先駆者への敬意と小さな挑戦を描く『ジュリー&ジュリア』(「シネマの女は最後に微笑む」更新されました)

映画から現代女性の姿をpickupする「シネマの女は最後に微笑む」第32回は、最近話題になった「プロヒッチハイカー」中学生や「バイトテロ」などSNSで表面化した件を枕に、エイミー・アダムスメリル・ストリープダブルヒロインを演じた『ジュリー&ジュリア』(ノーラ・エフロン監督、2009)を取り上げています。
現状を打破したい欲求と被承認欲からのネット上の小さな挑戦が、偉大な先駆者への敬意と自己肯定に至る、実話を元にしたドラマ。

 「主人公じゃなくてもいい」 映画が教えてくれる大切なこと | ForbesJAPAN

 

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現代パートのエイミー・アダムスに寄った視点で描かれますが、無邪気で頑張り屋だけどちょっと子供っぽいところもある彼女に対して、メリル・ストリープの演じる1950年代の中年女性がなかなか面白く魅力的です。
同じく無邪気でガッツもあるという役柄上の共通点がありつつ、ずっと腰が座った感じなのは、やはりその世界のパイオニアとフォロワーの違いなのでしょう。
ドラマ上のこうしたポジションはそれぞれの女優としての立ち位置とも絡み合って、メリル・ストリープに花を持たせる感じになっています。


描き方として若干個人的に気になるのは、ジュリー(E.アダムス)と恋人がいちゃつくシーンが多過ぎでは?(笑)ということ。コメディ仕立てなので、そういう軽いイチャイチャを挟みつつテンポ良く話を運ぶという演出はわかるものの、このノリはもう古さを感じさせるだろうなぁ、2019年現在は‥‥と。
でもエイミー・アダムスだから、こういう女性を可愛らしく爽やかに演じられたんだろうなとも思います。

幸福と栄光は両立しないのか・・・『スタア誕生』(「シネマの女は最後に微笑む」更新されました)

お知らせが遅れてしまいました。
ForbesJAPANに好評連載中の「シネマの女は最後に微笑む」第31回は、『アリー/スター誕生』のアカデミー賞ノミネートの話題を枕に、ジュディ・ガーランド主演の1954年版『スタア誕生』を取り上げています。映画業界が舞台ですが、劇中劇のミュージカルも含め、音楽がたっぷり楽しめる佳作。


3度リメイクされる名作に見る、栄光だけじゃないスターという生き方|ForbesJAPAN

 

 

2ページ目に映画公開時のジュディ・ガーランドの画像があります。彼女は当時、薬物中毒と精神面の悪化で落ち目だった一方、ジャズ歌手として再起を図っていた最中。この作品でガーランドとノーマン役のジェームズ・メイソンは、ゴールデングローブ賞主演女優賞、同主演男優賞に輝きました(76年のバーブラ・ストライサンドクリス・クリストファーソンも同賞を獲得)。


ガーランドの童顔と、メイソンのジェントルな雰囲気(それだけに崩れた時とのギャップが大きい)の組み合わせが本当にいいです。ノーマンの最後のケリのつけ方も、悲痛ですがしみじみとして、他のリメイクより余韻があると思います。未見の方は是非。

Loftの広告、炎上から取り下げまでで思ったこと

※この数日のツイートをそのまま並べた(横道にそれたもの、言及先のあるものは除く)。

 

●広告に批判

Loftのバレンタイン特設ページが炎上気味と聞いて見てみたが、特別厭な感じは受けなかった。ただ、全体のセンスが何となく古臭い。女芸人が女子あるあるネタで散々やったような感じ。それにもう平成も終わりなのに、まだカレシ用のチョコ買うのかい自分用でなくてという。‥‥いや別にいいんですけど。

ポップな感じの絵にちょびっとダークな要素混ぜるのって凡庸だよね。どうせなら彼から彼へ、彼女から彼女へというパターンも作りゃいいのに。まあLGBTの商売利用として批判されるかもしれないけど、ヘテロ恋愛関係で散々商売してきてるんだし、そのくらい誰も思いつかんのかということが不思議。

