「モンスター」と言われた女が最後にすがったもの(連載更新されています)

告知遅くなりました。

「シネマの女は最後に微笑む」第66回は、『モンスター』(パティ・ジェンキンス監督、2003)を取り上げてます。無料登録してどうぞ。

 

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1989年~90年のアイリーン・ウォーノスによる連続殺人事件を題材にした作品。公開当時、シャーリーズ・セロンの肉体改造が話題になった作品としても有名。この人は作品毎に大胆に体型を変え、終わるとすぐさま戻しているところが驚異的ですね。もちろんそれ以外に見るべきところはたくさん。

 

「最後に微笑む」というより「不敵な面構えのまま」という底辺の娼婦を演じるセロンがやはり素晴らしいですが、いわゆる鬱展開で、主人公に共感できる部分とちょっとしんどい部分とが交錯します。それが、アイリーンという底辺の娼婦の人物造形にリアリティを与えていると思います。

相手役のクリスティーナ・リッチも、行き場のないレズビアンの若さゆえの残酷さを好演。

 

ところで私は、あの有名な『テルマ&ルイーズ』を、アイリーン・ウォーノス事件を大胆に脚色した作品だと思っていましたが、今回読者の方から指摘を受けて、それは日本で公開当時、配給会社の流した偽情報だったと知りました。

日本版Wikipediaを確認しますと、去年までは偽情報が載っていたのが訂正されています。いやはやすっかり騙されていました。反省しております。

確かに時期を考えると合いませんし、いくら何でも脚色が過ぎます。最初から全然関係ない作品だったのに、『テルマ&ルイーズ』が日本で公開される時にアイリーン・ウォーノス事件が話題だったので、配給会社が話題作りのためにデマを流したと。‥‥ケシカランですね。

 

『モンスター』の方は、事件にかなり忠実に描かれているようです。おすすめ。

 

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政治に敗北する芸術家の運命―『COLD WAR あの歌、2つの心』(連載更新されました)

「シネマの女は最後に微笑む」第64回は、ポーランドの監督パヴェウ・パヴリコフスキの『COLD WAR あの歌、2つの心』(2018)を取り上げています。

冷戦下の欧州を舞台に描かれる、音楽家と歌手の宿命的な恋。芸術と政治を巡る映画としても非常に興味深い作品。

 

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モノクロームの美しい画面。冗長なシーンは一つとしてなく、すべてが濃密にしてパーフェクト。

ネタばれに配慮してませんが、読んだ後でも観る価値は十二分にあります。傑作です。

 

奔放で純粋なズーラを演じるヨアンナ・クリークは、レア・セドゥを彷彿とさせるところもあり魅力的。童顔の素顔とメークした時の妖艶さの落差がいいです。歌が上手いなぁと思ったら、本国で歌手としても活動している人でした。

 

後半は二つの芸術家のタイプを比較しています。

中心になっているのはヴィクトルとズーラですが、男性でもう一人重要な役回りのカチマレクと、前半で姿を消す女性イレーナがいます。ズーラとイレーナは自分の筋を通そうとする芸術家ですが、男性の二人はそれぞれ西側、東側での生きやすさに流れていく。女性たちに一つの理想像を、男性たちに現実の相を担わせているようです。

ポーランド現代史をざっとおさらいしておくといいかもしれません。

 

日本語の予告編は、女性ナレーターの喋りが作品の雰囲気を甘々にして伝えていて好きではないので、こちらを。

 

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黒人差別と白人の同調圧力が同時に描かれる『ヘルプ』(連載、更新されました)

「シネマの女は最後に微笑む」第63回は、先月ミネアポリスで起きたジョージ・フロイド氏暴行死の事件を枕に、メイドとして働く60年代の黒人女性を描いた『ヘルプ~心がつなぐストーリー~』を取り上げています。

 

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主人公は一応エマ・ストーンが演じる作家志望の女性ですが、冒頭もラストもヴィオラ・デイヴィスの演じるメイドのモノローグであり、下層黒人女性から見た白人女性コミュニティが描かれていると言えます。

 

最初は、NASAの黒人女性を描いてヒットした『ドリーム』(2016)を取り上げようかとも思いましたが、人間関係が『ヘルプ』に比べてやや単調なのと、ケビン・コスナーが演じた白人上司の描き方がカッコ良すぎるのと、黒人でもわずかな成功者ではなく名もなき庶民を描いたものを取り上げたいと思い、こちらに。

