花を踏む

開催期間も残り少なくなったあいちトリエンナーレ。8月に一度新聞の取材で回っているが、今日は友人たちと。
愛知県美術館10Fに展示の大巻伸嗣のインスタレーション。カラフルな顔料(鉱物の粉末)を用い、ステンシルの方法で作られた万華鏡のような花や鳥などの文様で、フロアが埋め尽くされている。スペクタクルな風景。
ちょうど今日から、作品の上に乗っていいことになっていて、観客が思い思いに歩き回っているせいで、模様の輪郭がぼけたり、白い地に粉末の足跡がついたりしていた。



しかし、粉末がただ乗っているとはいえ、分厚いフェルトのような質感の下地との密着性があるせいか、普通に歩き回っても、模様がすぐに崩れてしまうことはない。手で擦った後があったが、粉末は半分くらいフェルトに染み込んでいるような感じだった。
これがもしツルツルの床だったら、もっと粉末が飛散し、色の混じり合いやかたちの壊れ具合も激しかっただろう。以前の展示ではそういう状態のもあったと思う。たぶん今回は、全体が滲みながらぼやけていくような感じになるのだろう。



「作品を踏む」、それも「花を踏む」という行為は、観客の中に心理的抵抗や葛藤を生み出す。それを体験させることがこの一連の作品のポイントのようだが、破壊している感はそんなになかった。むしろ美しい花模様のカーペットの上を歩いているようだった。私たちが行ったのは2時頃で、もう何十人かの人々が歩き回った後。それで、抵抗が少なかったのだと思う。
誰も汚していないものを汚し、誰も壊していないものを壊すのは、初めの一人。何でも、最初の一歩が一番ためらいが強く、一番恐ろしく、一番興奮する。
観客参加型の作品における、最初の一歩の特権性とは何だろうか?と、少し滲んだ花を踏みながら思った。



中央のなんかへっぴり腰で歩いている人は私です。。

連載更新のお知らせ二つ

後期の始まり第一講目から、授業の時間を間違えるという大ポカをして落ち込んでいる大野です。初対面の100人の学生さんに平身低頭‥‥。おまいさん何十年この仕事してんだよ。
webの二つの連載が更新されていますので、お知らせします。

大人の女の「友だち地獄」

年上女が若い女に“友情”を強いるとき––––『あるスキャンダルの覚え書き』、女友達への欲望|サイゾーウーマン


しみじみ底冷えのする物語。対照的に描かれてはいますが、ジュディ・デンチが演じるベテラン教師も、ケイト・ブランシェットが演じる新任教師も、基本的に寂しい、他人の若さで自分の寂しさを紛らわせたい女だと思います。
でもまあ厄介なのはジュディ・デンチの役柄のほうでしょう。こういう、自分がいかに相手にとって重要な存在かということを明に暗に押し付けてくるタイプ、年輩者では珍しくないかもしれません。



かなり年輩の女性で、少し丁寧にお話を聞いていると、どんどん話が熱を帯び長くなり、しまいにまるで友人のような態度で接してくる人がたまにいます。
言っていることは特別面白いわけでもなく、特別含蓄があるわけでもない。たぶん何度も同じ話をあちこちで繰返している。だから彼女の周囲の人は無視するか、いい加減にしか相手にしないのでしょう。そこで他人を捕まえて喋るのです。
年輩者だから、こっちは一応相手を立てています。でも自身の話が、相手にとって聞くに値する内容だ、相手が面白いと思うはずだと微塵も疑っていない様子に、内心うんざり。こうならないよう、自分も気をつけなくてはと思います。

「リアルに描けたらな」という煩悩

絵を描く人々 第6回 演出と詐術の世界にようこそ - WEBスナイパー


具象的な絵を描く人々の多くが直面するだろう、最大の問題について書きました。昔のブログ記事から再構成し加筆しています。


ここに書いた「演出と詐術」をマスターすると結構楽しいし、超リアルで細密な絵、あたかもそこに現実の空間があるかのような絵に素直に感心する人も多いので、嬉しくなってどんどん描いたりする。
もちろん再現に関しては写真が肩代わりしているし、お絵描きアプリを使って写真にタッチやぼかしを加え、描いた感じにすることもできます。それでも、自分の手で見えた通りに描きたい、リアルに描けたらなという人の欲望がなくなることがないのは、面白い現象だなと思います。

