『私という病』を読む

「誰か、私に欲情して」

中村うさぎ小倉千加子の対談本『幸福論』(岩波書店)と、中村うさぎ著『私という病』(新潮社)を、一気に読んだ。
また中村うさぎですか。それ以外の本は読んどらんのか。いや読んでないことはないが、私の関心が「女」と「性」にある以上、それを究極の「実体験主義」という、誰にも真似できないやり方で書いている彼女から目が離せないのは仕方ない。

私という病

私という病


『私という病』は、去年「新潮45」に連載したデリヘル嬢体験記に大幅加筆したものである。帯の文句は「ああ、お願い。誰か、私に欲情して。」
女であることを認められたいと切望しつつ、自分の中のそんな「女」に違和も感じる自分。そういう「自己分裂」に悩む女性読者に読んでほしいと中村はまえがきで書いているが、一読しての私の感想は「これは是非男の人にも読んでもらいたい」。男性の皆さん必読。個人的にはジェンダー入門(講義)の推薦図書に決定。
きっと人によっては拒否反応が出るだろう。つまりリトマス試験紙みたいな本である。


たまたまハマったホストクラブ通いの資金が底をついた時、毎度ご指名のイケメンホストに「愛」を告白されてしまったばかりに、「地獄」を見た中村うさぎ。40過ぎて15も下のきれいな男から好きだと言われりゃ、相手がバカとわかっていても年を忘れてクラッときてしまう。わかりますわなんとなく。
しかしその短い「恋愛」は結果的に、おばさんが若い男に「セックスしてもらう」ものであった。かつては「させてあげる」ものであったのが「してもらう」ものになっていたという屈辱的大転倒。いつのまにか暴落していた自分の「女の価値」。そこに死ぬほど焦燥感を感じた中村は、整形に走る。


整形してきれいになって、男に振り向かれたい。そして「女の価値」を再確認したい。「どうよ」という気持ちになりたい。‥‥わかりますわ。私にはそこまでの勇気と美への執着とお金がないけども。
というより、「へえー、なんだかんだ言ってそんなに容貌コンプレックスに苛まれてたのね」とか「その年になって(しかも既婚のくせして)まだ男に振り向いてもらいわけ?ププ」とか人に思われるのが、とてつもなく恥ずかしい。
そうだ、正直に書くと、既知の他人の目があるから、私は中村のように整形しなかったのだ。私は47で彼女と同い年だが、この年齢になると美というより若さに対して、諦観の境地に入ってくる。入らざるを得ない。
外見に関しては世の中不平等でも仕方ないのよ。もし過去を捨てて別の土地に行き名前も変え、まったく別人として生きていくことにでもすれば、いっそ整形しよう(もちろん美しく)という決意もできるだろうけどさ。


だからそういう姑息なことなしに、若返って見返してやる、リベンジを果たすという"燃える闘魂"を隠さない中村は、やはりやや常人離れしていると私は思っていた。
しかし常人離れしているのは、彼女の「私の中の「女」っていったい何?」「私が本当に欲しいものは何?」という探究心であった。探究心とリベンジの相乗作用。
しかし、いくらきれいになったからって、なにもデリヘル嬢にならなくてもいいのではないか? それはちょっと飛躍し過ぎなんではないか? だって、初対面の男の「裏スジを舐める」んですよ、一日に何人も。
「女の価値」を確認したいなら、美貌を武器に好みの男性を籠絡して恋愛関係になった方がいい。私なら迷わずそうするが。


そういう疑問がいかに表面的なものであったか、読み進むうちにわかった。
「愛」だの「恋」だのでは、もうダメなのである。そんな個別的なまどろっこしいものではなく、重要なのは自分が男を「欲情させられる存在か否か」を正確に確かめること。
「女」とは、男の欲情の対象を指す言葉である。すべての女が「欲情される」か「欲情されない」かのどちらかの存在だとしたら、私は「欲情される」女になりたい。いや確実に「欲情させる」立場に立つ。主体的に。
「愛」や「恋」は数値化できない。しかしデリヘル嬢は時間いくらの商売。一日に指名が何回かかるかが勝負。「金を払ってでもセックスしたい」と男に思わせたことを、数値で確認できる意味で、これほどはっきりしているものはないではないか。


