『奇跡の海』を観て考えたこと

涙のメカニズム

奇跡の海 [DVD]

奇跡の海 [DVD]

ラース・フォン・トリアー監督『奇跡の海』のDVDを、夏に知人から借りて見た。見てから随分経つが、考えがまとまらないのでそのままになっていた。
ウェブでも映画の感想や批評が書かれているところをいろいろ見てみたが、こういうのを「究極の愛」とか「純愛」とか言って褒めててもなあ‥‥というのが私の率直な感想であった。じゃあ「純愛」って何かと言われると、返答に困るのだが。


「純愛」を広辞苑で引くと「純粋な愛。ひたすらな愛情。」とあって、説明になっているんだかいないんだかわからない。
とりあえず世間一般的には「純愛=セックスを伴わない恋愛」となると思うが、そうするとセックスは「純粋なひたすらな」ものではないということになる。確かに動物のセックスに比べると、人間のは純粋ではない。
いや純愛の「純」は純粋の純ではなく、純情の純というニュアンスに近いのではないか。では純情なセックスというのは‥‥やはりありえないような気がする。このあたり掘り下げてみたいが、ちょっとそれはおいといて映画の話。


奇跡の海』は、同監督のその後の作品『ダンサー・イン・ザ・ダーク』と同様、「苛酷な状況にめげず自己犠牲を払って自分の意思を貫く女」というものが描かれている。その自己犠牲と意思はひたすら「愛」のためである。
いずれの映画も、ヒロインは危険なまでに「純粋な愛、ひたすらな愛情」を貫く冒険者として、観客を魅了するキャラクター造形がされている(この先ネタばれあり)。


ダンサー・イン・ザ・ダーク』には実は大変感動してしまい、映画館でしくしく泣いた。
私はビョークの歌に感動していたのか。そういうところも多分にあった。視力を失っていくセルマの「私はすべてを見た。もう見るべきものは何もない」という歌に、結構ヤラれた。そのあまりに深い諦観に、ちょっと打ちのめされてしまった。泣いたのは、そこのところである。
一緒に見た夫は「なんて救いようのない話だ。可哀想過ぎて見ておれん」とこぼしていた。


どちらも最後にヒロインが死ぬ。そこに至る経過はまったく違うが、二人に共通しているのは「愚かなまでに率直」ということである。「愛」を貫くために、女はここまでひたむきに盲目に向こう見ずになる、という見方がそこにあるような気がする。散々描かれてきた女のプロトタイプ。
女は子供のためには犠牲を厭わない(ダンサー)、女は男のためには死をも恐れない(奇跡の海)。女性性にまつわる幻想は、あらゆる幻想の中でもっとも根強い。セルマもベスも、男の幻想が結実化した女の姿ではないのか? 


しかし私は、どちらのヒロインにも感情移入はした(そうしないと見れない)。ヒロインの真摯な思いが描かれ、そこが結構ツボを突いていて、見ていてかなりせつなくなった。苦悩しつつ報われることのない困難な道を選択し破滅するヒロインというものは、女のナルシシズムを刺激する。
最後の死など、自己犠牲の美学に酔いたい女心ワシ掴みである。そういう「涙のメカニズム」をうまいこと利用していると思うと、出かかった涙もちょっとひっこむが、それに乗ってしまって泣いちゃいたいという気にさせる程度には、どちらもよく出来ている映画である。

セルマとベス

細かい比較をすれば、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』では、セルマの死によって子供(の視力)が「奇跡的に」恢復したわけではない。そこが文字通り「奇跡」として幻想的に描かれる『奇跡の海』とは、異なっている。
母親は子供のために生きなければならない、弁護士を雇えば勝訴できるという周囲の提言を、彼女は拒否する。「息子に必要なのは目で、母親ではない」と。死刑判決を覆して生き延びることより、貯金を彼の手術費用に当てるという当初からの自分の目標、信念を、彼女は頑なに手放さない。