設定年代が同じだけに、どちらの作品にも「トイレ問題」が登場します。

 

エマ・ストーンは、この手の映画で理想化された「理解ある良い白人」に陥りそうなところを、彼女の鬱屈や成長を描くことで回避できていると思います。

また、『女神の見えざる手』や『モーリーズ・ゲーム』でキレ者を演じたジェシカ・チャステインが、ちょっとおバカだけど気のいい奥様を演じています。白人の同調圧力からはじき出された存在として重要な役どころ。

 

『ドリーム』にも出演しているオクタヴィア・スペンサーが、勝気なベテランメイドの役で出ています。彼女の密かな復讐が後半の山になっていますが、これはネタばれすると、『カラー・パープル』(1986)でウーピー・ゴールドバーグがやった行為と同じです。強烈さは『ヘルプ』の方が100倍くらいですかね。

 

それにしても、「心をつなぐストーリー」という邦題サブタイトルは何とかならなかったんでしょうか。「ドリーム」(原題:Hidden Figures)もそうですが、妙にフンワリしたイメージを付与するのはやめにしてほしいものです。私なら『ヘルプ~メイドは語る~』にしますね。

 

 

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芸術と政治と言葉についての短い考察

あいちトリエンナーレ2019開催中、朝日新聞東海版朝刊(2019年9月23日)に掲載された拙文です。半年以上経ってますが、芸術と政治について触れたテキストとして上げておきます。

 

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タイトルは編集者がつけています。テキスト内容は、政治や社会について「芸術を通して」考えることを推奨するものではありません。


 

 

(本文ここから)

  グローバルな問題も様々なかたちで扱われている現代美術の展示で、とりわけ強い印象を残すアジアの作家の作品を二点あげたい。

 一つは愛知県美術館に展示されているユェン・グァンミンの<<日常演習>>。サイレンが鳴り響く中、ドローンで撮影された台湾の軍事演習時の人の気配のない市街が、延々と大スクリーンに映し出される。「非常時」が当たり前のように埋め込まれた日常の光景を俯瞰で見せるシンプルな手法は、スペクタクル感に満ちた大きな効果を生んでいる。

 もう一点は、豊田市の喜楽亭を使ったホー・ツーニェンの<<旅館アポリア>>。小津安二郎の映画、神風特攻隊の回想、京都学派と海軍、横山隆一の戦意発揚アニメなどで構成された映像インスタレーションに、時折、建物を揺るがすような振動が入る。虚構・過去・現在が重層するこの作品のタイトル「アポリア」(難題)は、戦争における日本人の被害者性と加害者性とを、私たちが同時に見つめることの中にあるだろう。

 

 これらの作品は、政治的かつ歴史的なモチーフを大胆に使いつつも、わかりやすい言語的メッセージには落とし込まず、観る者の感覚を揺さぶり宙づりにする。展示が中止された「表現の不自由展・その後」の、歴史を扱ったいくつかの作品とでは、なぜ受け取り方に差が生まれるのか。

 一つには、ネットに流通した不自由展の作品情報が「わかりやすかった」ことがあると思われる。実際には複雑な意味や背景があったとしても、展示においてはシンプルな言語的メッセージに還元されやすい面があったために、短絡的な反応を引き起こした。

 「わかりやすい」より「わかりにくい」(宙づりにする)方が良いとは、一概には言えない。ただ一般的に、言語的メッセージの比重が大きくなれば、芸術表現であることの必然性は薄れる。芸術はまず知覚に働きかけ、個々の美的判断や情動を刺激するものだ。それら非言語的メッセージの効果が、作品の言語的メッセージと思われるものにも様々な作用を及ぼす中で、鑑賞体験は作られる。

 今回の紛糾の根底にあった差別と歴史認識の問題は、精密な言葉を通じて把握し、理解しなければならないことである。そうした極めて重要な問題を個々の美的判断や情動が関与する芸術作品で提示すること、直視するべき現実の諸相を芸術鑑賞体験の中で受け取ることの意味は、改めて深く問われるべきだろう。

 そう考えると、不自由展以外の、国家や戦争、民族やジェンダーなどを扱う作品にも、本質的には同じことが言えるのではないかという疑問が浮かぶ。そもそも、なぜ芸術作品において、現代の様々な問題を考えるのか。根本的な解決や認識の共有が現実にはなかなか困難であるそれらの問題を、芸術において考えることで最終的に回帰してくるのは、やはりあらゆる意味での政治であり、言葉ではないだろうか。