これが中村の探求と反撃から導き出された解答である。

女のパロディ

それでもやはり、赤の他人との疑似セックスは仕事とは言え、相当なハードルだ。そこがどうクリアされているかと言うと、源氏名叶恭子」によってである。デリヘル嬢やっている時の彼女は、中村うさぎでも中村典子(本名)でもなく、「叶恭子」という記号をまとった女。「叶恭子」でコスプレしていたから、わりきれたのだという。
別名を語るということは、もう一つのキャラを作ること。これは自分じゃない、と思えるから、自分だったらできないようなこともできてしまう。
そこには名前だけでなく、中村の顔も胸も本来のものではない言わば「コスプレ」だったという事実が、大きく関与していただろう。
自分の体であって自分じゃない。男がきれいだと思って見とれているこの顔や、触ってるこの胸は、全部作り物。偽造。粉飾。男が欲情するような「女」なんか、タカナシクリニックでいくらでも製造できるのよ。


名前と外見を変えることで、人は解放されることがある。「私」という一個のアイデンティティにこだわるから苦しくなるのであって、別のキャラを立てれば楽じゃん、ということだ。
中村うさぎではできないことを叶恭子にやらせる。中村典子が受けた屈辱を叶恭子で晴らす。叶恭子に疲れたりうまく行かなくなったら、中村典子やうさぎに戻る。
しかしそれは、妻とか母としての重圧を仕事で発散させている兼業主婦や、対人関係のストレスをネットで晴らしている2ちゃんねらーと、どう違うのか。
中村自身は自覚的にそれをやっているからいいが、無意識でやっている人は多いだろう。当面楽になったとしても、そのツケはいつか回ってくるのではないか。
むしろ逆に、どこかで「私」を統合したい欲求を、人は捨てきれないのではないか。


「私」を一人に決めず、いろいろな顔を持っていると楽だということはわかるのだ。しかしその多重人格性は、社会が個人に強いていることである。家、学校、職場、友達関係、恋愛関係、それぞれの場で異なるものを求められるから、キャラが多重化してくる。
それが加速すると、ある場でAという人格でやった行いを、Bではさっぱり忘れるという乖離現象も起こってくるだろう。会社では優秀な社員だが、家では飲んだくれの暴君とか。女同士ではサバサバしてるが、男には甘えっぱなしとか。その矛盾に本人気づけない。気づいたってなかなか直せるものではない。


私も、夫に見せる顔と友人に見せる顔と仕事場で見せる顔は違う。同じ部分はあるが、やはりどうしても違ってくる。だからせめてその違いに自覚的であろうとは思う。
自覚的である自分が「私」である。それは「本当の私」探しの「私」ではない。AでもBでもCでもある私の一番下で、黙ってすべてをじっと見ている「私」だ。その「私」だけは騙せないのだ。
中村にものを書かせているのも、その騙せない「私」である。「私」を隅々まで見極め文章化しようとする中村の情熱は、ハンパでない。
しかし、もの書きでなくても、このくらいまで自分を抉り分析し、自分が失ったものが何なのかを考え抜ける女は、潜在的に結構いるのではないかと思う。たぶんどうしようもなくせっぱつまった時に、そういうことは起こる。


女としての自分が失い、心から取り戻したいと欲していたもの、それは「自尊心」だと中村は結論づけている。
デリヘル嬢をやることで、彼女は若いホストに奪われた自尊心を取り戻した。もちろん「40歳」のデリヘル嬢として登録されたのは、彼女が整形美女だったからだ。
私は去年あるトークショーでナマうさぎを拝見したが、30代前半で充分通用する若々しい外見であった。そうまでしても、彼女は自尊心を取り戻したかった。


中村の哲学はおそらく「自分が生きやすくなるんだったら、何だってやってみればいい。それが他人を傷つけないものである限りは」である。
だから、みんなが整形美女になったらもう誰も顔で悩まなくなるし差別もないではないか、といったことを『幸福論』で語っている。みんなが「美人は無敵」という社会の価値観に過剰に合わせてしまうことで、価値の無効化を図るという考えだ。
彼女自身、「私のやっているのは女のパロディだ」と言い切る。叶恭子という名を選んだのもそういう理由がある。


しかし、「誰か、私に欲情して」と「私は女のパロディよ」とは、両立しない。普通の男は「女のパロディ」に欲情できない。男が叶恭子を異形の者としか見れないのと同じことだ。
自分の中の矛盾した二人の女が、男によって失った自尊心を取り戻したいという切望から生まれていたと最後に気づいた中村は、もうこれ以上の足掻きはしないだろうと言う。

