ヒロインとともに旅する映画『わたしに会うまでの1600キロ』(「シネマの女は最後に微笑む」更新されました)

映画から現代女性の姿をpickupする「シネマの女は最後に微笑む」第21回は、リース・ウェザースプーン主演の『わたしに会うまでの1600キロ』(2014、原題は『Wild』)。メキシコ国境からカナダ国境に至る長距離自然歩道を、一人でハイクした女性の実話が元になっています。


大自然の中の過酷な旅、過去を生き直す女性の実話 | ForbesJAPAN



過酷なハイクとヒロインの「生き直し」が重ね合わされている本作、とってつけた感じのするライフハック(?)みたいな邦題は、個人的にちょっと残念ですね。
これがネックになって劇場でも観なかったし、DVDもずっと避けていたのですが、R.ウェザースプーンが自ら会社を作って制作を手がけたということを知り、観てみました。シェラネバダ山脈などをはじめとして、アメリカの雄大な自然の景観の移り変わりがすばらしく、大画面で観ても良かったなと思いました。


印象的なエピソードがひとつひとつ積み上がっていく中で、観る者はヒロインと一緒に旅をしている感覚になります。そして最後に彼女が受け取る、とてもささやかだけれど思いがけない贈り物を、私たちも受け取ります。その「尊さ」に鳥肌が立ち、涙が出ました。
辛い場面もありますが、見終わった後、不思議なすがすがしさに包まれる本作を通して、R.ウェザースプーン、いい女優だなと改めて思いました。

トークライブ登壇のお知らせ

みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2018に関連して、東北芸術工科大学で行われる展覧会の関連企画トークライブに登壇します。
AGAIN-STという彫刻を考える集団の一人で、学芸員の石崎尚さんからオファーを頂きました。今回は「カフェと彫刻」がテーマだそうです(https://www.facebook.com/events/1033390630170615/)。
お近くの方は是非どうぞ。この他、いろいろな催しものがあります。
https://biennale.tuad.ac.jp(←公式ページには、本トークイベントの情報はありません)

AGAIN-ST第8回企画「カフェのような、彫刻のような」


●会場=NEL MILL
  東北芸術工科大学 芸術研究棟Cギャラリー(ROOTS & technique)
  〒990-9530 山形県山形市桜田3丁目4−5
●日時=期間中の金・土・日・祝日(9/1, 2, 7, 8, 9, 14, 15, 16, 17, 21, 22, 23, 24) 10:00〜17:00
●出品作家:L PACK.(エルパック)、保田井智之、吉賀伸、AGAIN-ST(アゲインスト)(冨井大裕、深井聡一郎、藤原彩人、保井智貴)
トークライブ:「カフェのような、彫刻のような」
  9月1日16:30〜18:00
  会場:NEL MILL(ROOTS & technique)
  参加者:AGAIN-ST+大野左紀子(文筆家)



以下は、「カフェと彫刻の交わるところ」というお題を頂いて書いた私の文章です(チラシに掲載)。

 この原稿を書いている7月中旬、西日本豪雨災害の状況が連日報道されている。炎天下で片付けに追われる人々。避難所で支給される食事はおにぎりと味噌汁。「コーヒーが飲みたい」という被災者の声には、コーヒーのあった普通の生活への渇望が滲んでいて、避難所の前などに即席のカフェでも開設されれば‥‥と思った。パラソル付きのテーブルがいくつかと、それぞれを囲む椅子4、5脚の簡素な仮設カフェ。
 ところで私の住んでいる愛知県一宮市は、かつて日本で一番喫茶店が多いと言われた街である。戦後、繊維産業で栄え全国から女工の卵が集まっていた頃、街には数えきれないほどの店舗があったらしい。その頃からの習慣か、今でも一日に必ず一回は喫茶店に行くという年輩者が少なくない。新聞を読んだり、顔見知りと地元の情報交換をしたり、仕事の打ち合わせをしたりといった日常の場は、カフェではなく昔ながらの喫茶店である。
 ヨーロッパでカフェ文化が花開く前、人々が情報交換や発信のために集まる場所は広場だった。多くの広場の中心には彫刻モニュメントがあり、共同体のシンボルとして機能していた。「求心力」と「安定性」の象徴である広場の彫刻。その周囲にカフェが出現し、人々の集まり方は分散化していく。カフェ自体も、さまざまな人の出入りによってそれぞれの「かたち」が作られていった。
 広場を中心とした街作りがもともとない日本で、彫刻モニュメントのある場所は「求心力」を持ち得ず、街中のそれはしばしば”彫刻公害”と言われがちだ。度々の自然災害に見舞われる「安定性」に欠けた土地では、屋外だけでなく屋内に設置した彫刻でさえ障害物、危険物となることもある。しっかりした基盤に接する「底面」と「軸」を持ち、一定の「空間」を必要とする彫刻芸術は、さまざまな流動性の中にあっては、かなり難しい表現形式になってきている。
 むしろ彫刻はこの地において、仮設カフェのようなものとしてあり得るのではないだろうか? テーブルや椅子の脚が複数の「底面」を確保し、「軸」の上のパラソルが太陽光を遮る「空間」を作る。一応原理的には、伝統的な彫刻の条件を満たしているはずだ。脇にあるのは、小さい発電機とコーヒーメーカーと水と豆と紙コップ。そこに立ち寄ってはコーヒーを飲んで一息つき、また去っていく人々の動きが、輪郭のないその空間の「かたち」を彫り、刻んでいく。
 彫刻とは決して呼ばれないだろうその彫刻は、被災地に忽然と現れ、しばらくすると消えていく。いつかまた未曾有の大災害に見舞われるであろう日本列島のあちこちで、かりそめの場を提供するパラソルの花が開き、運良く生き延びた被災者の私もそこに辿り着く一人となる。それが、私の夢想する「カフェと彫刻の交わるところ」だ。