 

 ところで、あいちトリエンナーレとは別に、「なごやトリエンナーレ」という、「超芸術」を掲げるオルタナティブな動きが一部で注目されている。芸文センターの脇で騒音を散布するゲリラ活動で引き起こされたトラブルの結果、逮捕者まで出したことで話題となったが、興味深いのは偶然も含めたすべての行為を、「声明文」などの確信犯的な言葉に置き換えていることだ。政治や社会を芸術において考えることの「アポリア」、そこで循環し続ける現代芸術の状況を、外部からアイロニーをもって相対化しようとしていると言えるかもしれない。

 

 

関連記事 

なごやトリエンナーレについて『情況』2019秋号に寄せたテキスト

 

 

 

『マイ・ブックショップ』に見る志の継承(連載更新されました)

週末バタついて告知が遅れました。

「シネマの女は最後に微笑む」第62回は、「非常事態」下の書店の状況を枕に、『マイ・ブックショップ』(イザベル・コイシェ監督、2017)を取り上げてます。

 

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舞台は1959年のイギリス海岸沿いの小さな町。一人の女性が、さまざまなハードルをクリアして書店を立ち上げる。お客さんも徐々に入り始める。

ほのぼのしたハートウォーミングなドラマかと思いきや、後半ちょっとキツい方向に展開してゆき、「あーあ、とうとう‥‥」と思った最後の最後で突如明らかになるのは、ある純粋で破壊的な意思表示。度肝を抜かれます。

その驚愕は、深い納得と感慨と感動に。

 

 映像が非常に美しく、自然の描写から建物、室内、ファッションなど見所がたくさん。役者もいいです。読書家の偏屈老人を演じるビル・ナイ、素敵。

コロナ禍で様々なお店がひっそり廃業していく中、「場」の継続と志の継承について考えさせられる、今改めて観たい作品。超おすすめです。

対話が隠蔽する「加害」としての芸術

「さいたま国際芸術祭2020https://art-sightama.jp/jp/の中の「市民プロジェクト」の一環として作られた批評誌に、拙文を寄せております。

 

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芸術祭は新型コロナウイルスの感染拡大の影響により、開催を延期したまま当初予定されていた会期が昨日終わっていますが、批評誌はあちこちに置かれているようです。

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個人的に名古屋圏であまり配れませんでしたので、とりあえず拙文だけここにアップしておきます。

 

 

 対話が隠蔽する「加害」としての芸術

 

 「現代美術の場における対話」で必ず思い出される、30年以上前の体験がある。

 1980年代、名古屋の中心街からやや外れた場所に、A.S.G.という「実験的」なギャラリーがあった。オーナーの意思で商業ギャラリーではなかったそこが「実験的」と見なされていた理由は、一階の画廊スペースの経営が二階にある居酒屋の収益によって賄われていたこと、企画には当初は地元の美術批評家が当たって(後に作家たちの自主運営へ)東京から川俣正を始め若い現代美術作家を精力的に招いており、搬入期間は約二週間、会期は三週間半という特にインスタレーション系の作家にとっては魅力的な場だったということがある。

 さらに画廊の二階に居酒屋があったため、居酒屋に来た特別現代美術に関心のない人も行きがかり上展示を覗きやすい環境ができていた。もっと言えば、店の客に対して「まず一階の作品を観てから二階においで下さい」という空気があった。その空気は、美術関係者で客層がほぼ固められていた現代美術の画廊とは毛色の異なるこの場を愛し、若手作家を応援するという運営主旨に賛同し、普段から居酒屋に集うさまざまな業種の人々によって醸成されていた。

 1983年の自分の初個展を契機に私がこのA.S.G.に深く関わったのは、他でもない対話、それも作家と観客との対話が、ここでは理想的なかたちで実現するのではないかと思ったからである。具体的には、開催される展覧会毎に二階の居酒屋において、作家と人々との対話および交流の会である「夜話会」が開催されるようになったことを指す。

 

 それまで私が知っていたのは、美術関係者による美術関係者のためのシンポジウムやトークイベントであり、そこでは「日本における現代美術の状況」は前提として共有された上で、専門性の高い内容の話が繰り広げられていた。「日本における現代美術の状況」を踏まえた話を理解するためには、欧米中心で推移してきた近現代美術史を知悉している必要性があるのは無論のこと、「日本の現代美術村の政治」まである程度押さえている必要があるらしかった。

