『ボルネオ人をしめ殺すオラン・ウータン』の衝撃

「生きものが苦しむところを観察したい」という残虐な欲望が、子どもの頃にあった。と書くと不穏だが、人間や身近な動物は厭で、あまり大きくなくて自分の好きではない生きもの、たとえば虫なら、平気でもがき苦しむところを見ることができた、というわりとよくある話。
蜘蛛や蛾を捕まえてボンド漬けにしてみたり、小さな羽虫の羽や触覚や脚を少しずつ毟って、飛べなくしたり歩けなくしたりする。体の自由を奪われ弱った虫が、断末魔の痙攣じみた動きをする。気持ち悪さと面白さ、不快と快の混じった何とも言えない感覚。
その、少しぞくぞくするような気分を思い出してみると、明らかに性的なものへの関心が底にあったと思う。子どもの頃のまだあまりはっきりと自覚されない性欲が、「生きものが苦しむところを観察したい」という欲望に置き換わっていたようだ。


「残酷さや暴力への欲求と性的欲望が結び付いている」と明確に感じるきっかけになったのは、美術だった。
父が古典的な美術愛好家だったので、家にはその関係の写真集や豪華本がたくさんあった。西洋美術の画集を繰れば、惜しげもなく出てくる数々のヌード。父から「芸術は崇高なものである」という信仰を植えつけられていたが、画集にはこちらの性欲を微妙に刺激するようなものがたくさんあって私はどぎまぎした。「芸術」という名目はあっても、実質ほとんどポルノだ。
一人で家にいる時、特にじっくり見たのは、さまざまな画家がモチーフにしている「聖セバスチャンの殉教」図。樹木や柱に縛り付けられて天を仰いだほとんど全裸の美青年の、捩られた体を何本もの矢が射抜いている。聖セバスチャンの苦痛を想像しながら眺めると、自分にないはずのチンチンが勃起する。


だがそれよりも強烈に私の目を釘付けにしたのは、『世界彫刻美術全集11 近代』(監修 千足伸行小学館、1975)に掲載されていた、エマニュエル・フレミエという19世紀の彫刻家の『ボルネオ人をしめ殺すオラン・ウータン』(部分)だ。



なんだろう、この剥き出しの凶暴さ。「芸術」の名目で糊塗しきれない、残酷と苦痛への傍若無人な興味。細部の驚異的な再現力。
ボルネオ人はもう気絶しているのか、あまり苦悶の様子は見られない。むしろ恍惚とした表情だ。まるでセックスの場面にも見える。おぞましくて、でも強烈に惹きつけられるものがあって、何度見ても見慣れるということがなかった。


解説の中で、フレミエは当時動物彫刻の第一人者と言われたバリーと比較されている。
バリーは動物の生命力や闘争本能への賞賛と畏敬の念を表現したが、フレミエの作品にあるのは「異境の動物の解剖学的に極めて正確な彫刻的表現の誇示と、多分に大向こうの喝采を狙ってのそのドラマティックな構成」であり、「当時の民衆は、このボルネオの密林の奥深く展開する凄惨な光景を、今日の冒険映画を見るように、息をひそめて見つめたのであった」。
19世紀末のヨーロッパの市民にとって、ここに彫刻されているボルネオ人は「未開人」というカテゴリーの中にあり、この彫刻は「野蛮」な「未開人」がもっと野蛮な動物に理不尽にも酷い目に遭わされている刺激の強い見せ物として受容されたのだろう。みんなで楽しめる残虐劇。


下は同書に掲載の『ボルネオ人をしめ殺すオラン・ウータン』の全体像と、同じくフレミエの『女を連れ去るゴリラ』(1850年代)。



この作品も当時非常にウケて世紀末にレプリカができ、大層売れたらしい。『キングコング』(1933年)はだいぶん後だが、これにどこかで影響を受けているのではないだろうか。
「女を略奪する」というモチーフでは、バロックの彫刻家ベルニーニの『プロセルピナの略奪』を思い起こさせる。エロくてグロテスクですらあるが一応神話がモチーフのベルニーニに対し、フレミエの作品にそういうオブラートはもうない。凄惨なシーンを見たいという観衆の欲求に直裁に応えている点では日本の無惨絵に近いし、実際に見ることの不可能なスペクタクルを見たいという欲求に応えるものとしては、ラッセンと似ている。