虹色ポンチョのワルツ、文鳥のお宅訪問––––あいちトリエンナーレ2016

昨日、開幕して一週間のあいちトリエンナーレに某新聞の取材で行ってきた。幾つかの作品の見どころをガイドするという記事。
本当は一度全部観ておいてから行く方がよかったのだが、お盆の間はプライベートな用事で動きが取れなかったので、公式ガイドブックで大体の当たりをつけ、当日は朝から名古屋、岡崎、豊橋の各会場を強行軍で回り、ぶっつけで作品について語る(私が喋ったのを記者さんが書き取って記事にまとめる)という、無謀な試み。
今月末に東海版に掲載される特集紙面では、作品写真6枚+絞った内容のガイド記事になる予定。デジタル版に出たらお知らせします。(追記:デジタル版記事→http://digital.asahi.com/articles/ASJ8L66JXJ8LOIPE01R.html?rm=871 後半です。非常に絞った内容になってます)


アートニュースサイトの開幕レポートや、id:zaikabouさんのレポートが、大きな写真入りで上がっている。
あいちトリエンナーレ2016開幕レポート!【名古屋編】- bitecho
あいちトリエンナーレ2016開幕レポート!【岡崎・豊橋編】 - bitecho
一日で全会場を巡る、あいちトリエンナーレ2016 - 日毎に敵と懶惰に戦う


本記事では、個人的に特に強く印象に残った外国人作家の2作品についてのみメモ。写真はやや甘いです。ご容赦を。




《機械騎兵隊のワルツ - The Machine Equestrians #12》2012 ウダム・チャン・グエン


カラフルなポンチョを纏ったオートバイの隊列が、整然と軽やかにホーチミン市街を走る。そこに被さるショスタコーヴィチのワルツ。
それぞれのポンチョは紐でゆるく繋がれていて、途中で隊列が二手に別れる時に切れる。三会場愛知芸術文化センターB2F、名鉄東岡崎駅ビル2F、穂の国とよはし芸術劇場PLAT 2F)で同じ映像が流されている。


ベトナム最大の都市ホーチミン市。デモの隊列にも軍隊のパレードにも見える「機械騎兵隊」の遊戯的な動き。色とりどりのポンチョの可愛らしさ。レインボーカラーから想起される性あるいは価値観の多様性。市場自由化された社会主義国ベトナム一党独裁民主化の桎梏。帝政ロシアに生まれソ連で活躍したショスタコーヴィチ。ワルツに漂う憂愁。遠くで反響するコミュニズムの夢の終わり‥‥。
ユーモアのある洗練された手法で、さまざまな連想を重層的に誘いつつ、不思議と感情に深く訴えかける。何度でも見たくなる。DVDがあったら欲しい。


「ジャズ・ワルツ第二番」。ちょっと泣きの入ったメロディが有名。


N響のサイトの解説より抜粋。

 1940年代後半スターリン体制の末期、ソ連は「反ユダヤ主義」の大キャンペーンを行っていました。その中でショスタコーヴィチは、公には反ユダヤの態度をとりながら、ユダヤ的素材をしのばせた作品を多く書くようになります。公的な顔と私的な顔を使い分けなければ生きられなかったショスタコーヴィチにとって、陽気と哀れが同居するユダヤ音楽は己の境遇に深く重なるものだったのでしょう。

第25回 ショスタコーヴィチ《ジャズ・ワルツ第2番》- ワン・フレーズ・クラシック|NHK交響楽団


ウダム・チャン・グエンがこの曲を選んだ理由が、なんとなく想像された。




豊橋の駅近く、「水上ビル」という元水路だったところに建っている古い商店ビル。細長く何棟も連なり、営業中の商店はあるものの、どことなく寂れた感が漂っている。
そんな空き家の一つが、全フロア丸ごと鳥のお住まいになっていると聞いて、お宅訪問。金網に囲まれたゲートを通り、階段を上がっていくと‥‥‥



鳥さんたちはどこ?

