日本の純愛史 2 恋愛至上主義と『野菊の墓』 -明治時代

日本人が初めて「恋愛」という言葉に出会ったのは、明治時代である。
その頃恋といえば、元禄あたりからずっと続いていた男の「色道」を指していた。男の「色道」の相手は"素人"つまり堅気のお嬢さんではなく、"玄人"。芸者、女給、踊りの師匠、女優の卵などと「ホレたハレた」をやるのが、明治の紳士の「粋」な遊び方。本気でのめり込むのは無粋であり、素人を口説くなど野暮天のすることだとされていた。
玄人女性と恋のゲームやセックスを楽しんだ後で、いいとこの身持ちの固い女を嫁にもらう。時には、レジャー用だった玄人女と恋仲になり、金を積んで身請けしてやり正妻に迎えることもある。こういう風習は戦後まで一部で生き続けた。


さかのぼると、恋の歌を詠んで贈ったり贈られたりの色恋文化は中世の貴族階級で栄えたが、武士が台頭した近世からはそういうみやびな風習は廃れ、恋にうつつを抜かすより家同士の利害を巡った政略結婚が、上流階級で一般的となった。年頃になったら、しかるべき相手と見合いをさせてツガイにすることが、お家存続のために必須。
この「家」というものは後々、純愛物語でも大きな障害として描かれる。
一方、下々の階級では近場で惚れ合った者同士早くくっついて、次代の再生産と労働力を確保する(早いとこ子供を産み育てて働かせる)のが必須。
結婚というのは、古今東西、ビジネス要素に支配されるようである。


それでも、一定の"ゆるさ"が保たれていた時期はあった。
室町時代、オランダから来日していた宣教師は本国に送った手紙で、「こんなに性の乱れた国では、キリスト教は根付かないだろう」と嘆いている。その頃の町人階級では、妻が夫に三行半(離婚届け)を突きつけることも珍しくなく、男女関係にも自由な空気があったようだ。「見返り美人図」などに見られる女性のラフな着流し風の装いからもそれは窺える。
脱がすのにすごく時間がかかりそうな、昆布巻きの如く帯ぐるぐる巻きのきっちりした着こなしは、国家統制が強まる江戸になってから。昆布巻きで女の貞操をしっかり守らせ、徳川期になると色恋は、遊郭という男のためのレジャーランドに囲い込まれた。
そして市井では、近松浄瑠璃にみられるような遊女と既婚男の悲恋話が持て囃された。これは日本型のお水業界限定の「情熱恋愛」だったと言えるかもしれない。


もちろん一般庶民の間での色恋沙汰は普通にあって、田舎では比較的開放的なセックスライフが享受され、都市部でも密通は夫、妻ともに珍しくなかった。
ただ密通を訴えられれば死罪になる一方で、密通の現場に踏み込んだ夫が妻とその愛人を殺してもお咎めなし。男の密通より女の密通の方が罪が重かった。
少年愛も騎士道の貴婦人崇拝も「男の愛」の形式であったように、「色道」を堂々と楽しめるのはもっぱら男であった。





ところが明治になって突然、「色道を恋愛にリセットしろ!」という声があがった。近代日本で最初に「恋愛至上主義」を唱えた北村透谷である。
自由民権運動から離れた後キリスト教に影響を受けた透谷は、若干二十三歳で『厭世詩家と女性』(明治二十五年・一八九二)を雑誌に発表。「恋愛は人生の秘鑰(ひやく)なり。恋愛ありて後人世あり。」という文句で始まるこの恋愛論は、当時の青年達に大きな衝撃を与えたという。
若者は、「恋愛」をものしなければならぬ。それは、ゲームを排した真剣勝負のラブでなければならぬ。遊郭の女性相手の遊びの色恋は不真面目なり。盲目的かつ精神的な恋愛をするべし。
未婚の男女が親しく談笑するのも見咎められ、親の命令に従わされて、顔も満足に知らない相手との封建的な結婚が広まっていた時代である。透谷のアジテーションがいかに新鮮に響いたかは、想像に難くない。
ビジネスとしての結婚とレジャーとしての色恋のど真ん中に投げ込まれた、「恋愛」という超真面目な豪速球。その心は、「情熱恋愛」つまり純愛である(もちろん「純愛」という言葉自体はまだない)。
こうして明治の後半は、英語の「ラブ」を翻訳した「恋愛」という新しい言葉に刺激され、舶来の精神的な「情熱恋愛」に憧れる都会の若者が増えていった。恋というものが、学業や親孝行や立身出世に勝るとも劣らない、堂々と取り組んでいい若者の課題になったのは、この頃からであろう。