長女の業と毒母エネルギーの向かう先(「シネマの女は最後に微笑む」更新されました)。

映画から現代女性の姿をpickupする「シネマの女は最後に微笑む」第20回は、メリル・ストリープジュリア・ロバーツが母と娘の壮絶極まる応酬を繰り広げる『8月の家族たち』(ジョン・ウェルズ監督、2013)を取り上げました。女系家族の長女から長女へと継承される根深い業の物語(ネタばれあり)。


似ているからこそ対立する? 母と娘、争えぬ血の喜悲劇 | ForbesJAPAN



登場人物が結構多くて煩雑になるので、主演の二人以外の俳優名はカットしていますが、非常に贅沢な配役です。冒頭に出てくるだけのサム・シェパードとか、良い役だけど出番の少ないベネディクト・カンバーバッチとか。
「母と娘(長女)の喜悲劇」の背後には、もちろん父たちの男性社会があるのだろうけど、物語では表面上は影が薄くなっています。
長女は常に「家」と闘うことを運命づけられる。次女は息を潜めて周囲を観察し自分の幸せを探す。もっとも自由な三女は糸の切れた凧のように振る舞う。‥‥という姉妹のそれぞれ、自分が長女なので非常に興味深い。
行き場を塞がれた長女のエネルギー(『アナと雪の女王』のエルサもそうだった)が、自分の娘支配へと向うのは見ていて辛いものもありつつ、半笑いになるところもいろいろ。
母親と妹の叔母の間に生じたタブーが、娘世代に因果として回ってくるところも、まるでパズルのピースがカチリと嵌るようによく出来ています。これがもし邦画だったら妙にドロドロと湿っぽくなりそうですが、カラッとした空気感とシニカルな笑いに救われます。


本文テキストでは書ききれなかったことですが、ここから浮かび上がってくるのは、こうした支配的で攻撃的な「毒母」的女性の存在を、家庭や家族の場から離れて生産的に捉えられないだろうか?という命題です。
行き詰まった世の中では「父的存在」の到来が求められますが、そういうヒーローや救世主ではない「悪い母」のエネルギーをいかにうまく放出させるかは、非常に現代的な課題だと思います。

「幸せのかたち」は異性愛者と同じなのか、違うのか(「シネマの女は最後に微笑む」更新されました)

現代女性の姿を映画からピックアップする「シネマの女は最後に微笑む」第19回は、杉田水脈氏のセクマイ差別を含むテキストから広がった波紋を枕に、『キッズ・オールライト』(リサ・チョロデンコ監督、2010)を取り上げています。


異性愛者と変わらない、同性愛者カップルの危機と親子関係 | ForbesJAPAN



子どもたちが精子提供者と出会ったことで、レズビアンカップルの家庭に巻き起こるさまざまな出来事を、コミカルに描いた作品。アネット・ベニングジュリアン・ムーアが子持ちカップルを演じています。
レズビアン」ということを除けば、ここに見られる夫婦関係、親子関係、家族のかたちは普通に伝統的なものであり、異性愛者夫婦間で起こりがちな問題が、そのまま起こっています。
アメリカでの評価は高かったようですが、同性愛者の生き方を異性愛者の規範に従属させたものだとして、批判する向きもあるかもしれません。


精子提供者の中年男はとても感じのいい人ではあるけれど、結果的にはレズビアン家庭の破壊者として登場しています。子どもたちも、ジュリアン・ムーアも魅了されてしまい、”一家の長”然としたアネット・ベニングは彼を警戒し、敵視する。
その姿は「愛する家族を外敵から守る強い父」という、アメリカ映画で繰返し描かれてきた男の姿とダブります。話型としては古典的ですらあります。ここをどう捉えるかで評価は別れるでしょう。
子どもたちの成長をさりげなく描いている点には、個人的に好感がもてました。