いた♡

いたいた♪(小鳥好き)。


ブラジル出身のラウラ・リマの作品《Fuga》。すっかり鳥のための空間を作り上げた上で、100羽の文鳥を放してある。



モビールっぽい。


芸術的な止まり木で団らんのひととき。


ちょっとしたところにも可愛らしい止まり木が。


「鳥の家」なので、あちこちに細密画職人の手による、鳥の描かれた鳥サイズの小さな屏風絵や絵画が飾ってある。しかしせっかくのインテリアに見向きもしない文鳥


トイレにも鳥のための絵。


階段の上。P.ブリューゲルの代表作『雪中の狩人』の超ミニサイズ(鳥用)。


右の鳥用張り出し窓には金網が張ってある。


鳥に人気ないのか、なぜか一羽もいない部屋。止まり木の造形がカッコいい。


屋上もそのまま鳥のお住まい。


普段は小さな鳥かごの中にいる文鳥たち、当初は慣れない場所に戸惑って、隅にかたまりがちだったらしいが、今は比較的自由に室内を飛び回り、いい声で囀っている。求愛行動をする鳥、既にツガイになったのか寄り添っている二羽、麦わらを咥えて巣作りの準備の様子などが見られた。
鳥の生活圏に過度に侵入して鳥たちに迷惑がかからないよう、一回の入場人数は制限されている。鳥と人間の関係が反転された空間。「お寛ぎのところ、お邪魔してすみませんね」という気分になる。そもそも人間が、自然にとっては「お邪魔してすみません」な存在かもしれない。
そして当然のことながら、先住民/侵略者の関係も連想させる。


●おまけ
名鉄東岡崎駅の「岡ビル百貨店」という昭和汁したたる素敵なビルも、ほぼ展示会場となっているが、その2階の片隅で営業していた「手作りレストランこも」。これは写真に収めずにはいられない。



オムライス(ミニサラダ付き)を頂きました。普通においしかったです。すごくお腹すいていたので写真は撮り忘れました。

魔女の秘密展

魔女の秘密展 Secret Witches Exhibition
2月19日から3月13日まで原宿ラフォーレミュージアムで開催される模様。


去年の夏、名古屋市博物館で見た。展示に工夫が凝らされており、特に処刑関係のブツは生々しかった。
最後には安野モヨコを始めとして漫画家やイラストレーターが描いた「現代の魔女」も登場。『魔女の宅急便』がなぜ入っていなかったのかはわからない。いろいろ理由があるのだろう‥‥。


その時に新聞のコラム欄用に書いた短いテキストを掲載しておきます(「普通のレビューではなく、展覧会を通して”現代”に言及してほしい」という編集部の依頼に沿ったものなので、展示の記述は少ないですが)。

←使った図版(カタログから)

 先月、インド東部の村で、魔女の疑いをかけられた女性5人が、村人の集団リンチで殺害されるという事件が起きた。災いや不幸を特定の誰かのせいにし、皆で制裁を加えて溜飲を下ろしたいという集団心理は根強い。魔女はその象徴だ。
 この展覧会は、魔女を描いた木版画や油絵、魔女のものとされる道具類、魔女裁判で使用された拷問や死刑執行の器具など、日本初公開を含む貴重な史料約百点を展示し、ヨーロッパで魔女という存在がどのような歴史を辿ってきたのかを解き明かしている。
 魔女裁判が最も盛んだったのは、活版印刷の発明で情報革命が起きた15世紀半ばから18世紀。魔女にまつわる扇情的な情報が広く共有され、誰でも魔女を告発できるようになったためだ。また司法の近代化によって証拠が重視され、自白を得るための拷問が合法化。その結果、300年間で6万人強の人々が、魔女として処刑された。スケープゴートとなったのは、共同体の中で異質な者や貧者たちだった。
 魔女狩りの時代が終わっても、魔女のイメージは人々を捉え続けた。図版は、恐ろしく邪悪な者から、ミステリアスで知恵者でもある現代の魔女のイメージへと移り変わる、ちょうど中間にあるものだ。一見、台所の隅で鍋を掻き混ぜる老女。そこに、鍋から覗く薬草、膝に載せた魔法の本、足下に散らばるタロットカード、動物や人の頭蓋骨が加わって、魔女らしさが醸し出されている。
 さて、21世紀にもなって魔女狩りが行われたと聞くと驚くが、似たようなことはネット上でも起こっている。個人への誹謗・中傷が瞬く間に多くの人に共有され、時に、誰かを血祭りに上げたいというネガティブな心理を煽っている。私たちに今必要なのは、多勢に流されない孤高の賢者としての魔女だろう。