セルマの死刑には、底辺層差別と女性蔑視と人種差別といった構造的な問題が絡まっていたことが描かれている。つまり彼女の死は、大枠では当時のアメリカ社会の理不尽な偏見によって決定されている。それゆえ、観客は彼女の死を不当な、しかし避け難い悲劇として受け取る。
奇跡の海』にも排他的な社会が登場するが、それはもっと神話的に描かれているように思う。


セルマは自分の失明を甘んじて受け入れていくが、それは同時にミュージカル・ダンサーになるという希望の断念である。更に「犯罪者」の立場に構造的に追い込まれた、自身の生の断念。
生きていても仕方ないという諦めがそこにあったとすれば、セルマは、絶望的な社会で個人的欲求を潰され死を選んだヒロインとなる。そこを「母性愛」という物語が支えているので、呑み込みやすくなってはいる。
視力が失われていく過程でミュージカルだけが、現実から一瞬でも逃避できる「夢の世界」である。
だから死刑台に向う時になっても、セルマは歌い踊っていた。ミュージカル映画だからそうなってるというより、彼女は最後まで「夢の世界」にいようとした。そんな夢でも見なければ、この苛酷で理不尽な現実を(発狂しないで)どうやって受け止められるのかということだ。


セルマから見た歌い踊る「夢の世界」を半ば通す形で物語は語られるが、当然のことながら、ミュージカル映画のような心踊る大団円はない。夢は醒めて現実(死)がつきつけられ、彼女は絶望に泣き叫ぶ。
ダンサー・イン・ザ・ダーク』に「鮮烈かつ美しく」描かれるのは、そういう「惨め」としか言いようのない女の存在様式である。いくら女が「惨め」だとしても、物語ならもう少し救いを求めたいという心性だと、「可哀想過ぎて見ておれん」ということになる。


一方、『奇跡の海』のベスはどういう「夢の世界」にいたのか?と言えば、信仰の世界である。
夫は神からの贈与であり、出稼ぎ夫の不在は神が自分に与えたもうた試練として受け止めるような、もともと信心深い女であるが、やがてその信心は特異なものに変貌していく。その変貌の契機は、夫ヤンが受けた事故によるダメージだ。


新婚の二人の愛とセックスは、厳格なプロテスタント信仰が根強い土地で、唯一人間らしいものとして描かれる。そして事故で全身麻痺の重度障害者となった夫の「愛人を作ってくれ」という要求は、ベスにとっては受け入れねばならない大きな試練となる。
彼女は、「セックス=ヤンとの愛の行為」という自分の中に根付いた観念を捨てようとする。捨てたところにある観念は、「セックス=セックスできないヤンへの愛」。
ベスはその自己の愛の観念=「信仰」に、几帳面なまでに従う。その几帳面さは、夫以外との男との不本意なセックスを我慢しているうち、自分のM性に目覚めてしまったといった、(男が好んで描きそうな)性的欲求に従ったものではもちろんない。
彼女は男達とのセックスに際して明らかに抵抗と苦痛を感じており、それを我慢できるのは、ただ夫ヤンのためという一点に過ぎない。
苦痛が大きければ大きいほど、それに耐えている自分のヤンへの愛の大きさを確認し、もはやそういう形でしか自分が彼にしてやれることはないと、愚直に信じるのだ。
その頑なさと精神構造は、セルマと似ている。

愛という信仰

ヤンの要求は、ベスに苦痛を味わわせるのが目的ではないだろう。二度とセックスできない体になったという事実は、事実として受け入れざるを得ないが、それより、そのうち性欲すら感じなくなるのではないかという不安が大きい。
ベスへの性欲を眠らせたら、心身ともに再起不能となるだろうという恐怖。
その中で彼は、妻と他人とのセックスに激しく嫉妬し、嫉妬することで廃人となるのを踏み留まるという選択をした。ヤンは、ベスが他人とのセックスでオーガズムに達することすら望んだだろう。
自分が与えられないものを他の男に与えてもらってくれ。そのことを話してくれ。それを俺のためだと思って実行してくれ(愛しているなら)。
こうしたことを、倫理的にどうのこうの言っても仕方がない。