性と暴力を意識的に扱う現代美術はいろいろあるけれども、私自身が歳を取ってすれっからしになってしまったのか、もうそれは手垢のついたテーマでしかないのか、16歳の頃に図版で見た『ボルネオ人をしめ殺すオラン・ウータン』ほどのヤバさを喚起するものには出会っていない。
暴力の中にある性的なもの、性の中にある暴力的なものについて考え始めたのは、ずっと後のことだ。あの作品は当時の私にとっては、芸術の名を借りた別の何かだったのかもしれない。

アートは騙しの手口の百貨店‥‥『だまし絵2』展

昨年の振り込め詐欺の認知件数は、前年に比べて約二割も増加したという。人は騙されまいと思っていてもうっかり騙され、被害者になってしまう。特にお年寄りを狙ったオレオレ詐欺は「困っているなら助けてやらねば」という身内感情につけこんだ卑劣な犯罪だが、増える一方のようだ。
しかし世の中には、騙されて楽しいケースもあるんですよ‥‥‥というわけで、名古屋市美術館で開催中の『だまし絵2』展*1 を観に行った。古今東西のだまし絵の名品を集めた『視覚の魔術 だまし絵』展(2009)の第二弾。


会場入ってすぐのところにあるのは、さまざまな物で構成された人の顔の絵で有名なアルチンボルド。16〜17世紀の王道的だまし絵に続いて、今回のメインである二十世紀以降の作品八十七点が展示されている。ダリ、マルグリット、エッシャーなどおなじみの作家から、杉本博司福田美蘭名和晃平など日本の現代美術作家も。
絵画だけでなく写真や映像、立体作品などさまざまなジャンルに渡っているその騙しの方法をざっくり分類すると、「本物みたいだけど全部嘘っぱちだよ」という見せかけ系、「見る角度や照明の当て方で見え方が全然変わるよ」という限定状況系、「じっと見ていると何だかよくわからなくなるよ」という混乱誘発系。
近親者と「見せかけ」、電話という「限定状況」で、相手の「混乱誘発」を謀るオレオレ詐欺と方法は似ていても、そこに至るプロセスと目的は当然違う。親切にも、どんな騙しのテクニックが使われていて、それがどういう効果をもたらしているのか、説明のキャプションもついている。


そもそも観客の方も、「ここではいろんな手口の騙しが行われている」ということを知っており、わざわざお金を払って騙されに来るのだ。
と言えば、映画はその代表なわけだが、今更「映画という、光と影をテクノロジーで動かして人を騙すアレを観に行こう」などと私たちは思わない。リュミエール兄弟が登場した頃なら、人々は「人を騙すというアレを観に行こう」と行って、実際騙されてびっくりしていたわけだが、それはまもなく当たり前のこととなった。
リアリズムを追求した絵画の展覧会も、「キャンバスと絵の具によって人を騙すアレの見せ物」とは誰も思わない。今、イリュージョンのもたらす新鮮さが売りになっているのは、建物の外壁に映像を映し出すプロジェクションマッピングだろうか。それも既に当たり前の感じになりつつある。実際に詐欺行為に遭ったりすることがあっても、人は、表現の騙しにはすぐに慣れてしまうのだ。


さてこれは、「だまし絵」と銘打っている展覧会である。だから観客はもう最初から、「その騙しを体験したい」「どんだけ上手く騙してくれるのか」という構えで観に来る。そして、非常に手が込んでいたり斬新なアイデアの作品を観ると、うまく騙された(騙されそうになった)喜びに浸る。発表当時は斬新でも今見ると「うん、こういうのあるよね」と思えるものは、微笑ましい視線で眺める。
そういう中でやはり人気があったのは、見せかけ系と混乱誘発系の合わせ技であるエッシャーで、多くの人が長時間作品の前に留まって眺めていた。「ここから見ると紙の上に物体があるようにしか見えない!」というトリックアートが時々ネット上でも話題になっているが、皆エッシャーの子ども達だ。


美術はある意味で、被害者のいない詐欺行為と言える。いい意味で裏切られる、常識や規範や観る者の思い込みを覆す部分があって、意味をもつ。「だまし絵」はその代表だが、この展覧会で、アイデアと技術を楽しむだけではやっぱりつまらない。
16〜17世紀の作品の「これは騙されるでしょ?オモロイでしょ?」と言いたそうなストレートさ、素朴さから遠く離れた現代美術の作品においては、ますますそうなる。私たちは作品の前でしばしば、「あははオモロイね」にはならない宙づり感に晒される。
位相の異なるイリュージョンとイリュージョンが入り組んでいる作品。ただ現実を写しているだけなのに妙に不安感を誘う作品。複雑な構造をもっていながら外観はとてもそっけない作品。エッシャーのような「わかりにくさがわかりやすい」という”引”きには乏しい。


