『オートマミー』(2000、SVAT THEATER)再見


■ストーリー
子育てを面倒に思った両親は通信販売で購入した育児ロボット「オートマミー」で
わが子を隔離して育てていた。
ある日両親がモニターでチェックしてみると...。


■スタッフ
監督・脚本・撮影 / 中田秀人
造型技術 / 松尾憲樹、細井浩和、藤原純子
音響 / 植田そら
キャラクターデザイン / 中田秀人
声優 / 南部真英、田中愛理
ジャケットデザイン / 中田景子


http://park11.wakwak.com/~sovat/www_sovat_j/j_top.htmlより)


ストップモーションアニメの傑作短編(12min)。久しぶりにビデオを再見して思ったのは、10年前の作品なのに全然古びてないということ。
国内外の数々の映像フェスティバルで賞を獲得しているが、初見は名古屋で友人がやっていた小さな自主制作映画祭だった。会場で紹介された中田秀人監督は、ジャージに野球帽の一見「もしかしたらこの人怖い人?」な感じのあんちゃんで、およそ「映像作家」というイメージからは遠かった。でもこの一作で私はソバットシアターのファンになった。*1


育児ロボット「オートマミー」の特異な造形初め、細かいところまで丹念に作られたセット、外国語のような不思議な台詞(普通に録音したのを高速で逆回転させたものらしい)、ブラザーズ・クエイを思わせる暗めの光と独特の質感。
そして、親が子供を機械に養育させているというブラックでシュールな設定。物語の説明は一切なく異様な事態が淡々と進行していく。


中田監督が養育放棄というモチーフを選んだきっかけは、88年に東京西巣鴨で起こった子供置き去り事件のニュースだという。あるインタビューで「制作で一番大変だったことは?」と聞かれ「怒りを持続させること」と答えていた。制作上のさまざまな困難に増して、それが一番難しかったと。
養育放棄、幼児虐待死の事件のニュースに接するたび私たちは「酷い」「痛ましい」「どうしてそんなことを?」などと怒りややりきれなさの感情に囚われるが、それも大抵は数日続くか続かないか。別の人目を引く悲惨なニュースが飛び込んできて、他所の不幸な子供のことは忘れてしまう。自分自身や自分の身近に起こった事件でない限り、所詮は他人事なのだ。
だが中田監督はそれを10年も持続させ、単純な怒りではないかたちで作品に結実させた。コマ撮りアニメ自体、制作に膨大な時間のかかるものらしいが、それにしてもすごい執念だと思った。



以下は、当時友人たちと作っていたアートレビュー同人誌に書いた、10年前の『オートマミー』評(ネタバレあり)。*2

空間の想像力・・・・・・・オートマミー/中田秀人監督



今池インディーズムービーチャンピヨンまつり」は、今年3回目を数える自主制作映画の上映会である。その初日に、京都からの招待作品である中田秀人監督の『オートマミー』という人形アニメーションが上映された。


育児ロボットオートマミーに子供の世話を任せきっている両親と、オートマミーに「育て」られながら、いつのまにか自ら犬の生皮を被ってしまっている子供。それを知った両親がオートマミーを使って犬の皮を無理矢理引き剥がしてみると、子供は既に人間の頭部を持っていない。両親は「子育て」に「失敗」した子供を「処分」してしまう・・・という陰惨なストーリーである。
幼児虐待、親が子供を捨てるというモチーフの扱い方や脚本、映像、音楽の秀逸さについては、本誌のレビューで触れられると思うので言及は避け、この映画に現れる4つの空間について考えてみたい。



オートマミーと子供のいる子供部屋は、密室風で殺風景で全体に暗色で描かれている。一方、両親のいる明るいダイニング兼リビングルームは、カントリー風と近未来風がミックスされたような趣味で色調もポップだ。
この二つの対照的な空間は、オートマミーに接続された回線のみで繋がっている。
母親はモニターを通して我が子の状態を確認し、コンピュータでオートマミーを遠隔操作する。子供は親から完全に隔離されており、親が子供部屋に行くこともない。この空間の非情な断絶感は、それが親と幼い子供に関わっているがゆえに、強く印象づけられる。