(2015年9月13日、朝日新聞東海版日曜版+C『百聞は一見』欄)


カタログも充実。「日本人から見た魔女概論」「魔女小史」「今こそ魔女を知るべき理由」「魔女と薬草について」などテキストが良い。

『超絶技巧!明治工芸の粋』に肝を潰す

先日、岐阜県立現代陶芸美術館で開催中の『超絶技巧!明治工芸の粋』を観に行った。
明治工芸と聞いてもあまりイメージの浮ばない方は、下のリンク先を。


岐阜県立現代陶芸美術館 展覧会情報01


左上の「パイナップル、バナナ」、中段中の「竹の子、梅」は実寸大の象牙彫刻(牙彫)。この安藤緑山の作品をナマで観たいというのが、今回の主な目的。
初めて行く岐阜県立現代陶芸美術館は、中央線多治見駅からバス15分、徒歩10分。目印が何もなくやや不安になりかけたところで、美術館地階入り口への道があった。滝と川を取り込んだ、風流ながら大胆な作りの建築物。周辺の山には散策路があるようだ。


七宝、金工、漆工、薩摩、刀装具、自在、木彫・牙彫、印籠、刺繍絵画の全163点の展示作品はすべて、京都の清水三年坂美術館所蔵(村田コレクション)のもの。
最初にあるのは、並河靖之の七宝の皿や壷。蝶をモチーフにした驚異的に緻密な仕事に度肝を抜かれる。触覚の0.1ミリもないような細い髭の並びまで、繊細に描いてある。肉眼では見づらいほど細かい作品には、横にルーペが設置されていて、覗き込むと点々のようにしか見えなかった何百羽という蝶が姿を現す。じっと見ていると「あっちの世界」に引き込まれそうになる。


金工の正阿弥勝義の香炉や皿も超絶技巧だった(下の写真はすべて絵はがきを撮ったもの)。



【金工】正阿弥勝義《柘榴に蝉飾器》清水三年坂美術館


自在の作品はテレビで見たことがあったが、実物をまとめて見るのは初めて。蛇、龍、鯉、カブト虫、クワガタ、蜂、蟹、伊勢エビ、手長エビ。一つひとつの精密な造形の完成度にも驚くが、すべてが自在仕掛けというのがすごい。どんなふうに動くか映像の展示もあった。
そして、安藤緑山の牙彫。ここまで来ると言葉を失う。というか「すげー‥‥」「本物そっくり‥‥」という呟きしか出てこない。



「蕪、パセリ」安藤緑山(清水三年坂美術館/photo:KimuraYoichi)



「蜜柑」安藤緑山(清水三年坂美術館/photo:KimuraYoichi)



なんだろう、このリアリズムへの底知れない情熱は。
白さが良しとされていた牙彫で色付けをしたのは、緑山だけだという。緑山は昭和30年まで生きた人だが、あまり詳しいことはわかっていないようだ。


これでもかという技術の粋を尽くした明治の工芸作品群。その多くは輸出用だった。
江戸時代、大名家や財力のある商家は蒔絵師や金工師たちに贅を尽くした洒落た工芸品を作らせていたが、海外流出となったきっかけは明治6年に開催されたウィーン万博。それに参加する際、ドイツ語のKunst(Art)に当たる「美術」という言葉を急遽作り、しかし「美術」がなんたるかの輪郭は日本では曖昧だったため、伝統工芸品を出品。
それが高い評価を得たことで、明治政府は江戸以来の職人たちの失業対策と殖産興業、外貨獲得のため、外国向けの製品を作らせて輸出した。
清水三年坂美術館は、海外に散逸したそれらの中で特に美術的に優れた作品を、電子部品専業メーカーの村田製作所の創業者の息子、村田理如氏が精力的に買い集め、国内向けに作られていた数少ない逸品と合わせてコレクションを作ったもの。


最近、高い技術を誇る日本の伝統工芸に関心が集まっているのと、十数年前からアートのほうで、すごく細かい手業や技術を駆使した作品が眼につくようになった*1のとは、なんとなくリンクしているように感じる。
技術力の高さと、それを駆使した上で発揮されるセンスは、人の心を掴みやすい。今の「アート」と言われるものは、明治の初め頃の工芸も何もかも含まれた「美術」とは違う”西欧の頭脳”ももっているけれども、「技と遊び心」というモノ作りの血は争えないものなのかもしれない。