私の「分身」

中村は、客の男性に対して会う前に恐怖は感じるが、嫌悪の情はなかったと書いている。
そういう感覚をシャットアウトしてなければやれない仕事だが、客には客の礼儀があったと。金銭とサービスの交換であっても礼儀は当然だとも言えるが、彼女はそこで「自分を全面的に受け入れてくれる女」を求めてやってきた彼らとの「コミュニケーション」を確認している。
もちろん「自分を全面的に受け入れてくれる女」も、その女の仕事上のキャラでしかないことを、お客さんは知っている。報酬をもらえるから熱心にフェラチオしてくれてるだけのことだ。
それでもそこに束の間の疑似恋愛関係を求めようとする男がいる。お金で買う恋人気分。まあホストにハマる女と同じだ。中村は彼らに、自分の姿を見たのかもしれない。


中村が軽蔑するのはデリヘルの客などではなく、仕事で出会ったセクハラおやじであり、妻とのセックスを義理だと言ってはばからない世の中の夫であり、女に対する幻想にまみれた無神経な若い男であり、中村うさぎのデリヘル嬢体験に対して面白可笑しく騒ぎ立て揶揄することで、女への偏見を醜く露呈していたメディアの男である。
中村はあくまでフェミニストとは名乗らない女だが、女を人間扱いしない多くの男への視線は厳しい。
男にとってはどうってことない言葉や行動がいかに女を傷つけているか(最近は逆のケースも増えているようだが)について、ここまでリアルな迫力で書かれた文章を私は初めて読んだ。


信頼できる男があまりにも少ないことを、中村は嘆く。もう女とゲイしかいないのね(彼女の今の夫はゲイ)と。
だったらそういう、「理解と共感の絆で結ばれた」自分の「分身」を生涯のパートナーとして、共に暮らしていくのが一番いい。
男とは家の外で恋愛すればいい。看取ってもらいたいのは恋人や夫(男)ではなく、自分の「分身」としての同性(またはゲイ)。
このことは『幸福論』の中でも主張されている。
小倉千加子は「最近の女は、夫はいらないが子どもは欲しいという傾向で、これが女の本音だ」と言い、中村は「男に求めても仕方ないと悟った女の子達は、パートナーとしての同性を探している」と言う。
子どもも同性パートナーも自分の「分身」だ。これからは「本当の私探し」ではなく「分身探し」というのが、中村の主張。その関係は緊密で穏やかな友愛、家族愛であり、恋愛のように裏切られることも傷つけられることもない。はっきり言って、もう男なんかいらんのよ。


となると、男は単なるオス、セックス(子ども、または快楽)を提供してくれるちんちんのついた生き物でしかないことになる。
中村の恋愛観は、まったく恋愛感情なしのセックスもセックスなしの恋愛もありえないというもので、おそらく恋愛は彼女にとって必要不可欠なのだろうが、それは「女」としての自己確認の手段に過ぎないのだ。
男に求めるのは、できれば美しい外見と、ドキドキする気分にさせてくれてその延長線上でセックスの楽しみを共有する、それだけ。飽きたら相手を替えればいいし。中村の、男への諦観は深い。


たしかに心から信頼できる男性となると、数が少ないと思う。男とより、女同士の方が深く理解しあえることが多い気もする。男といると覚える恐怖や緊張は、女とでは生まれない。
というか、私には男の人のことがよくわからない。結婚してもう20年にもなるが、夫のことも最終的にはよくわからない。
私にとって男とは、自分と異なるルールで動いているものだから、尊敬することはあっても心底理解し合えたという実感を持ったことはない。
そして身も蓋もないことを書けば、「セックスするにやぶさかでない」と思う相手に、人間性は必ずしも求められない。尊敬の気持ちなどなくてもOK。互いに欲情できればそれで充分。仮に偽造、粉飾があっても、その時だけうまく騙してくれればいい。
男だけでなく女もそう思っている。中村が言っているのは結局そういうことである。


‥‥‥でも、本当にそれで満足できるんですか? 
異性に対して、そこまできれいに割り切れるものなのか。また同性に対して、そんなに甘えられるものなのか。『NANA』みたいに、自分の「分身」なんかいるのだろうか。それはもう一人の自分の投影に過ぎないのではないか。
男であれ女であれ、どんな親しい人とも100%はわかり合えないはずである。そして、わからないし同一化もできない相手だからこそ、信頼関係を作りたいと欲するのではないか。ばらばらの「私」を統合したいと欲するように。
それが、99%までは中村うさぎに共感する私の、1%の疑問だ。


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