あれは「サブカル」という指摘を見て、ああだから古臭いんだと思った。サブカル的な内輪受けっぽい「毒」入ってますよというスタンス。もう10年以上前に死に絶えたものが復活してきたようで、それが絵づらも含めて「まだこのセンスか」と思わせる。文化全体が停滞しているのを象徴しているようだ。

ロフトの広告、「バレンタインデーってこういう事が表面化するんだよね。もうやめる」とか「全然ハッピーな気持ちになれないからロフトでチョコ買わない」という女性が増えて売り上げが落ちて、結果としてバレンタインデー商戦への批判として機能した‥‥と後に語り継がれるようになったら面白いのに。

(と思ったが、そこまでの強い「毒」もない中途半端さがダメな感じだ。カカオ65%って感じで。


●広告取り下げ

Loft、広告取り下げか。個人的にはそこまで?と感じたけど顧客層から評判悪ければそうなるのか。ネットがなかったら個別に文句言ってるだけでここまで盛り上がらなかっただろう。厭なのは自分だけかもと。ネットでは同様の人の存在が一気にわかるから、勢いがつくということはある。良くも悪くも。

しかし実際ロフトに直接抗議があったのかな。ネットの反応を見て「まずい」と思って引っ込めたんじゃないか。最近そういうパターンが多い。個人レベルでは「これ嫌いだ」「女をバカにしてる」と呟いたりその呟きに同意したりしているだけなのだが、「抗議して取り下げさせた」ことになるという現象。

もしこれに対抗するのだったら、批判が出てきた時点で「いや違う。これは広告として優れた表現だ。なぜなら~」という論陣を張らないと。その表現が失われるのを真に憂慮するのなら、その表現を擁護しなければ。でもそこまでした人はいない。皆どこかで「どっちでもいいじゃん」と思っているからだ。

「女性が意中の男性にチョコを贈る日としてスイーツ業界が無理矢理盛り上げて一大商売にした、カカオ農園の搾取と非モテ男性無視の上に成立する、グローバル資本主義的消費を煽るバレンタインデーを粉砕せよ!」と言う女子はおらんの?「広告が厭」vs「またフェミガー」で闘ってるより面白そうだけど。


●広告とは

Loftって元々若者が主な顧客なんだからもっと若者(特に女性)の感覚を調査した方がいいと思う。どこかで止まってる。

‥‥というのは企業寄りの発想だけど、これだと消費者が企業と一体化するだけだから根本的にはダメなんよね。この社会における企業広告という位相そのものへの批判的視点がなければ。内容など関係ない。それらは基本的に消費者を騙し企業が儲けるためのものでしかない。くらいの「引き」の視線が必要。

企業の広告表現に対して「ポリコレ的にダメ」とか「女性差別」とか抗議していけばいくほど、企業の資本主義的戦略のうちに自分達が取り込まれるということを意識しないといけない。快適でカッコいい広告に囲まれた消費生活は奴隷の生活かもしれないということを。

従って選択としては、「問題」ある広告に抗議し続け大企業の掌上で奴隷生活を改善しようとするか、広告に「問題」があろうがなかろうが関係なく大企業の存在自体を「問題」視するかであって、「こういう表現も守るべき。抗議した自称フェミは偏差値60の学級委員長」と明後日の揶揄をすることではない。

短期的には奴隷生活の改善をしつつ、長期的には大企業ばかり儲かる社会は潰れろ、もありかも。しかしあまり長期だと死ぬ人が増えるのでなるべく早く潰れろ。


●PC vs 嫌PC

最近、何事につけ相手側を「道徳」や「規範」のマジョリティ側に置き自分を「毒」を解するマイノリティ側に置くというポジション取りに孕まれる欲望とは何か?について興味がある。普通それは中二病と言われるが、PCへの反発からそういうポジションを取りたがる人が増えてきているように思う。

しかし公共の場に出る表現においては、「道徳」や「規範」であろうが「毒」や「アート」であろうが、今や資本主義経済を滞りなく循環させるために出したり引っ込めたりされるものに過ぎない。その時不問に付されているのは、そういう紙芝居に一喜一憂するしかない身分に留め置かれていることの屈辱だ。

所謂PC側は平等な社会を、反発する側は自由な社会を目指している。ただ前者にはいつまで言い続けたら?という無限地獄が、後者にはPC側の発言の自由を封じることはできないというジレンマが。そんな中、平等と自由の釣り合いは「商売になるかどうか」で決定されていくという身も蓋もない事実がある。