しかし売春まがいのことをしているベスの行動は、共同体から排斥される。
もちろん共同体よりも、共同体を結び付けるキリスト教信仰よりも大切なのは、自分の中で響く「神の言葉」であり、愛という信仰であるから、排斥それ自体は彼女の行動を妨げない。むしろ加速させていくように見える。


信仰とは、当てのないものである。それを信じたから現実が変わるわけではない。現実に多少耐えやすくなるだけだ。
ベスが耐えねばならないのは、ヤンを回復させることはできないという現実である。それに比べれば、他人とのセックスなどたいした苦痛ではないと思わねばならない。信仰によって、現世のあらゆる苦痛を耐えようとするのと同じだ。


もちろんヤンが望むようにはベスは、他の男とのセックスで快感は得られない。もし仮に得られる可能性があったとしても、あくまで拒んだに違いない。だからこそ、安全な愛人に相応しく思えた旧知の精神科医から離れ、無差別に見ず知らずの男と性交し、最後には恐怖と嫌悪を感じるような暴力的な男達の元に赴いた。
ベスはそこで何を確かめたかったのだろう。単に夫とのセックスだけを愛情の証としてとっておくために、そうした極端な行動をとったのだろうか。夫の絶望的な運命とつり合うような試練を自らに課したのか。
二度目に男達のいる船に行った時(一回目は暴力に「反撃」して逃げ帰っている)、瀕死の目に合わされることを彼女は覚悟していなかったのか。 自己犠牲メンタリティの自家撞着状態か。


信仰が死を恐れないように、愛を信仰として生きることは、極地までいけば自己の生を破滅させ消尽させる。
男女の愛は性と生の謳歌だと言われるが、それは極地まで行かないようコントロールをした上での話である。つまりそこでの愛は信仰ではないし、唯一絶対のものでもない。だから誰でも恋に落ちることができるのだ。


自らを消尽すること、最大の自己犠牲を払うことで、ベスは夫に献身したように描かれる。彼女が精神科に入院したことのある「普通ではない娘」であるという設定によって、その愛は更に純化され神秘化される。ベスは愛という信仰に殉教する無垢な「聖女」なのである。
しかし彼女はヤンの望みに、忠実に応えていたのだろうか。最後に殺されたのだから、応えていたとは言えないだろう。
そもそも自分が男に死ぬほど痛めつけられることを、夫が求めているわけがない。そんなことはいくら「普通ではない娘」にでもわかることである。
ベスが忠実だったのは、「この試練を堪え忍べ」という「神の言葉」だけである。その試練が「唯一の愛」を確認するためなら、むしろ大きい方がいい。それを徹底して、彼女は破滅した。


苛酷な条件において愛を貫こうとすれば、それを信仰にせねばならず、信仰となった愛は相手の要求を追い越してしまう。そこに相手との幸福な出会いはない。男女の十全なコミュニケーションに基づく愛といった幻想は、そこで木っ端微塵にされる。
では、その極地までいかない唯一絶対でないコントロールされた愛が、幸福な愛なのか。性と生の謳歌を幸福と捉えれば、そういうことになろう。そういうものが我々の欲する男女の愛だと、とりあえず思っておこう。

女の「能動性」

ベスの行動はセルマと同様「愚か」であり、物語の顛末は「悲劇」である。
ところが映画はその「悲劇」を悲劇として終わらせないで、「奇跡」=ファンタジーにもっていく。その手際はあざといまでに見事だと言ってよい。