だから展示作品が現代になればなるほど、観る人は時々微妙に困惑した、微妙に腑に落ちない表情になる。たぶん私の顔もそうなっていただろう。
これは、メディアの情報からネット上の人の噂話まで、嘘か本当か判断がつかない時の、ちょっと落ち着かない感覚を味わうのに似ている。
位相の異なる嘘と嘘が絡み合い、現実を映しているカメラの映像が現実ではないようで、複雑なはずの内情がちっとも見えてこない、そんな感覚を思い起こさせる。


☆ローカルなお知らせ☆

4月から、朝日新聞日曜版の「朝日+C」という東海版の紙面でコラムを持ちます。だいたい月1くらいの不定期。内容は東海3県内で開催される展覧会(たまに映画があるかも)をネタにしたもの。展覧会レビューというよりは、それを通して◯◯について考える‥‥的なものになる予定です。
愛知、岐阜、三重で朝日新聞の日曜版をとっていらっしゃる皆様、どうぞよろしくお願い致します。


上の記事はそのための練習として一度書いたものを、ブログ向けに加筆しました。実際にはこの半分弱の量(2枚前後)になります。ここではわりとダラダラ長くなってしまうことが多いので、今年から始まったサイゾウーマンの連載と合わせて、「短くキリッと書く」という目標ができました。頑張ります。

*1:2はローマ数字だがうまく出せなかった。

「芸術鑑賞法」と「既知の器」

「好き」「嫌い」を越えた芸術鑑賞法があるとしたら - (チェコ好き)の日記


自分のブコメ

[アート]「自分の人生に真摯に向き合って」「生涯をかけて」「あなただけのために作られた作品」を見つけ出せって。修行して心眼を鍛えろみたいな。コツコツ美術史勉強するより難易度高いがな。


と思ったのは、言葉の選択に(ブログ主も書いているように)スピリチュアル感が濃厚に漂っているからだけど、「自分の人生に真摯に向き合って」「生涯をかけて」いったら、それは一般的な意味での「審美眼」を磨いていることにならないか?とも思ったりした。
元記事の主旨と大幅にずれるかもしれないが、個人的にはガリガリ噛み砕きたい方なので、そういうふうに解釈して書いてみる。

「審美眼」とは、一般的には「美を見極める能力」のことです。なんだそれ、結局美術史とかを勉強して知識を身に付けろってことか、と思うかもしれませんが、ちがいます。美術史上で正しいとされている、市場で高い値がつく、そんなものを見極められるようになっても、あなたが美術史家やギャラリストやコレクターでない限り、それは何の役にも立ちません。
私が考える本当の意味での「審美眼」は、「みんなが同じように美しいと思うもの、だれもが同じように高く評価するもの」を見極める能力のことではありません。「自分のためだけに作られたものが、自分のためだけに発しているメッセージに気付く」能力のことです。


「美を見極める能力」は、美術においては「それが名作である/ない理由を的確に把握できる能力」だ。「「みんなが同じように美しいと思うもの、だれもが同じように高く評価するもの」を見極める能力」とは少し違うと思う。むしろ「たとえみんなが気がつかなくてもそこに美を深く見極める能力」ではないか。「さすがお目が高い」なんて言葉があるように。
これを鍛えるには、とにかく世の中に出回っている「いいと言われるもの」をたくさん見る必要がある、とはよく言われること。美術館に置かれている歴史的に「いいと言われているもの」、百貨店画廊や街のギャラリーにある一部の目利きに「いいと言われているもの」。とにかく何でもえり好みせず、見てみることだと。
美術作品を熱心にたくさん見続けられるということは、それだけ美術に対して強い興味を持続させているということだ。その原動力の一つとしてあるのが、作品をめぐる情報(作品解説から美術史まで)の摂取。ある程度興味をもって作品を見ていけば、そうした情報は自然と入ってくる。もっと知りたいと思えば、自然と入ってくる情報を丁寧に捉えて「美術史とかを勉強して知識を身に付け」るということもするだろう。