問題は誰もがその「商売」に巻き込まれているということだ。バレンタイン商戦とは無縁の人も、別のシーンで「商売」に巻き込まれている。巻き込まれる中で知らないうちに、望んでもいなかった事を望み、欲しくなかった物を欲しがるように欲望を作り替えられている。「欲望とは他者の欲望」と言う通り。

もしこの中でお為ごかしの所詮は商売に使われる「平等」などより留保無しの「自由」を求めると言うのであれば、PC側に反発して「反規範」や「反保守」を気取っているのではなく、この国家・経済体制とその元で花開いた資本主義カルチャー(芸術含む)を根底から問い直すという構えでなければならない。

(そんなようなことは、10年以上前から折りに触れて言ったり書いたりしているけど、一方で「そうは言ってもさぁ」という話になる。そりゃなるわな。でもこれからも時々呟いていく。


●表現側の問題

広告でも他の表現でも一旦「こうだ」と思って出したものをちょっと批判があったからって簡単に取り下げていてはダメだよね。批判はどうしたって起こる(全ての人が満足する表現などない)んだから、出す側はそれなりの覚悟と確信を持って出してほしいね。もちろん批判する側はガンガンすればよろしい。

一度出したものを取り下げるというのはもう余程のことなんだ、という認識を自ら崩していたら、表現なんて空気みたいに軽いものになるよ。そういう中で「この程度なら前も大丈夫だったから」というノリで質の低いものが出てくる。そして批判されて、検証もせずすぐにひっこめる。政治家の失言と同じだ。

また批判した側を、「納得してる人もいるのに大袈裟な文句つけて無理矢理取り下げさせた。ひどい」と非難するのもおかしい。そもそも「無理矢理取り下げさせる」ような権力など誰も持っていないし、もしその「文句」が本当に「大袈裟」だったのなら取り下げた側に問題がある。すべては表現側の問題。

 

https://twitter.com/anatatachi_ohno

 

おばさん×青年、移民×旅行者、異邦人×異邦人の物語(「シネマの女は最後に微笑む」第30回更新)

映画から現代女性の姿をpickupする連載コラム「シネマの女は最後に微笑む」第30回は、アルゼンチンを舞台にした『オリンダのリストランテ』(パウラ・エルナンデス監督、2001)を取り上げました。
一見地味な風合いの作品ですが、観ているうちにじわじわと、本当にじわじわと沁みてくる佳作です。

言葉も世代も越えて、人生の後半に巡り会う「疑似家族」- ForbesJAPAN

※使える写真がなかったということで、画像は無関係のものになっています。


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ブエノスアイレスで小さなレストランを切り盛りする、一人暮らしのイタリア系移民の中年女性と、旅行者のドイツ人青年の偶然の出会いから物語が始まります。言葉の壁もある中で、互いの立場に共通するものを見出し、徐々に心が通っていく過程がユーモアを交えて描かれています。
周囲の人々も、皆、なかなか味わいのあるキャラクターです。主要な男たちが基本的に「受け」の姿勢であるところも面白い。血の繋がらない異民族の「息子」に大切なものを託すというところは、『グラン・トリノ』を思い出したりします。

こういう作品は日本で作れないのだろうかと、ふと思います。日本人と外国人の関係を描いた作品はいろいろあると思います(今、ぱっと思い浮かぶのは『月はどっちに出ている』、『あゝ、荒野』)が、外国人労働者が増えている現在、異邦人×異邦人の物語があっても不思議ではないですね。もしご存知の方がいらしたら、教えて下さい。

安藤サクラの記念碑的作品『百円の恋』を改めて観る(「シネマの女は最後に微笑む」第29回)

こちらでのお知らせ、数日遅れてしまいましたが。。
映画から現代女性の姿をpickupする「シネマの女は最後に微笑む」第29回は、安藤サクラが数々の主演女優賞に輝いた『百円の恋』(武正晴監督、2014)を取り上げました。話の枕は、この間炎上した西武・そごうの広告の件です。