連載4回目で扱った『ハンズ・オブ・ラヴ 手のひらの勇気』では、ジュリアン・ムーアエレン・ペイジの歳の差カップルで、経済力はジュリアンの方があるけれど、エレンが男の子っぽくて相手を「私の妻」と呼んでいました。
一方、『キッズ・オールライト』では、二人とも「ママ」と呼ばれるものの、明らかにアネット・ベニングが夫・父の立場を取っていました。
同性愛者カップルも、夫/妻、男/女を踏襲する人は多いのでしょうか。

シミジミした味に毒の仕込まれた『すーちゃん、まいちゃん、さわ子さん』(「シネマの女は最後に微笑む」更新されました)

現代女性の姿を映画からpickupする「シネマの女は最後に微笑む」第18回がアップされています。
先月末、物議を醸し批判を呼んだ自民党二階幹事長の発言を枕に、3人の30代独身女性の生活と心情を淡々と描いた邦画『すーちゃん、まいちゃん、さわ子さん』(御法川修監督、2013)を取り上げました。それぞれ、柴咲コウ真木よう子寺島しのぶが演じています。


「もう男には期待しません」 ほっこり系独身者ドラマの妙味 | ForbesJAPAN


※本文、いきなり無関係の外国人女性の写真が添えられていますが、「映画関連画像がフォトストックになく、イメージ画にしております」(by編集者)とのことです。
柴咲コウを、柴崎コウと書いていた! しかもそのまま通っていた‥‥。直しは少し後になります、すみません。



益田ミリの漫画が原作のこの作品、なんとなく自分の苦手な感じかもしれないなと敬遠していて、今回DVDで初見。
最初のうちは「うーん、ほっこり系かぁ」と思っていたのですが、登場する男たちがことごとく残念な人だったとわかってくるあたりから、じわじわ面白くなってきます。
特に、井浦新が演じる、基本的には優しい人だけど空気が読めず、鈍感さで知らず知らず女を傷つけるちょっとずれた男が、なかなかにリアル。
あと、年上女性にマウンティングしてくる若い女性とか、女同士のこういうコミュニケーションに疎い私も、観ていて「うわぁ」となるものがありました。30代女性にとっては、「あるあるネタ」だらけのようです。一人で観るより友人たちとツッコミ入れながら観るのが楽しそう。


まあわざわざ映画にするより、普通にドラマでもいいかなという感じはあって、画面作りもわりと平凡ではあります。細かいところで、主人公たちの味わう辛さや苦さにどのくらい共鳴できるかで、観た印象は変わってくるでしょう。
一応前向きな感じで終わるのですが、私は、寺島しのぶが演じたさわ子さんが救われないように見えて何かなぁ‥‥という気分が残りました。

『ヘドウィグ&ザ・アングリーインチ』を通して、「女」について考える

ForbesJAPANに好評連載中の映画コラム「シネマの女は最後に微笑む」第17回が公開されています。


女とは一体何なのか? 「自分のかたち」を探すトランスジェンダーの旅 | ForbesJAPAN


先日の、お茶の水女子大のトランスジェンダー受け入れのニュースを枕に、『ヘドウィグ&ザ・アングリーインチ』(ジョン・キャメロン・ミッチェル監督、2001)を取り上げています。


ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ [DVD]

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ [DVD]


もともと、監督の一人舞台パフォーマンスにだんだん肉付けされて、人気のロック・ミュージカルとなったもので、日本でも過去、三上博史山本耕史森山未來が、主人公ヘドウィグを演じて評判になってますね。
音楽とビジュアルの訴求力や、ヘタウマなイラストの味、歌詞の意味など、いろいろ書きたいことはあったのですが、本文ではストーリー展開に絞り込んでいます。


この作品は作りがちょっと変わっていて、現在と過去が行き来しつつ進行し、情報が非常に圧縮されている上、ファンタジックな表現も多用されているので、初見ではわかりにくい人もいるかもしれません。講義で使っていますが、時代背景と終わりの方のストーリー展開について解説しないと、多くの学生には置いてきぼり感があるようです。
特にイツハクの位置づけは作品内で説明がほとんどないので、よほど丁寧に観ていないとラストで「えっ?」という感じに。有名となった舞台を観ているか、あらかじめ大まかな情報を入れていることが前提となっていると思います。
冷戦構造と性差を重ねているところを始めとして、さまざまな文脈が組み込まれているので、何度か観つつ徐々に解読していく楽しさがある、とも言えます。未見の方は是非。