ここで、鑑賞体験とはどういうものか、考えてみよう。
まず、個人の生活体験や趣味や一般常識など、誰でも自分の中に既に一定の「既知の器」がある。私たちは作品に対面する時、無意識のうちに「既知の器」の中にあるものを総動員して、作品から何かを感じ取ろう、理解しようとしている。深く「器」を掻き回してくれる作品、時には「器」をひっくり返しかねない作品は、その人にとって重要な作品ということになるだろう(たとえば「既知の器」に一般常識が強固に根付いている人は、そこから外れようとする作品が受け止められないことがある。反面、理解した場合の衝撃も大きい)。
時々、新たに外から情報が入ってきて、「既知の器」の中に定着する。その「知」は、作品解説や美術史だけとは限らない。個人的に得た生活の知恵だったり、生物の知識や経済情報だったり、誰かとの出会いや別れで知ったことだったり、最近見た映画や読んだ本だったり、「一般常識は案外当てにならない」という知見だったりする。そして、次に作品を見る時は、前より少し形が複雑になったり容量が大きくなったりした自分の「既知の器」でもって、作品を体験する。
こうしたことの蓄積によって、その人の中にその人なりの教養が形作られていく。対象が映画でも音楽でもアニメでも同じことが言える。皆それぞれの教養をもって、作品を享受している。趣味も審美眼も教養で作られる。教養は、本に書いてあること(だけ)ではない。その人の作品体験とそれ以外の個人体験と外部の知が渾然一体となって、出来上がっていく。


美術史家やギャラリストやコレクターはそれを仕事に使って、生業を立てている。彼らは比較的裕福な家の出身が多い。ぶっちゃけて言えば、貧乏な生活をしていると「美術の教養」はなかなか養えない。頑張って養ってみても、衣食住にわたって物心ついた頃から「いいと言われるもの」に囲まれ、それらを愛で、自分が「いい」と思ったアートを身近に置けるような生活をしてきたような人には、微妙なところでちょっと敵わないことがある。
だが一般の人にとって美術は生業ではなく趣味なのだから、それほど厳しい目をもつ必要はない。逆に言えば、あくまで趣味で厳しい目を養ってもいい。興味の赴くままに「既知の器」をどんどん刷新し、耕し肥やして目利きになってもいい。
それが「何の役にも立ちません」というなら、芸術鑑賞など「何の役にも立ちません」ということになるが、別にそれでいいのである。


「自分のためだけに作られたもの」「自分のためだけに発しているメッセージ」という言い回しで思い浮かんだのは、夜、高層ビルの電飾を恋人に当てた「◯◯、お誕生日おめでとう!」という文字が浮き上がるようにしてもらうやつとか、重要な秘密をある人にだけ伝達するために描かれたミステリーに出てきそうなトリッキーな絵画とかだった。かなり特殊なものである。
いやもちろん、そういうストレートな意味ではなく、言葉のあやがあるということはわかる。あたかもそれが「自分のためだけに作られたもの」で、「自分のためだけに発しているメッセージ」であるかのように錯覚させるほど、特別に強い吸引力をもった作品ということだ。たくさん見ていく中で、それに出会える僥倖を掴む人もいるだろう。例えて言えば、「既知の器」に、あつらえたようにぴったりと嵌る蓋を見つけるようなものかもしれない。


ただ、もし素で「これは自分のためだけに作られたもの」「自分のためだけに発しているメッセージ」としか思えないのなら、それは、自分以外の人には本当のところは理解できない、心からは感動できない作品ということになる。自分以外の鑑賞者は、その作品の真の受け手ではない。真の受け手は自分だけ。
本当にそう思い込むしかないとしたら、その人がするべきことはその作品を買って自室に置いて、人には見せないということだろう。死ぬ時は棺桶に入れてもらうか、一緒に燃やしてもらう。だってそれは、唯一「自分のためだけに作られたもの」で「自分のためだけに発しているメッセージ」があり、自分以外の人が見たって意味がないんだから(日本人の金持ちコレクターで、かつてそういう行動に出ようとした人がいた記憶が)。
‥‥と、極論を書いてみたが、それはいくら何でも独善的で狭量だと思う。*1