 しかし美術史はともかくとして美術業界話は、駆け出しの作家だった私にとって本質とかけ離れた瑣末な情報に思われた。それより当時の私が軽い苛立ちの中で感じていたのは、現代美術にはさまざまななものの見方・考え方のヒントが埋まっているのに、それが人々に使われるようにならないのはなぜなのかということだった。あちこちで開催される芸術祭に何十万人という人が出かけるようになった現在と異なり、現代美術はまだ一般の人の関心をそれほど引いていない時代である。

 よく言われることだが、美術作品は直接何かの役に立つものではない「もの」であり、「非-人間」である。美術は近代以降、「人間的、世俗的なあらゆる営み」から最も遠くまで行こうとしてきたジャンルであるから、その志向を端的に「非-人間」と呼んでよいだろう。そして多くの人々が「現代美術はよくわからない」と感じているのも、その「非-人間」性にあるととりあえずは言えるだろう。

 しかしその「非-人間」志向に何らかの「思想」があるならば、それは多くの人々がいずれは「使える」ようになるべきではないか。たとえば仮に、現代美術の究極の思想が「無意味への到達」であっても、見た人が「無意味」について感じ考えることによって、見慣れたこの世界が新たに立ち上がり、さらにはそこで見た人の振る舞いも更新されていく、といったものであるべきだと当時の私は考えていた。

 そのために、「作品はどのように受容されるのか。その時、体験した人の中で何が起こるのか。その出来事は最終的に何になるのか」について、具体的に知りたいと思った。それも、あらかじめ美術の専門知識で武装し見方を訓練されているのではない人々において知るのでなければ、意味がないと思えた。   

 A.S.G.で個展をする作家と居酒屋に集まる一般の人々が直接やりとりをする「夜話会」の設定に積極的に賛成したのは、主に以上のような個人的理由による。

 

 私がA.S.G.に関わった約2年間の「夜話会」の模様を詳述する余裕はないが、そこで発見したのは、「多くの人々は、作品以上に作家本人に関心を持つ」ということである。

 作家は通常、現代美術についての知識のあまりない一般の人々に向けて話す機会がない。ギャラリートークをした場合も専門用語を使った話になりがちであり、もしそこに専門知識を持たない人々がいたとしても、作家にいちいち質問していいのかどうか躊躇うだろう。両者の間には最初からうっすらとした壁がある。

 これを避けるための手段の一つとして、作家が個人史を語るというやり方がある。いつ頃なぜ美術を志したのか、親の反対にあったかどうか、続けていくにあたっての苦労はどんなことか、どんな作家に関心があるか、など。

 「夜話会」でも、こうした個人的な話題がしばしば出た。作家が作品について解説した後で、唐突にそのような質問が観客からなされるケースもあった。通常のギャラリートークではあまり考えられないことである。

 「ゴッホ神話」が繰り返し語られ、一つの芸術家像が作られる中で作品が広く受容されていったという例を出すまでもなく、作家個人にまつわる話は一般の人々に好まれる傾向がある。作品を見て「わからん」と思い、コンセプトを聞いて「やっぱりよくわからん」と感じているような人が、作家の人柄が偲ばれる親しみやすいエピソードの一つも聞くと、急に関心や共感を示したりする。

 もちろん作品についての質問もあり、作家から現代美術の「文脈」について説明がなされたりもするのだが、そこから話が深まっていくというよりは、やはり最終的に作品を作った人間へと関心が向くのだ。「あんな難解な作品を作っている芸術家も普通の生活人だ」という安心なのか、「自分とそう変わらない感覚の人間が自分の想像を超えたものを作っている」ことへの興味なのかはわからない。

 いずれにせよ、芸術の評価軸を持たない人々、少なくともその作品のどこがどう優れているのか自分には判断できないと感じている人々は、作家本人から得た印象を重要な参照項とする、という実に素朴な事実を私は目の当たりにした。

 つまり人々は、「作家の芸術への欲望を欲望する立場」に置かれているのだった。そこで「作品はどのように受容されるのか。その時、体験した人の中で何が起こるのか。その出来事は最終的に何になるのか」を純粋に観測するのは不可能だった。

 