奇跡その1。
一生寝たきり状態と思われていたヤンは、やがて恢復する。どう見ても、ベスの死によってヤンが生き返ったとしか思えない。
ここで、ベスの一連の行為は「愛ゆえの自己犠牲」に再度きれいに回収される。男の生のために体を張って死んだ女として、彼女は神格化される。
奇跡その2。
ベスが密かに葬られた海の上で、教会の鐘が鳴り響く。それまで存在すらしなかった教会の鐘が。
鐘とは、共同体で露出を固く禁じられている男女の愛であり、欲求に従った生き方のメタファーであるという伏線が、ここで生きるようになっている。一人の女の死によって、封建的な共同体の中に眠っていたそれら「人間らしい感情」が目覚めるというわけである。
女は死ぬことで男を救うだけでなく、人々をも救うと。ベスはジャンヌ・ダルクなのか。


ここまで持ち上げられて、やっと観客の女のみすぼらしいナルシシズムが満足させられ、男にも不安感を残さないという作りになっている。
「感動的」なフィナーレであるが、私は釈然としない。 やれやれまたこのパターンかとやや鼻白む。
そんなこと言ったら、物語はあらゆるパターンの変奏であって、そこにいちいちしらけていては没入できないだろう。しかし落ち着く先が、男によるこうした女の相も変わらぬ神格化、聖化となると、正直げんなりせざるを得ないものがある。


仮に男女が入れ代わっていたとしたら、どうか。この物語は成立しない。妻のたっての願いで嫌々他の女を誘惑して泣く泣くセックスし、その苦痛に耐え忍び、赤の他人の女に性的に痛めつけられて殺される男、というのは考え難い。
そもそも男が欲望し勃起しなくては、挿入ができないという明確な事実。セックス(挿入込みの行為とここでは考える)は、それがいかなる理由からであっても、基本的に男の性欲を必須条件としている。だから男さえ準備が整えば、女を腕力で押さえて強引に性交することも可能である。レイプはそういうものだ。
逆にいくら女が望もうが誘惑しようが、男が勃起しないとセックスはできない。すべては男次第。女は常に「受け身」である。


アルモドバル監督の『トーク・トゥー・ハー』では男が女に一方的に尽くしてはいるものの、相手が植物人間(受け身の極地)であることをいいことに、レイプ行為はするのである。最後は絶望して死を迎えるとしても、自分の欲望はちゃんと果たしている。
何かよほど人工的な仕掛けを施さない限り、この逆のパターンは成り立たない。この点こそが、男女差の根本であると私は思う。
もしジェンダーが完全に無くならないとしたら、最終的にこの厳然たる差(差と言うにはあまりに違い過ぎる差)に起因するのではないかとも思う。


トーク・トゥ・ハー』でも男女の出会いの不可能性が描かれていたが、蘇生した女は男について何も知らされることがない。「奇跡」は起こるが、男女関係は徹頭徹尾切断されたままであり、ファンタジックな結末もない。
奇跡の海』では、男女関係が濃密であるという前提から始まって、切断された状況を描くにも関わらず、最後に女の死は「恩寵」のごとく扱われる。そして美化、正当化される。女から見れば、そんなところで褒められてたまるかということである。


しかし、これを「愛ゆえの自己犠牲」と言えるだろうか。むしろ、「愛ゆえの自己犠牲など存在しない」と言うべきではないか。
ベスの犠牲的行為は実質的に夫の望みに対応するものではなく、彼女の「信仰」のためという転倒が起こっていた。彼女の「神との対話」、「神の声」に従い死に向って突き進んだ行動がそれを裏付けている。


では仮にそれが「神の声」ではないとしたら(実際にはベスは自問自答しているだけだから「神」ではない)、つまり絶対的な他者に従ったのではないとしたら、彼女を死へと突き動かしていたのはいったい「誰」なのか。
それは彼女の中にあった彼女自身ではないか。
それが、基本的には「受動的」でしかありえない存在様式の女の、おそらく女だけの、たった一つの「能動性」ではないだろうか。
そういう「能動性」を発動させることによってのみ、共同体の掟は解かれ男は救われる。こんな「救いようのない話」はないだろう。