*1:本物そっくりの植物の木彫で有名な須田悦弘とか、人や異形のものを精巧に彫り出す森淳一とか、大和絵をフォーマットとして超細かく描き込む作風で人気の山口晃とか。今、森美術館で開催中の村上隆の五百羅漢図展もたぶんそう(未見)。

『ソフィ・カル –––– 最後のとき/最初のとき』を見て

ソフィ・カルがまた豊田市美術館で見られると知った時から、ずっと楽しみにしていた。
前回見たのは12年前の2003年。カルが一年に渡って23人の盲目の人たちにインタビューを行った上で制作した、<盲目の人々>という写真とテキストを組み合わせたシリーズ作品だ。
一人ひとりに「自分にとって美しいものは何か」と尋ねた上で、その人の肖像写真、質問に答えて語った言葉、そしてカルが彼/彼女の言葉から類推して写した写真の3点が1セットとなっている。


生まれつき視覚をもたない人々にとってある意味非常に残酷な質問に、盲目の人々が実にさまざまなものを挙げて、しかも具体的に答えているのが印象的だった。一番頭に焼きついているのは最初に展示されていた、
「私が見たもっとも美しいものは、海です。視界の果てまで広がる海です」
という男性の答え。
その人は生まれつきの盲人なのだから海は「見た」ことがないはずだ。「視界」も持っていないのだ。それでもその人の頭の中に「海」というものがあって、「美しい」と認識されている。


彼の言葉の横には、カルが撮影した海の写真が掛けられている。彼女はどんな気持ちでそれを撮ったのだろう。盲目の人の「海」と、目の前の海は全然違うものかもしれない。その違いすら確認しようがない。相手は目が見えないのだから、写真を「見せる」こともできない。
盲目の人々と彼らの語る言葉との関係、言葉と写真との関係、それらは作り手のカルにも観る者にも、確かめようのない曖昧なものだ。
一連の作品は、個々の「美」の認識、概念がいかにバラバラで、「見ること」がいかにあやふやで、コミュニケーションを通して何かを共有することがいかに難しいかを露にしていくものだった。



今回、豊田市美のリニューアルオープンを飾る『ソフィ・カル –––– 最後のとき/最初のとき』(12月6日まで)では、<盲目の人々>のシリーズに加え、その後に制作された<最後に見たもの>、<海を見る>が展示されている(東京では2011年に原美術館で展示)。
<盲目の人々>の最初の発表は1986年。それから24年経って、イスタンブールに長期滞在中に構想されたのが、<最後に見たもの>と<海を見る>。ここに登場するのは、すべてイスタンブールでカルが出会った人々だ。


<最後に見たもの>のシリーズでは、中途で視覚を失った人に「あなたが最後に見たものは何か」を尋ね、<盲目の人々>と同じ手法で作品化している。
失明の原因はもちろん人によって異なる。事故、暴力、病気、医療ミス、そして原因不明。目に見える世界と突然永遠に別れることになったその「最後のとき」が、さまざまな言葉遣いで語られている。
それを追体験するかのように、カルが撮った写真が並ぶが、再現不可能と判断したのか、「最後のとき」について語る当事者の身振りを写したものもある。
「見ること」はどこまでも個人的なことでしかない。その人にしか見えなかった光景、その人にしか感じられなかった視覚の変容を、他の人が知ることはできない。ここでも、コミュニケーションの困難さが浮き彫りとなっていると感じた。


最後の展示室にある<海を見る>は、ヴィデオ・インスタレーションだ。トルコ内陸部の出身でイスタンブールに住みながら海を見たことのない貧しい人々がいると知ったカルが、彼らを海岸に連れていって撮影した映像群。
展示室には波が浜辺に打ち寄せる音が響いている。波打ち際に立ち、広大な海を眺める一人一人の後ろ姿。しばらくしてその人はカメラの方を向く。初めて海を見た人の眼差しが映し出される。
眩しそうな顔つきの人、次第に微笑みを浮かべる人、難しい顔の人、涙を流している人‥‥。その眼の中に浮んでいるのが何であるか探ろうとしているかのように、カメラは彼/彼女の顔を注視し続ける。