直球ど真ん中の「クリリンのことかーっ」(古い)と叫びそうな、あるいは「泣きたくなるほどどこもかしこも私向き」と思えるような、「こういうのに出会いたかったんだ、今わかった」と思えるような作品に運良く巡り会った時、私はその興奮を人と分かち合いたくなる。一人でも多くの人と同じ興奮を共有できると、嬉しくなる。嫌いだった人まで少し好きになったりする。私とは違う角度で作品を受取った人も探したくなる。それについて一晩中でも誰かと喋っていたくなる。
「これを本当にわかるのは自分だけ」の特別な世界も、捨て難いものはある。美術品の多くは一点「物」だから、そっちの方に行きやすい。でも私は「自分だけかと思ったら他にもいた!」の世界の方で生きたいタイプのようだ。

*1:実際は、誰も欲しがらないような作品を、所有したいと思う人はいない。欲望は「他者の欲望」であり、みんなが喉から手が出るほど欲しがっている作品を(競り落として)自分が買うからこそ、意味がある。

美大生の関心、山脈地形図、砂漠のオアシス

最近Twitter上で気になった、美大生に関する呟き。



美大生で「アート>サブカル」な人が目立つという話。ここで言われているのは、首都圏の美大を始め比較的ランクが高い美大・芸大の学生だろうか。
私が非常勤で行っている名古屋芸大は、有名美大受験を諦めたり失敗したりして来た学生が少なくないせいもあるのかどうか、相対的にあまりそうしたヒエラルキーに染まっていない気はする。この間講義の中で行った「好きなアーティスト、嫌いなアーティスト」のアンケートでも、サブカル系(マンガ家、アニメーター、イラストレーターなど)の名前が結構上がっているのを見た。
「マンガやアニメもいいよ。私も講義でアニメ見せてるし。でももうちょっとアート関係の人名上がっても良くない?(誰でも知ってるビッグネームとか、ロックウェルやミュシャとかイラスト寄りでなくて)。やっぱり答えたのがデザイン科の学生が多かったからかな」と思ったくらいだ。


マンガやアニメ、イラストは子どもの頃から親しんでいるものだから「遊び」(だから簡単、低俗?)、アートは美術として学校の教科に入っているものだから「学ぶもの」(だから難解、高尚?)という、単純な腑分けがあるのかもしれない。本当は「遊び」の中で、マンガやアニメの高度な見方を知らず知らず学んでいるのだが。
「キャラ表現以外の視覚表現>キャラ表現」という認識は、あまりアートに接し慣れていない人が「具象絵画は見ればわかるけど抽象はさっぱり」と言うのに(逆に)似ている。具象表現だって、構図や色彩やそこに描かれたものの意味、背景を、さまざまな知識や経験を動員して解読しなければならないことはある。
マンガであれアートであれカルチャーと名のつくものは、何でも”高尚な遊び”であり、同時に学びも必要と言える。


それはともかく、アートだけに関心が集中している状態、自分にも覚えはあるなぁと思った。
あるジャンルを自分の専門として選べば、当然それに没入するので、他ジャンルがあまり目に入ってこない、自分の取り組んでいるジャンルほど面白く思えないということは、一時的にはある。
特に難易度の高い美大・芸大に入った場合、"エリート意識"が余計にそうさせるかもしれない。アーティストを目指す学生にとってアートは言わば高い山であり、頑張って有名美大に入った時点で、やっとその麓の一合目の入り口まで来たぞという感覚をもつ。これからこの山を登るのだ。あたりの風景など、ゆっくり見ている余裕はない。そもそもまだ「見通し」がきかない。


4合目あたりまで辿り着いて、やっと周囲を見渡す。山の尾根が、向こうの方の山に繋がっているのを発見する。「おーい」と呼ぶと、しばらくして向こうの山から「おーい」と返ってくる。こだまじゃなくて誰かがその山に登っている。
6合目あたりで霧が晴れ、巨大な山脈の全貌が目に入ってくる。アート山に連なる音楽山、マンガ・アニメ山、デザイン山、建築山、映画山、演劇山、哲学・思想山‥‥。山々を貫通するトンネルが掘られている。ロープウェイで山から山へと移動している人もいる。やあ、こうなっていたのか。


だいたい早い人は10代後半あたりで、こういうことに気付く。遅くても20代の後半までには気付く。
登山者が登って作った道を後から登ってくる人々(作品享受者)の中にも、「山脈」を知っている人はいる。こちらの山に生えている植物の”原種”があちらの山にあるとか、このルートを辿ると向こうの山の峰に行けるとか知悉していて、山脈全体の大雑把な地形図が頭に入っている。そういう人を教養人と呼ぶ。
作り手は、教養人とはまた別の知り方の中で、山脈を発見する。自分なりの「山脈地形図」を作る。美大で学ぶことはそういうことだと思う。