コミュニケーション不全の女が求めた、言葉を越えた熱いやりとり - ForbesJAPAN


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安藤サクラが演じる一子を筆頭に、登場する人々の中途半端なダメさ加減がさまざまなかたちで描かれます。相手役の新井浩文もダメな男。立派な人が一人も出てこない(笑)。
観ているうちに、そうした緩いダメさで構成された空間が、なんとなく心地よくなってきます。私もダメな人間だからでしょうか。


一子は見ていて結構イライラさせられます。後半は見違えるように挽回していくものの、最後でベソベソ泣くんだなぁ。まあキリッとしたらそれはそれで変ですが。
あのラストに被る歌がかなりベタで私の好みではありませんが、安藤サクラの全然きれいじゃない泣き方があまりにリアルなので良し、です。


引きこもり続けて、全力をかけること、そして勝ち負けをはっきりさせることからずっと逃げてきた女が、勝ち負けがもっともはっきりするゲームにトライして、負けた。そのことをとてつもなく「悔しい」と感じる境地に、初めて立った。つまり人との関係性をそのようなかたちで受け止めることで、自分の生に改めて向き合った。
‥‥‥というのが王道的解釈と思いますが、そういう批評はわりと多そうなので、少しずらした観点から書いています。どうぞよろしくお願いします。

ドヌーヴの貫禄と多面的な魅力が光る『ルージュの手紙』

映画から現代女性の姿をpickupする「シネマの女は最後に微笑む」第28回は、カトリーヌ・ドヌーヴとカトリーヌ・フロが共演した『ルージュの手紙』(マルタン・プロヴォスト監督、2017)を取り上げています。原題は『Sage femme』(助産婦)。


セーヌの流れに交錯する生と死、出会い直す二人の女 | ForbesJAPAN



ドヌーヴがとにかく素晴らしい!
助産婦のシングルマザー(フロ)と彼女の亡き父親の恋人だった女性(ドヌーヴ)との、微妙な関係性の変化を描きつつ、それら人間模様を大きな世界の中の点景として、遠くから眺める視点を時折挿入しているところも秀逸。


再生産に関わる女と関わらない女の生き方の対比はやや類型的ではありますが、それをカバーして余りある女優の演技で見せています。私は人間のタイプとしては前者に近いですが、子供がいないことと、ドヌーヴの演じる女性の多面的な魅力もあって、後半は後者に感情移入していきました。
単なる和解のハッピーエンドで終わらない、若干ビターな余韻も深く、平凡な言い方ですが「ああ大人の映画だな」と感じ入ります。


実際の出産シーンが何度かあるので、そういうのが苦手な人は要注意かもしれません。
あと邦題がやはり今ひとつの感じ。『助産婦』では難しいとは言え、「ルージュの」ときたら日本では「伝言」ですよね。

共同体によって殺され、共同体によって生かされる(「シネマの女は最後に微笑む」更新されました)

映画から現代女性の姿をpickupする連載「シネマの女は最後に微笑む」第27回は、アメリカ移民の格差問題を枕に、2010年の『ウィンターズ・ボーン』を取り上げてます。ジェニファー・ローレンスヒルビリー(スコッチ・アイリッシュ系移民)の少女を演じて注目を集めたサスペンスドラマ。


アメリカの「知られざる移民」 掟に抗う少女のサバイバル | ForbesJAPAN


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本文では触れていませんが、ヒルビリーの生活のひとこまとして、人々がカントリーミュージックを楽しむシーンが挿入されており、全編を覆う殺伐としたトーンの中でそこだけが人間臭さと温かみを感じさせ、印象に残りました。
しかし音楽に流れる血は、主人公のリーが殴られて流した血でもあります。


暴力と救済が、表裏一体のものとして描かれています。
ヒロインの窮状を救った金は、彼女への制裁を帳消しにするものであり、一種の口止め料の役割も果たす。一応はハッピーエンドになっていますが、諸手を上げて喜んでいいのかどうかわからない微かな息苦しさも孕んでいます。
途中まではどことなくアンティゴネーっぽい構図。しかし最終的に、無力なヒロインは共同体の残酷さを受容するかたちになります。むしろそれを自身も次第に身につけて大人になっていくのだろう、彼女がここにいる限りは‥‥などと考えさせれます。


ジェニファー・ローレンスの骨太感がとてもいいです。ハスキー犬のような瞳と、田舎のタフな女の子を演じられる鼻柱の太さが魅力的。