来たりて去りし物語

ノラや―内田百けん集成〈9〉  ちくま文庫

ノラや―内田百けん集成〈9〉 ちくま文庫


ある日、庭の茂みをくぐり抜けて姿を消したまま戻って来ない飼い猫ノラの行方を案じるあまり、捜索のビラを何百枚も作り、西にノラを見たと聞けば駆けつけて聞き込みをし東にノラ似の猫の死骸を埋めたと聞けば駆けつけて掘り起こし(駆けつけて確認するのはいつも大抵奥さんや近所の人や友人、教え子だが)、一匹の猫探しが警察署や編集者まで巻き込んでの騒動に発展する中で、愛猫の突然の失踪を身も世もなく嘆き恋い焦がれ心身共に憔悴していく老作家の日記と随筆集。
日々入ってくる「ノラ情報」に一喜一憂し何週間も風呂に入らず顔も洗わない百けん(「けん」は門構えに月)の様子は尋常ではなく、周囲の人を奔走させながら自分は家で「ノラや」「ノラや」と猫の布団に顔を押し当てていじましく泣くばかり。
それにしてもずいぶん大袈裟だなぁと半ば滑稽に感じつつ読んだのは、二十歳頃だった。


初めて猫を飼って2年弱のこの夏、一泊の旅行先にこの文庫を持って行き、旅館の布団に寝転がって久方ぶりに読み始めたら、猫を観察する細やかな描写といなくなって初めて深く自覚された愛情‥‥というより愛情を越えたノラへの妄執に近い恋慕の情がひしひしと迫ってきて、読みながらつい泣いてしまった。
滑稽さを全然感じなくなったのかというと、そういうわけではない。百けんのあまりに過剰な嘆きぶりはやはり少し可笑しい。だが、可愛がっていた猫を失った人の身をもがれたような喪失感と悲しみと僅かの希望の念が、名を成した作家としての挟持もプライドもかなぐり捨てた率直な文章で赤裸々に描かれているところに好感を持った。



猫にしろ人にしろ、いなくなったとしてもいつか戻って来ればよいのだが、杳として行方が知れないままだと待つ者は気持ちの整理がなかなか付けがたい。出て行ったら帰ってくるという一往復があって物事は決着を見、物語は成り立つものだから。
トールキンの『ホビットの冒険』("The Hobbit: or There and Back Again")が由来の「行きて帰りし物語」という説話構造は、ファンタジーの基本形を成している。青い鳥、オズの魔法使い、ピーターパン、不思議の国のアリスはてしない物語ナルニア国物語(「最後の戦い」は除く)‥‥上げればキリがない。


主人公は冒険に旅立ち、さまざまな困難を体験して成長し、そこで得たものを日常に持ち帰ってくる。必ず元の場所に帰ってくるところがポイントだ。
出かけたら出かけっぱなしで戻って来ない「行きて帰らぬ物語」は、読む者を不安に陥れる。特に子供向けには「行ったら帰る」が物語の必須条件。安定した日常や「家」が帰るべき場所として措定されていなければならないのだ。非日常の冒険(向こうの世界)よりも変わらぬ日常(こちらの世界)の方が重要視されているのは、大前提である。だから命がけの帰還も描かれる。


ハリウッド映画でも冒険、ファンタジーものは大概「行きて帰りし物語」だ。スターウォーズ然り、インディ・ジョーンズ然り、ロード・オブ・ザ・リング然り、ハリー・ポッター然り(指輪物語やハリポタの原作者はイギリス人だが、アメリカは移民の国だからか国外に戦争に出向く国だからか、一層望郷の念が育ち「我が国」「我が街」「我が家」を唯一至上の場所と看做す傾向‥‥それは時に独善的な振る舞いとなる‥‥が強い感じを受ける)。
例外的に『アバター』(2009、ジェームズ・キャメロン監督)は「行きて帰らぬ物語」だった。帰るべき場所はない、「こちらの世界」など捨ててもいい(その程度の価値しかない)という「アメリカが作ったこの世界」への諦念が自虐的に描かれていた。ジェイクをカーツ大佐に重ねた人は多かっただろう。*1



さて、「行きて帰りし物語」を「こちらの世界」の主人公ではなく「あちらの世界」にいる者から見ると、それは誰かが「来たりて去りし物語」になる。
境界線の向こうの遠い世界からやってきたマレビトや冒険者が、一時的にちょっとした混乱を共同体に引き起こすが、最終的には何か良いものをもたらし、やがて惜しまれながら去っていく。西部劇や時代劇の用心棒ものでお馴染みのパターンだ。SFファンタジーでは『未知との遭遇』、日本だと『竹取物語』が一番古いだろうか。


ノラや』においては、百けんから見れば飼い猫のノラがどこかに「行きて帰らぬ」のだが、もともと野良猫だったノラから見れば百けんのところに「行きて帰りし」つもりだったのかもしれない。どこに帰っていったのかは誰にもわからないけれども。
そう考えると飼い主の方が長生きする限り、すべてのペットは「こちらの世界」に「来たりて去りし」者である。犬や猫との生活とは、愛しい者が「来たりて去りし物語」を生きること。
うちのタマも境界線の向こうの遠い世界からやってきて、一時的にちょっとした混乱を引き起こしたが何か良いものをもたらした。やがて惜しまれながら去っていくだろう。

*1:ファンタジーではないが、中東を舞台にレオナルド・ディカプリオがCIA工作員を演じた『ワールド・オブ・ライズ』(2008、リドリー・スコット監督)も「行きて帰らぬ物語」だった。「こちらの世界」での仕事も生活も人間関係も最後に投擲される。西欧近代社会から脱出して「あちら」側へ。SFXを駆使して「世界の終わり」「人類の滅亡」を描くパニック終末映画の増加と共に、何か症候的なものを感じさせる。