子供は親のボタン一つの操作で、開いた床から紙屑のように捨てられるが、ここで3番目の空間が現れる。それは暗く深い穴の中を落ちて行った先に拡がっている、閉ざされた薄明るい空間であり、そこには捨てられた無数の子供達が変わり果てた姿で「生えて」いるのだ。
この悲しくも美しい場所がいったい何を意味しているのか映画の中では語られていないが、そこに「群生」する元・子供達の姿共々、様々な空想を誘う空間ではある。そしてここが、両親の想像が決して及ぶことのない空間という意味で、先のリビングルームと最も隔絶している。


両親はコンピュータを通じて、親戚の子供がどこの学校に入ったなどという情報を得、離れた場所にいる子供をモニターで監視するという形で外の空間と繋がっている(と信じている)が、この地下世界の存在だけは知ることがない。「失敗作」を捨てたら、次の育児を成功させることしか考えていないので、想像してみることもない。それが、両親=リビングルームに象徴される空間の限界である。
一方、子供部屋は、リビングルームと地下世界の中間にあり、前者とはオートマミーの回線、後者とは床下の暗いトンネルで繋げられた不安定な空間だ。まったく非インタラクティヴな回線とトンネルは、子供にとってはただ受け入れるしかない不幸な通路である。言うまでもなく、子供部屋は一種のアウシュビッツとして描かれている。



こうした3つの空間の断絶と繋がりが示された後、ラスト近くでほんの数秒の意外なショットが挿入される。青空と菜の花を背景にVサインで笑っている小さな男の子の姿だ。
ここで、子供の素顔を、一瞬だけ観客は見るのである。捨てられずに済んだ男の子が、どこかの公園か原っぱに遊びに来て両親に見せたであろう笑顔だということが、この短いショット一つで表現されている。そしてこれが、実現されなかった想像上の空間であることも、同時に示される。
物語の流れを断ち切って挿入されるコマは、フラッシュバックという過去の断片であることが多いが、ここでは違うのだ。最初から最後まで閉鎖的な隔絶空間だけを描いているこの映画の中で、この4番めが唯一開放的な外界の空間イメージという点で既に特異だが、それが物語の中では実現することのなかった、まさにイメージされた空間に過ぎないという点でも、他の空間とはまったく位相を異にしている。


他の3つのいかにもフィクショナルな空間設定に比べて、想像上の空間が極めて現実的な風景であったことに、私は軽いショックを受けた。
この外界のビジョンは、いったい誰の想像の産物なのだろうか。地下世界で人間としての記憶や意識を失おうとしている子供の脳裏に、最後によぎったものなのか。自分の(到来することのなかった)未来のイメージとして。そう考えたくなるような切実感と共に、この短い一場面は鮮烈な印象を残す。
そして、コントロール可能な回線で繋がっている空間への貧しい想像力しか持てない両親と、あらゆる外部から隔離されながら最後、飛躍的にリアルなイメージを持ちえた子供、というコントラストがくっきりと浮かび上がってくる。


回線やトンネルという空間同士の物理的関係や物語の時系列を一気に超えたところに、突然、このありえなかった/あったかもしれない空間イメージが登場すること。
残酷なファンタジーとして物語の進行を追っていった目は、このショットの不意打ちによって、描かれなかった別の物語空間と対面する。しかしそれは、実は観客自身が十分に想定できたはずの、当たり前のビジョンとしてさし出されてもいるのだ。



毎日映画コンクールのアニメーション部門で大藤信郎賞を受賞し、既に東京では何度か上映会が開かれた『電信柱エレミの恋』(2009)が、この夏各地で公開される模様。
ソバットシアターHP
このネコのピンバッヂ欲しいなー。
最近の中田監督(写真右端)。今はジャージではないようです。このインタビューも面白い。

*1:作品に使われたセットやモデルは、2001年に京都芸術センターで開催された『channel- N』という展覧会に、拡大モデルと共に展示された。その展覧会に出品しているアーティストの映像作品に出演していた関係で見に行き、「オートマミー」のセットのスケールの意外な小ささに戸惑った。監督曰く「アパートの6畳一間で制作、撮影した。毎日セットの横で寝起きしてた」。

*2:中田さんはこのテキストを気に入って下さり、先の展覧会に際して作られた資料集に収録されている。