‥‥‥と、ずっと思っていたが、最近の学生は違ってきたのか。アート山に登り始めたら、途中に見晴し台があっても立ち寄らず、ひたすら山道しか見ないふうになってきたのだろうか。アート山の頂上はどこよりも高い、いや山と言ったらアート山だけ、くらいに思われているのだろうか(ランクの高い美大では)。お山の大将になることが目標なのか。
途中で綺麗な鳥を見かけたのでそれを追って道を外れて、気付いたら全然違う山を登っていた、ということだってあると思うのだけども。*1


もしかしたらそういう若者の目には、「山脈」など映ってないのかもしれない。そんなものは蜃気楼に過ぎず、目の前に広がるのは砂漠なのだと。
アートはその砂漠の唯一のオアシス。登るものではなく癒されるもの。マンガやその他のサブカルに集う若者にはそこがオアシス。ここで何でも調達できる。他のオアシスまでは遠い。あっちの水は苦いぞ。こっちの水は甘いぞ‥‥‥。
そういうのを「島宇宙」と言うのだった。

*1:私は大昔、音楽山に登って途中で下山した。次にアート山に登ってもう山に骨を埋めようかと思ったがやっぱり下山した。今登っているのは何山だかわからない。たぶん”自分の山”だ(と思うことにしている)。

好きなアーティスト、嫌いなアーティスト2

昨年に引き続いて、地方の某私立芸大で持っている講義の中で、「好きなアーティスト、嫌いなアーティスト」のアンケートを取ってみた。
美術学部18人、デザイン学部38人。男女比は女子が8割強を占める(大学全体でも女子割合は7割くらいか)。
「美術、あるいは美術周辺の視覚表現で」と言ったが、違うジャンルの人の名も挙がっている。昨年も名前が出たアーティストには * を付けている。

●好きなアーティスト
1位 奈良美智*、ミュシャ*、宮崎駿*(3票)
2位 会田誠*、ロックウェル*、天野喜孝*、クールベ井上涼大友克洋吉岡徳仁、マリーニ*モンティーニ(2票) 
3位(1票、多いのでジャンル別にした)
▷画家、美術家
月岡芳年、田淵俊夫*、草間彌生*、オノヨーコ、杉本博司大竹伸朗、磯江毅、奥田エイメイ、池永康晟、深堀隆介松井冬子
レンブラント*、フェルメール*、モネ*、ルノアールゴッホ*、ゴーギャンクリムト*、シャガール、ダリ、デュシャンハンス・ベルメールアンドリュー・ワイエス、オットー・ディクス、ウェイン・シーバウド、ウォーホル、フランク・ステラアントニオ・ロペス・ガルシア、エドゥアルド・ナランホ、ヘンリー・ダーガーバンクシー
イラストレータ
山本タカト*、ワカマツカオリ、杉浦栞、ふるしょうようこ、ヒグチユウコ、原田ちあき、岸田メル、徳田有希、猫将軍*、黒星赤白、redjuice、左、アダム・ヒューズ
▷漫画家
鳥山明井上雄彦*、中島三千恒、三原ミツカヅ、螺旋人、堀越耕平
▷映像作家(アニメーター、フォトグラファー含)
ヤン・シュバンクマイエル寺山修司、ラレコ、未乃タイキ、細野守、蜷川実花、うつゆみこ
▷デザイナー
ウィリアム・モリス*、田中一光佐藤可士和*、菊池敦己、佐藤卓*、つなこ、Ne-netというファッションブランドのデザイナー
▷その他                                
きくお、久石譲perfume、ブルーシャトルプロデュース、小林賢太郎SEKAI NO OWARI、水原紀子、中川翔子、ミーク


宮崎駿が1位に入っているのは、講義でナウシカを観た後だったせいもあるかもしれない。奈良美智ミュシャが、去年に引き続き人気。図像のわかりやすいものか、描き込み(見た目の情報量)の多いものが好まれる傾向。あと、特別講義などで初めて知った作家の名が挙げられる傾向もある。
漫画家、イラストレーターの名が比較的多いのはデザイン科が大半だからかと思って、最初、美術学部デザイン学部で分けていたが、それほど好みに違いがないことが判明したので一緒にした。分類を画家かイラストかで迷ったものはあり。
画家は、日本人では月岡芳年を除いては皆現代の作家、欧米人は18世紀から20世紀にかけてのビッグネームが多い。日本の近代の画家、彫刻家の名は今回は一人も上がらなかった。

