とてもささやかながら若松監督の思い出を

若松孝二監督が亡くなった。告別式の事務を取り仕切る東京の友人から夫のところに、通夜と葬儀の連絡が届いた。夫は仕事があって行けないので、別の友人と連名で花輪を出すことにした。
夫は映画業界の人間ではないが、若松氏とは二十数年来の知古だった。監督は名古屋と縁が深く、名古屋駅西にあるシネマスコーレというインディーズ系のミニシアターを1983年に立ち上げている。その後に夫は知人を介して氏と知り合い、90年前後に、弟分のような存在だった年下の友人の映画青年と監督のお嬢さんが結婚して、その披露宴の司会をさせてもらってからは以前より近しくなって、仕事で上京すると時々新宿で奢って頂いたりしていたようだ。
夫の東京方面の知り合いは、たぶんほとんどが若松氏とどこかで繋がっている。


披露宴には私も出席し、その後の飲み会の席で若松監督一家とご一緒した。その時結婚されたのは長女だが、氏には娘さんが3人いて、揃って御母堂似の美人姉妹だった。美人姉妹に囲まれ目の前には若松監督という席で、緊張のあまり「お三方ともお母様にそっくりで、監督にはあまり似ていませんね」と言いそうになって止めた。
私がその時観ていた若松作品は、『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』(1971)と『水のないプール』(1982)だけである。シネマスコーレで『胎児が密猟する時』(1966)がかかった時は仕事の都合で観に行けず、その頃行っていた予備校の受験生二人に「こういうのはなかなか機会がないから観ときなさい」と勧めた。彼らにはいろんな意味でショッキングな映画体験だったらしい。10年以上経っても「あれで僕の芸術観ひっくり返されましたよ」と言われた。
それはともかく、映画の印象からもそれ以外の情報からもコワモテでマッチョなイメージのあった監督だが、あの宴会の場では娘を嫁にやった少し照れ屋のお父さんで、あまり喋らず盛んに杯を空けていらしたことを覚えている。


それからまただいぶ経って、日本赤軍重信房子が逮捕されたすぐ後だから、2000年か2001年頃のこと。知人が開催した、重信房子の娘の重信メイがパネラーの一人で出席するあるシンポジウムに、友人と出かけた。
観客には元赤軍派に近い新左翼系の人々も来ていたらしく、シンポジウムの途中でなぜか観客席の間を怒号が激しく飛び交い始め、壇上のトークが中断してちょっとただならぬ雰囲気になった。緊張して固まっている他のお客さんたち。手を拱く司会者。
その時、威風堂々とした紳士が観客席でマイクを持って立ち上がり、低くて凄みのあるよく通る声で一言二言喋り、混乱した会場を瞬く間に静まらせ事態を収拾した。若松監督だった(何て仰ったのかは残念ながら思い出せない)。「監督、すげぇ迫力‥‥」。私と友人は異口同音に呟いた。


その友人に好きな女性ができた。相手は若松氏の二番目のお嬢さん。当時、次女の方は名古屋で仕事をしておられて、私も何かの折に偶然お会いしたことはあった。
女性を花に喩えるのはジェンダー論的にアレかもしれないが、大輪の白いバラのような気品ある美貌の持ち主で、友人が夢中になったのも無理はないと思われた。知り合いのライブに二人を誘ったり映画のチケットをあげたりして、奥手な友人を応援したが、残念ながら彼女にはフィアンセがいたようで、その恋は実らなかった。
若松氏御本人には直接関係のない話だが、お酒好きでなかなか議論好きの彼女は、父親譲りの気骨と情熱を感じさせる男前な人だった。


93年の『シンガポール・スリング』が今いちピンとこず、それ以降、若松作品からはずっと距離を置いていた。『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2007)も劇場では観ていない。女性の描き方についてネット上でフェミニストに批判されているのを読んで、「まあそりゃ監督マッチョな人だしなぁ」と思った。
そして、つい二週間ほど前になんとなくDVDを借りてきて観てみた。女性の描き方についての批判はわからないでもなかったが、想像していたよりはずっと面白かった。連合赤軍事件を当事者たちに焦点を当てて撮った映画では、高橋伴明監督の『光の雨』(2001)より私はこちらを推す。
もっと早く観れば良かったなぁ、他の作品も観ようかなと思っていたところに、事故のニュースと思いがけない訃報であった。


映画監督が亡くなったら映画の感想、レビューなどを書いて追悼するのが一番なのだろうけど、私はあまり良い観客ではなかったので、若松監督一家のささやかな思い出話を書いた。ご冥福をお祈りします。