「美」について私たちの見解はバラバラだ。「見ること」はどこまでも個人的なことだ。さらに出自や宗教、環境や体験の違いによって、私たちのものを見る眼には異なるフィルターがかかる。それは世界に多様性を生む一方で、さまざまな壁も作り出す。
その壁の前に、この<海を見る>はそっと置かれているかのようだ。


ずっと想像していた何かを初めて見た時。認識や概念が眼の前のものによって覆され、更新された時。視覚の初体験の驚きを私たちは知っている。特に海というものは「視界のはてまで広がる」大きさだけでなく、波の音、潮の香り、足元の砂など五感を刺激することで、多くの人にとって忘れられない新世界の体験となる。
そうした誰もが味わう「最初のとき」を媒介として、遠いところにいる見知らぬ誰かとも、大切なものを共有できるかもしれない。いや、「できるかもしれない」と、「できないかもしれない」のぎりぎりの、波打ち際のところに立っていよう –––– 。
「見ること」をめぐる困難な試みの最後にソフィ・カルが辿り着いたのは、私たちには手に負えないほど複雑になってしまったコミュニケーション環境の中での、初々しく新しい関係性への微かな期待のように思えた。



今回の展覧会はとにかく展示計画が見事で、観客を静かな思索に誘う美しい空間作りに成功していた。とりわけ最後の部屋がすばらしい。ソファに座ってゆっくり鑑賞することもできるし、観るのに疲れたら波の音だけ聴いていてもいいし、ずっとそこにいたい気分になる空間だった。
(余談だが展示室を出てきた時、これまでに覚えたことのない感動で涙がこみ上げてきて驚いた。展覧会に来て泣いたことはない。歳を取ったということだろうか‥‥)


「ソフィ・カル –––– 最後のとき/最初のとき 」豊田市美術館


朝日新聞・東海日曜版+Cという紙面に短いレビューを書いている(掲載は11月15日の予定)。

「盗作さん」と言われた話

(※この記事は五輪エンブレム問題における佐野氏の責任に言及するものではありません)


ohnosakiko デザイン, 社会 佐野氏の人柄とかこれまでの仕事などにあまり関心はないが、今回この件で「クリエイト」ということにたくさんの人が強い期待を抱いていてオリジナリティ神話が生き続けているのを目の当たりにした気分
http://b.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20150902#bookmark-263706487


ohnosakiko デザイン, ネット >インターネットの本質である「共有」というシステムを、自らの個人的な名誉と利益のために利用したというところ/デザイナーはエディター(出自を明らかにしたありものを編集する)に近いという認識が必要かも。
http://b.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20150902#bookmark-264651028


五輪エンブレムの騒ぎについて私が書いたのは上の二つのブコメだけだが、その後、読売新聞に寄稿された美術評論家椹木野衣氏の文章を、twitterの写真で読んで、ああ確かに‥‥と思った。



少し加えると、戦後50年代から70年代はアートや音楽と同様に、デザインでも本当に新しい!と思えるものがどんどん出てきていた時期*1 だから、デザイナーが作家的な意識を持つのも仕方なかったのではないだろうか。
アートはその後、モダンアートの文脈で一旦出るものが出尽くしてから、既成の物やイメージを寸断、借用して新たな文脈に落とし込む盗用芸術(シミュレーショニズム)が登場し、その確信犯としての行為と再編集で生まれる意味がある種「パクリ」の免罪符となってきたけれど、デザイナーはクリエイター(創造者)などと呼び換えられつつ、デザイン界もメディアも個人をスターとして持ち上げるところが残っていたことが、今回の背景にありそう。
ありものを利用しても優れたデザインへのオマージュとわかるものは、「パクリ」とは呼ばれない。あらゆるデザインの膨大なアーカイヴ、それらがネット上で誰でも検索可能であることを考えると、「誰の真似でもなく、一から作り上げることが重要」的意識ではなく、既にある遺産からどのように再編集して新鮮且つ使えるものにするかという”リサイクル術”に重心が置かれていく(もちろんそれはデザインの仕事の一部だが)のだろう。その中では、従来的な作家的要素はどんどん薄まっていくと思う。



