老いるということ

15歳になる飼い犬がいる。飼い主の無知と怠慢で12歳の時フィラリアに罹ったが奇跡的に助かり、薬を飲みながら生き長らえてきた。雑種の中型犬。それがこの数年で、すっかり老犬臭くなった。人間にしたら80歳を超えているのだから当然だ。おまけに心臓が弱い。
歳のせいでボケてきたのか、「お座り」や「ハウス」も忘れてしまった。というか、ふと見ると大抵、既に「お座り」や「ハウス」の状態になっている。散歩もあまり出たがらない。犬のくせに他の犬を見ると尻込みする質で、後から家に来た飼い猫とも仲良くできない損な性分だ。猫の方は庭に出た時、犬の目の前に腹を見せて転がったり、寝ている犬の鼻に自分の鼻をくっつけて挨拶するくらいフレンドリーだが、犬はほとんど無反応。
以前は人が近づくと激しく尻尾を振りながらじゃれついてきたのに、今は小屋で寝ていることが多い。「ごはんだよ」と声を掛けると、物憂そうに目を上げてモソモソと寝床から這い出てくる。昔から食い気だけは旺盛で、フィラリアの時もそのお陰で命拾いしたのである。
下半身にあまり力が入らないのか、時々ペタンと尻餅をついた妙な姿勢でいる。そして、体重の掛かる前脚をガバッと広げてようやく踏ん張り、口を餌の容れ物のところに持っていく。そのまま餌に顔を突っ伏してしまうのではないかという体勢。
鳴き声も変わってきた。前は「ワン」とか「ウォーン」とか犬らしく吠えたのに、今では「ウエェェェ」。「ねえ、コロ。そんな鳴き方やめようよ。ワンって言ってごらん」「ウエェェェ」。山羊か。
おやつに時々あげるペットフードの「やわらか鶏ささみ 沙」が大好きで、私がそれを持っていると「フガフガ」と鼻息も荒く、よろめく足取りで接近してきて、一つずつあげようとしている私の手から全部一度に奪い取ろうとする。


「そんな感じなんよ、うちの犬」と母に電話で話していたら、「まるで、お父さんそっくり‥‥」としみじみ言われた。
今年87歳になる父は、4年前に心臓の手術をし、最近も発作を起して病院に運ばれ、薬を飲みながら生き長らえている。この数年でボケが入ってきて母を困らせているということは、何度かここにも書いた。
母としては父にデイケアサービスに行ってもらいたいのだが、老人のくせに同じ老人の中に交わることを嫌う父はそれには頑として抵抗している。母に言わせれば「プライドが高過ぎる」。友人との付き合いもなく、趣味もなくなり、母が父の興味のありそうな話題を振っても、テレビを見ながら話しかけても、ほとんど無反応。
以前は母のお遣いで自転車でスーパーに買い物に行ったりしていたが、発作が起きてからは家で寝ていることが多いらしい。でも「ごはんよ」と声を掛けると、イソイソと布団から出てくる。ボケ始めてから、関心の的は食べることだけになったようだ。
食卓につくと手を合わせて大きな声で「いただきます!」と言い、皿に顔を伏せるようにして猛烈な勢いで食べ始める。「よく噛んでゆっくり食べなさい。喉に詰まるから」と母が言っても聞く耳持たず。一度も顔を上げず恐ろしい早さで食べ終わると、また大きな声で「ごちそうさま!」と言い、目の前でまだ母が食事しているのをジーッと見ているのである。
父はプリンが大好きで毎日一個、グリコのプッチンプリンをおやつに食べる。しかし最近、放っておくと幾つでも食べようとするので目が離せないという。「こないだなんかね、お腹壊したからプリンは明日にしようねって言ったら、プリンちょうだいプリンちょうだいって私の後をついて離れなかったのよ」と母は言った。


当たり前のことだが、人も犬も同じように老いる。
しかしこうして書いてみると、老父とうちの老犬が似過ぎていて、なんかせつなくなってくる。


先日、夫と一緒に実家を訪ねた。私たちが来ることを知って意識していたのか、父はわりとしゃんとした顔をしていた。布団の上に座って私に「元気かね?」、夫に「仕事は忙しいですか」と言った。小一時間ほどいる間に父が喋ったのはそれだけだった。
途中の高級スーパーで買ってきたプリンを母に渡した。「プッチンプリン置いてなかったから、一番高いやつ買ってきたわ」。母がそれを見せて「ほらお父さん、サキコがおいしそうなプリン買ってきてくれたわよ。今御飯食べたばかりだから、もっと後にしましょか?」と言うと、父は目の前のおやつを取り上げられた子どものような顔になった。「今、食べるのね。じゃ、はい」。
夫は「そんな、見せといて『後にしましょか?』って。見たら食べたいに決まってるわなぁ」と笑った。父は何も聞こえないかのように、黙々とプリンを口に運んでいた。
母にかなりの負担が掛かっているのに、父は家族以外の人の世話になることを拒んでいる。そうなれば本格的に介護老人の仲間入りをしたことを自覚せねばならず、さらに「死」に着々と近づいているという思いが自分の中で強まるので、そこから逃げたいのだ。母の分析に私も同意する。
しかしそういう父に振り回されていたら母の方が参ってしまうから、我がままを言う父に構わず、どんどん介護サービスを申し込むように言った。「そうね。そうするわ」と母は答えた。


帰宅して、抜け毛が激しい犬のブラッシングをした。弱々しく尻尾を振る犬。昔はブラッシングが嫌いだったが、最近はそうでもなくなったようだ。
この犬も、あとどのくらい生きられるのだろう。父と、どちらが先に死ぬのだろう‥‥。などと思いながら、犬の顔を覗き込んだ。
犬よ。おまえだって老いたことを自覚して憂鬱になったりすることがあるんじゃないか? 
老犬の、子犬と頃と変わらない無邪気な焦げ茶色の目の中には、何も読み取れなかった。



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