●嫌いなアーティスト
1位 村上隆*(4票)
2位 草間彌生*(3票)
3位 ダ・ヴィンチ*、カオスラウンジ*、荒木経惟佐藤可士和、ろくでなし子、大野智(嵐)(1票)
その他:剥製を使用しているアーティスト(生きているのを殺して行っている人)、アウトサイダーアート(きれいじゃないもの、暗く悲しいものを作って世に広めないで)、具体的にはないが派手でごてごてしているファッションデザイナー、AKBしきってるあの男


強烈な違和感、抵抗感を喚起することはアートの一つの特徴と見なされてきたが、忌避される傾向にあるようだ。1年生が多いのでそのうち変わっていくのだろうか。
最後の人はアーティストではないと思うけど、以前『美術手帖』に連載持っていたんでしたっけね。

藤城清治の影絵

この間の日曜日、NHK日曜美術館」で影絵作家の藤城清治を特集していた。『「光と影の”又三郎”」藤城清治 89歳の挑戦・完結編』(前編の方は見ていない)。
昭和30年代生まれの私にとって、藤城清治の絵は幼少の頃の記憶と強く結び付いている。NHKの「みんなのうた」、『暮らしの手帖』の挿絵、ケロヨン‥‥。
番組を見ていて懐かしくなり、『影絵 藤城清治作品集』(1960、東京創元社)を本棚から取り出して、十数年ぶりにページをめくった。


左:箱、右:本体
「海の中の幻想」 海に落ちたピアノのモチーフは他でも出てくる。
銀河鉄道の夜」の影絵劇のポスター。


子どもの頃、この箱入り美麗本を開いてその世界に浸るのは、私にとってとても贅沢な時間だった。
まず最初のカラー口絵をじっくり眺め、2時間くらいかけてゆっくりページを繰る。彼の作ったキャラクターである小人や女の子の姿かたちやポーズ、こうもり傘や屋根や木馬やピアノや猫や木や花や水の表現、鋭い輪郭、大胆な構図、繊細な陰影、美しい光の色。図版のあらゆる要素を味わうべく、一枚一枚をじっくり舐めるように見た。
さまざまな媒体に掲載された中から選ばれた作品なので、添えられている詩やお話は子ども向きとは言えないものもあったが、そこがまた作品世界の奥行きを深めているようで、細かい意味はよくわからないながらも魅力的だった。
最後の『西遊記』の挿絵にさしかかると、いつも残念な気分になった。もうあと少しで見終わっちゃう。この時間が終わってしまうのが惜しくてならない。とうとう最後のページまできて本を閉じ、もう一度表紙と裏表紙(一繋がりの絵になっている)をつくづく眺め、大切に箱に戻す。あと一ヶ月か二ヶ月くらいしたらまた見よう‥‥。


物心ついた頃からこの画集を何十回と繰返し見て育った私は、知らずしらずのうちに物の形のバランス、画面への配置の仕方や色遣いのセンスなどをそこから吸収していった。モノクロの初期作品には寂しげで透明なポエジーが溢れており、その独特のメランコリックな雰囲気にも影響を受けた。美術に関する私のもっともプリミティブな素養や感覚は、藤城清治の影絵が元になっていると言ってもいいかもしれない。
美術方面に進路を決めて後は長い間、藤城清治の影絵のことは忘れていた。というか、そういう”わかりやすいもの”から意識的に遠ざかろうとしていた。けれども久しぶりに画集を開いて、「私の原点はここだったんだな」と思った。
藤城清治は中学の頃から授業中に先生の顔を盗み見て描くのが得意で、大学を卒業後テアトル東京の宣伝部にいた頃は、ハリウッド映画を見まくっていたという。彼の卓越したデッサン力と構図のセンスはその中で磨かれたもので、美術学校で学んだものではないということを後で知った。