 だがそうした中で、はっきり言語化はされないまま空気のように漂っている人々のモヤモヤとした感情を、私は次第に感じ取るようになった。それは、「自分と同じ社会に生きている人間が、なぜ美術という特殊な形式を通じて何かをこちらに問うてくるのか。それに対して自分はどういう態度を示したらいいのか」という戸惑いである。これは現代美術に対面した人間が抱く、極めて根源的な戸惑いである。なぜなら現代美術体験とは端的に言って、作品という「加害」を受け止めることに他ならないからである。

 「加害」などと言うと美術関係者からお叱りを受けるかもしれないが、現代美術がもし現在も「非-人間」としての試みを全うする志向を持つのであれば、それが何らかの暴力として成立する空間がどこかにあり、「被害」を受ける者がいても不思議ではない。昨年のあいちトリエンナーレにおける「表現の不自由」展騒動で、「作品を見て傷ついた」という感想が出てくるのも、当該作品が「暴力」や「加害」の名に値するかどうかは別として、当人にはそれが「非-人間」なるものとして突き刺さったからだろう。

 そういう「傷つき」に対して、「芸術は新たな価値を生産するものだ」といった啓蒙や「対話をして理解を深めよう」という提案、ましてマジックワードのごとく乱用されている「多様性」という言葉は実効性を持たない。多様な意見や立場が並存しているかに見える状況は、「これを認めれば自分が否定される、だからその前に相手を否定する」というさまざまな敵対関係の集合でしかないことが、最近ますますはっきりしてきたからだ。

 現代の「多様性」はその内に大量の「排他性」、つまり対話不可能性を内包している。そうした空間で対話が成立していると見えるのは、何らかの利害に基づいて対話らしき形式を維持しようという強い抑制が、互いに同じ力だけ働いている場合のみである。

 そこから再度考えると、現代美術の場で一般の人々が示した作家への人間的な関心や共感は、作品が実は「加害」であること、つまり自らの足元を掘り崩すようなものかもしれないことを否認し、それによる「傷つき」を回避するための、無意識の防衛機制だった可能性も否定できない。

 だがそれを言うならそもそも、作家と人々の対話という一見開かれた、しかし芸術の側の啓蒙欲に満ちた形式自体が、他でもない芸術の「加害」性の隠蔽として機能してしまっていたのではないか?と問うべきかもしれない。私がそれまで対話だと思っていたものは、作家と観客の非対称的関係性を利用した押しつけがましい啓蒙とその失敗に過ぎなかったのではないか?と。

 先の鑑賞者の戸惑いを突き詰めていけばおそらく、「作品を作ったのがなぜ相手であって自分ではないのか」「なぜ自分は芸術をめぐって他者の欲望に巻き込まれているのか」という、芸術という形式存立における圧倒的な非対称性への疑問に突き当たるはずである。その疑問こそ、「加害」としての芸術――そうしたものがまだあるならば――が受け止めるべきものだ。もしも”対等”な対話が成立し得るとすれば、その地点をおいて他にはないだろう。

 

大野左紀子(文筆家)

「異物」を排除する共同体を描いた『獣は月夜に夢を見る』(連載更新されました)

告知遅くなりました。

「シネマの女は最後に微笑む」第61回は、コロナ禍の「自粛警察」の話を枕に、デンマークとフランスの合作映画『獣は月夜に夢を見る』を取り上げています。

 

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デンマークの漁村を舞台に、少女の体に異変が起き「獣」になっていくという、ホラーとミステリーが入り混じった少し不思議なテイストの作品。

『ぼくのエリ 200歳の少女』ともよく比較されている模様です。思い切って自由に解釈してみました。

 

 

二つの暴力が描かれます。一つは「異物」を差別し排斥しようとする共同体の暴力。もう一つは、「異物」であるヒロイン自身の、外見と内面に芽生えていく暴力性。

自身の変化に怯える少女から、それを隠さなくなっていく女へ。ヒロインを10代で演じたというソニア・ズーの、繊細な中に強靭さも感じさせる存在感が素晴らしい。セックスの最中に「獣化」が進むところはちょっとうっかり笑ってしまいましたが。

 

 

佇まいからしてすごく雰囲気のある、父親役を演じたラース・ミケルセンは、マッツ・ミケルセンのお兄さん。家を出ていく娘を見送る眼差しに胸を締めつけられます。

後半ちょっとスプラッターな展開になっていくので、血の苦手な方はご注意を。全体的にはカメラワークが素晴らしく、独特の美しい映像を楽しめると思います。

 

予告編

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