のところに行って、「A君、お手紙ありがとう」と言った。周りに何人も人がいる中で。どこまでKYだという話である。
A君の顔は、みるみる真っ赤になった。一斉に周囲の視線を浴びながら、彼は恥ずかしそうに「いや」とか「うん」とか言いつつ椅子をガタガタさせて立ち上がり、教室を出ていった。級友達は「なんのこと?」という顔をしていたが、A君も私もからかって面白い存在ではないので、そのまま終わった。
相変わらず鈍感で無神経な私は、A君の態度を「照れ屋さんだから」くらいにしか思っていなかった。それ以降、A君との関わりはない。
もらった手紙は机の引き出しに入れておいたが、いつのまにかなくした。



自分のしたことが相手を傷つけた、いやそれ以上に、とても醜い行為だったということに思い至ったのは、それから何年も後のことだ。
ああいう手紙のお礼は人のいないところで伝えるものだということは、承知していた。でもそうなると、A君から「つきあいたい」と言われるかもしれない。きっぱり「ごめんね。できない」と言えばいいのだが、そうした二人きりのシチュエーションそのものが想像するだけで息苦しくて厭だった私は、わざわざ人が周囲にいる時を選んだのだ。
恋愛方面に疎く手紙の意図が読めなかったために、人前で堂々とお礼を言ってしまう無邪気な子。私はそういう天然の女の子を装った。それによって、A君がやっとの思いで書いたかもしれない手紙に特別な意味はないかのように振る舞い、皆の前で顔から火の出るような思いをさせ、その後の彼の行動を封じた。
なんという酷いことをしたんだろうと後から悔やんでも、もう取り返しがつかなかった。


文房具店で、色とりどりの便箋の並んだ一番端っこにひっそり置いてある"大人の便箋"を見ると、A君を思い出す。
大人の便箋は細い縦の罫入りで、簡素で飾り気がない。紙の白さが、痛いように目に沁みる。