ピアノレッスン

14の挫折

一週間ほど前、NHK教育チャンネルで「スーパーピアノレッスン」という番組を見た。毎週火曜の夜に放映しているらしい。途中からだったが、引き込まれて最後まで見てしまった。
フィリップ・アントルモンという講師が、アジア系の若い男性の生徒に指導していた。曲は、モーツァルトのピアノ・ソナタ イ長調 K.311、第一楽章。聴いているぶんにはものすごく難しいとも思えない曲だが、そういうのに限って弾きこなそうとすると案外難易度は高い。


その生徒は有名ピアニストの「スーパーレッスン」を受けるくらいであるから、かなりのレベルである。当然のことながらきっちり端正な感じに弾いている。
ただ楽曲の解釈がやや浅いようで、4小節置きくらいに「ノー!」とダメ出しがあり、細かい指摘を受けていた。それを受けて弾き直すと、見事に俄然違って聴こえる。
そのうちにだんだん生徒の方も表現のコツを習得してきて、先生は満足げに「グー!」を連発。だがちょっとでも気を抜くと、また「ノー!」で中断。
見ていて、なんだかどきどきしてきた。


私も昔ピアノを習っていた。
娘がピアニストになるのを夢見た親の意向で、3歳から始めて約11年やり、14歳でやめた。高校は音楽科に進学するつもりで、親が無理して試験に慣れるためにとグランドピアノまで買ってくれたのに、それから1年余りで挫折した。
グランドピアノといってもコンサートホールにあるような長いのではなく、一番小さいサイズだったが、高校の平教員の給料からみて安い買い物ではない。買う前にやめてくれればよかったのに、と後々冗談混じりによく言われた。親不孝だったと思う。
私は表現力はまあまあだったが、運指はしばしば譜面を無視していた。また、自分勝手に即興でパラポロ弾いているのが一番好きで、その次が好きな曲を弾く事で、基礎的な反復練習は最低限しかやらない、横着な生徒であった。
しかし、弾く曲の難易度が増すにつれて、過去の基礎練習の蓄積がモノをいうのが、クラシック音楽の世界である。11年目までは順調な感じで進んでいたが、ある時、その基礎の脆弱さが露呈した。


それは、長年みてもらった先生に紹介されて行った次の先生の、一回目のレッスンの時のこと。
悪いことに最初に弾かされたのは、ショパンのあまり得意でない曲だった。それこそ、4小節を待たず「ノー!」が入った。先生は日本人だったので「違う!」。
「指遣いが違う!」
「また違ってる!」
「音が違う、譜面をよく見て!」
そのうち私は、指が思うように動かなくなってしまった。どうでもいいいところでつっかえてばかり。
先生の溜息が聞こえ、楽譜が涙で滲んできた。


30分のレッスンが3時間くらいに感じられた。初回ということで挨拶がてら一緒に来てレッスンを傍聴していた両親は、ソファで悄然として固まっていた。それを見て、さらに泣きたい気分になった。
「この曲はあなたにはまだ難しいです。一段レベルを戻してやり直す必要があります」
そこで踏んばって、この機会に徹底的に基礎を鍛え直そうと腹を括るのが、プロを目指す人である。しかし私には、その覚悟と根性がなかった。
何より、それまである程度自信があっただけに、それを一気にぺしゃんこにされて完全にメゲてしまった。


帰路では、親も私も無言だった。帰ってから親に面接された。そこでとうとう「ピアノやめたい」と言い、その日も次の日もピアノに触らなかった。
毎日数時間の練習が必要な時に1日弾かないと、3日分の遅れとなる。でももういい。
もう人に「違う!」と言われるのイヤ。
そう言われないために、毎日毎日人の作った曲を人より上手に弾くのに必死になるのもイヤ。
もう何もかもイヤ。

老師の汗

私は横着な上に打たれ弱く、地道な努力の嫌いな子供であった。泣きながらやめると我が侭を言い続ける私に、親も折れた。
「じゃあ進路はどうするつもり。高校は?」
「‥‥美術科にいく」
普通科に行きながら絵の勉強をするんではなく、私は最初から(学科の楽そうな)美術科を選んだ。
それに、絵の世界には反復基礎練習も、「違う!」もないだろうと。学校というアカデミックな場では、美術でも音楽でも同じであることまでは、その時思慮が働かない。


それはともかく、11年間お世話になった最初の先生のところに、その旨を報告しに行かねばならぬ。
お爺さんの先生である。2番目の先生とはタイプが違うが、やっぱり厳しかった。テンポが乱れたり音がとんだりすると、「こらこらっ」と割れ鐘のような声が飛んでくる。ある時、私の前の生徒の弾くのがちょっと聴こえていたと思ったら、バーン!と鍵盤を叩く音がして、生徒が蒼白で出て来たことがあった。そういう後でレッスン室に入っていくのは、とても怖い。
しかし高齢ゆえか、静かで単調な曲の最中にウトウトしてしまうことも、たまにあった。弾き終わって横を見ると、椅子の背にもたれて目を瞑っているのである。いつもだいたい目を瞑って聴いている先生なのだが、ピクリともしない。先生と呼ぶと、おおと目を覚まし「もう一回最初から」と言われるのであった。


長年教えを受け、進学のために新しい先生まで紹介してもらった矢先に、突然やめるなんて言ったら、きっとものすごく叱られるだろうな。
私は先生の前で身を固くして、半分下を向いて話した。親は、しきりに「こんなことになって申し訳ありません」を繰り返していた。
口を一文字に結んで腕を組んだまま話を聞き終わった先生は、しばらくして重々しく
「そうか」
と言った。
「もう決めたか」
「はい」
「そうか」
顔を見ると、老先生の額にびっしりと汗が浮かんでいた。


それからどういう話をしたんだったか昔のことなので忘れてしまったが、「いつか肖像でも描いてもらおうかな」という軽口が出るくらいには雰囲気がほぐれ、「では、頑張りなさい」と言われて帰ってきた。
3年くらい後、先生はピアノ教室の看板を降ろし、その5年後に病気で亡くなった。
だから肖像も描いてないし、頑張りなさいと言われた美術をずっと後でやめたことも、先生は知らない。


自分が長年教えてきた弟子が、思っていたより力が不足しており、情熱も不足していたと知ったら、指導者はつらいと思う。人に紹介した手前もあるだろうが、別のつらさもある。
もっとも同じ教室から「違う!」の先生に紹介されて、ますます力をつけ、高校の音楽科に優秀な成績で進学し更に音大に進んだ人は、それまでに何人かいたのである。私もそういう生徒だと看做されていた。
しかし私は失敗して、結果的に師匠の顔に泥を塗り、期待をあっさり裏切った。まあ実力も情熱も足りなかったのだからそれは仕方ない。
私は半分しょげながらも、半分はこれで重圧から解放されるとホッとしていた。毎日の退屈な反復練習やレッスンの緊張から逃れられるのは、ちょっと嬉しい。先生の前で畏まって、そんなことを考えていた。
そして叱られないで済んで、新しい道を「頑張りなさい」と励まされたことを、単純に喜んでいた。


老先生の額にびっしり浮かんでいた汗を今思い出してみると、少し苦しい気分になる。
あの時老師はたぶん、いろんなものを堪えていたのであろう。
紹介先の先生に対する面目の無さ。
指導に落ち度があったのではないかという自責。
指導の判断が狂うくらい年老いたのかという怖れ。
もちろん不肖の弟子への落胆‥‥。


そういう想像をできるようになったのは、自分が教える仕事をするようになって後のことであった。