ここからきわめて個人的な話。
私はかつて、自分の作ったある作品について、「盗作だ」と周囲に噂されたことがあった。1970年頃、小学5年生の時のことである。
夏休みの自由課題で、工作が出た。「テーマは自由。自分で工夫して自由に作ろう」と言われたがアイデアが決まらず、学校の図書館で何か参考にするものはないかと探し、ある古い工作の本を見つけた。
そこに載っていた、金属のパイプが風でぶつかり合って音を出すという、ちょっと手の込んだ風鈴みたいなのにとても惹かれた。円盤から少しずつ長さの違う細い金属パイプが輪っか状に並んでぶら下がった形態も、何かの楽器のようで美しい。どんな音がするんだろう。これ、作ってみたいなと。
その時、「本を見て真似して作ったものだから、”自分で工夫して自由に作ろう”じゃなくなるな」とは思った。この工作の本を誰かが見たら、「なんだぁ、真似っこじゃん」て言われるかな。それはちょっと厭な気もした。でも、黙ってたらわからないかも。いいや。やっちゃえ。


小学5年生には、少し難易度の高い工作だった。当時は東急ハンズなどないので、金属のパイプをどこで手に入れたらいいかも知らないし、切断も自分でできないのだ。
父に相談し、近くの商店街の鋳物屋さんに行って、図面(工作の本から引き写して描いた)を見せて、同じパーツを作ってもらった。それをかなり苦労して組み立てて、やっと作品ができた。金属パイプが少し厚かったせいで重くなり、ちょっとやそっとの風では鳴りそうになかったので、「台風鈴」と名付けた。
二学期が始まって提出すると、担任の先生はとても面白がってくれた。クラスの男子で工作の得意な生徒が何人かいたが、客観的に見て私の作品はそれらより大人っぽかったと思う。当然のことながら。そして、「優秀作品」として選出された他のクラスの生徒の作品とともに、体育館での展示会に出された。


しかし同じ頃、クラスの男子の一人がたまたま、実にタイミングよく、図書館であの古い工作の本を手に取り、私の作品のネタ(ネタというかそのまんま)を見つけてしまった。すぐさま数人の男子たちが、私の方を見ながらニヤニヤヒソヒソしているのに気付いた。そして、すれ違いざまに何度か「盗作さん」と言われた。
私は黙っていた。「盗作」と言われれば「盗作」そのものだから。「自分で工夫して自由に作」ったものじゃないから。工作の本を見て作ること自体は問題ないが、今回は「自分で工夫して自由に作ろう」だから課題違反となるだろう。
図画工作が得意で、クラスの中では「絵の上手い子」ということになっていた自分。他は別にパッとしないのに、図工と音楽だけはできる子。そういう子が本を見て作品を作っていたというのは、クラスメートたちの恰好のネタだったらしい。表立って糾弾されはしなかったが、「盗作さん」にとってはしばらく針のムシロの日が続いて、学校に行くのが憂鬱になった。


ある時、版画(またもテーマは自由)の課題で「馬」を選び、その馬の目を思い切り大きく、たてがみと尾を思い切りワーッと宙に波打たせたファンタジックな下絵を描いた。ある友だちは「すごい、変わってる」と言い、別の友だちは「このシッポどうにかならないの?」と言った。いや、これはこういうデザインをしてるんじゃん‥‥。
頭の中にあったのは、藤城清治の影絵と宇野亜喜良のイラストだった。自分の宝物で毎日のように眺めていた彼らの本から、当時の私は強い影響を受けていた。周囲に藤城清治宇野亜喜良を知っている人が偶然いなかったから、私の下絵は「個性的」に見えただけだ。


「誰の真似でもなく、一から作り上げることが重要」というテーマは、私の世代の頃から学校教育の中にあったと思う。特に美術教育は「自由と個性」が最大限に賞揚される科目だ。
だが、図画工作に関する限り「自由で個性的」と周囲に思われていたらしい私のやっていたことの大部分は、引用とアレンジだった。そして本に載っているのを自分で考えた作品であるかように提出していた。
「台風鈴」に似たものはあちこちにあるんだと知ったのは、大分後である。

*1:実際には、横尾忠則のポスターなどさまざまな意匠の引用でオリジナリティを出すものもあったが。