何冊か持っている藤城清治の本の中で、1960年に出た最初のこの画集を一番気に入っているのは、よりカラフルで技巧を凝らし豪華絢爛な感じになっていった後の時期より初期作品の方が好みだということもあるが、私が1歳になる前に父が買ってくれた本だからだ。他のさまざまな絵本を見るより早く、この影絵の本を父の膝の上で眺めていたのだから、心に焼き付けられたのも無理はない。
奥付けに1300円とある。教員の初任給が1万円くらいの時代、高校教員になって7、8年目の父が幾ら貰っていたか知らないが、結構高い買い物だったと思う。


藤城清治の影絵に強く見られる童心とロマンティシズムを、細々と小説や童話を書いていた父も持っていた。影絵の美しさに惹かれただけでなく、大正13年生まれの同い年で、同じく海軍の予科練に入り二十歳過ぎに戦後を迎え、子どもの世界に「理想」を見ようとしている点に共感するものがあったのではないかと思う。
当時は人形劇や影絵が盛んで、父が顧問を務める高校の童話部でも毎年文化祭に影絵劇の上演をやっており、よく連れられて見に行った。暗闇の中に浮かび上がる夢みるような光と影の物語。すっかり影絵に夢中になった私と妹は、家でボール紙を切り抜き、磨りガラスの引き戸をスクリーンにして遊んだ。


そんなことをぼんやり思い出しながら「日曜美術館」を見ていたのだが、印象に残ったのはなんといっても、もうすぐ90歳を迎えるにも関わらず、まったく衰えを見せない藤城清治の”現役感”だった。実際、現役だから当たり前なのだが、つくづくこの方面は長生きで元気な人が多いと思う。頭を使い手を動かしてものを作り続けていく人というのは、普通の人に比べて現役時代が長いのかもしれない。二ヶ月前に亡くなった父の晩年の衰弱ぶりと、つい比べてしまうのだった。
さらに、服装が若々しくおしゃれなのにも驚いた。エンブレムのかたちの小さな黒いポケットがアクセントになった白いTシャツ、白の綿麻っぽいハーフパンツのスーツにきれいな水色のショール、ボーダー長袖Tシャツと紺の半袖Tシャツの重ね着、紺のトレーナーに紫地に水玉模様のパンツ‥‥。
テレビ向けにスタイリストがついたのだろうか。そういう小賢しい演出を許容する人には思えないので、たぶん自前だろう。どれも白髪にしっくり似合っていて素敵だった。

インベカヲリ★さんとの対談がWEBスナイパーに掲載されました

写真集『やっぱ月帰るわ、私。』(赤々舎)発売記念 インベカヲリ★×大野左紀子 特別対談!! - WEBスナイパー


12月に行われた写真家・インベカヲリ★さんとの対談が、ようやく記事になりました。
内容は、昨年出たデビュー写真集『やっぱ月帰るわ、私。』(拙ブログでのレビューはこちら)についての私からのインタビューを皮切りに、女性の表現衝動や欲望について、ジブリ映画と竹取物語、女子校文化、女性アーティストをとりまく環境、生き方のロールモデルの不在など。
2時間以上に渡る対談内容のほとんどが掲載されています。これまで対談や座談会原稿の校正は幾つもしましたが、今回は自分の発言の手直しを最低限に止めましたので、会話の息づかいがかなり残った感じになっています。


写真も多数載っています。冒頭はインベさんと私。”上京して大学に通う娘、訪ねてきた母親”という感じのツーショットです(記事の一番最後のプロフィールを見て頂ければわかる通り、21歳の開きがあるのです‥‥oh)。
それからインベさんの作品写真が14枚。最初の方は私がセレクトしたものです。作品の方法論を知った上で改めて見ると、また味わいが違います。
そして、ちょっと恥ずかしいですが私の作品写真も2枚掲載されています。アーティストを廃業してから過去の作品写真を自分で公にするのは、たぶんこれが最初で最後です。


インベさんとは初対面でしたが、互いに緊張しつつも、非常に楽しくお話させて頂きました。
ありきたりの言葉で捉えられないユニークなインベカヲリ★の世界。それだけに、既成のフェミニズムジェンダー論のわかりやすいところに落とし込んではいけないと思いつつ、うろうろと言葉を探しながらの発話でした。今年の木村伊兵衛賞の候補にノミネートされながら惜しくも授賞を逃したインベさんですが、その作品と率直な言葉の端々から私は多くの刺激を受けました。
どうぞじっくりお読み下さいませ。



やっは?月帰るわ、私。

やっは?月帰るわ、私。