しかし、「色道」とは完全に異なる近代化路線を行くために、キリスト教者の透谷がとった道は、禁欲主義であった。
真剣勝負の精神的な恋は簡単に肉体関係など結んではならず、女は結婚までは処女でいなさいと。「セックス=結婚」である。
キリスト教では、神の前に永遠の愛を誓う儀式を経て、男女は初めて結ばれていいものとされる。だから恋愛ではセックスはなし。この考え方が、「情熱恋愛」のスピリットを受け継いだ、のちの純愛のイメージ形成に与えた影響は計り知れない。





ところで、当時はどんな恋愛ものが流行っていたのだろうか。
明治を代表するメロドラマと言えばまず、尾崎紅葉の『金色夜叉』(明治三十年〜三十五年・一八九七〜一九〇二)である。
大学生の貫一と将来を誓い合った宮は、親の意向に負けて金持ちと結婚することになり、貫一が延々と宮をなじる「熱海海岸の場」は、セリフの長々しさで有名だ。

‥‥一月の十七日、宮さん、善く覺えてお置き。來年の今月今夜は、貫一は何処で此月を見るのだか! 再來年の今月今夜‥‥一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。來年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が‥‥月が‥‥月が‥‥曇ったならば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いて居ると思ってくれ」


クドい。しかも怖い。だが貫一は純愛に生きようと仁義を切ったはずの宮に裏切られたわけである。それを鑑みると、メソメソ言い訳してすがりつく彼女を蹴倒しながら、後八十行余りも恨み節を並べたというクドさも致し方ない気もする。
で、その勢い余って貫一は、真面目な学生から金持ちへの復讐心に燃える冷酷非情な高利貸しに変貌、というヤケクソの選択をする。
当初、新聞小説だったが、あまりに人気が出たため五年半に渡って連載され(続編、続・続編と続く中で貫一は改心し、苦渋の生活を送っていた宮と再会)、未完で終わっている。


もう一つは、やはり新聞小説でヒットした徳富蘆花の『不如帰』(明治三十一年・一八九八)。
武雄と幸せな結婚生活を送っていた浪子は、当時不治の病であった結核に罹ってしまう。二人の愛は変わらないが、武雄の本家から一方的に離縁され、浪子は実家に帰されて息を引きとるという悲惨な終わり方。
「ああつらい!つらい! ーーもう婦人(おんな)なんぞにーー生まれはしませんよ。ーーあああ!」
という浪子の怨念のセリフがすごい。
女と生まれたばっかりに、こんなに惨めな目に遭わされて‥‥この恨み、死んでも忘れはしませんよ。成仏できずに、怨霊となって出てきそうである。
女は、親=家によって運命が決められる者であった。だから恨みを述べるので精一杯で、「行動」なんてとても無理。財産も基本的人権もなかった女を、運命に立ち向かって戦う果敢な純愛者として描くことは、リアリティがないので難しい時代であった。


明治の純愛の前に立ち塞がるのは、「家」という社会である。
任侠者ならば自ら「組」を抜け、死を覚悟で一人敵討ちを果たしに行くのだが、一旦「家」に入った女にそんな荒技は不可能だ。男が助けてくれるのを待つしかないが、その男は若いので金も力もない。敵が強過ぎて戦う前に負けている。





野菊の墓 (集英社文庫)

野菊の墓 (集英社文庫)

そんなふうに初恋を諦めねばならなかった、日本の純愛もので超有名な若い男女と言えば、伊藤左千夫の『野菊の墓』(明治三十九年・一九一六)の政夫と民子である。
姉弟同士のほのかな恋は家の事情で引き裂かれ、民子は他所に嫁がされたあげくに産後の肥立ちが悪く病死し、政夫はお墓の前で号泣。身も蓋もない結末である。
政夫はまだ十五才。親がかりの年齢だ。どこから見ても弱者の少年には、人生の大博打に出るほどの勇気や才覚はない。それどころか、民子が結婚したと一方的に知らされて落ち込んでも、彼女との淡い思い出を胸に学業に身を入れようとするお利口さん。


野菊の墓』は、のちに何度も純愛ものの文芸映画になった。日本の純愛物語というと、必ずあげられる古典中の古典である。
しかしどういう理由で、『野菊の墓』は、純愛小説と言えるのだろうか。
純愛者は、「ロマンチック(純粋)で、ベタマジ(ひたむき)で、思い込んだら命がけ(一身を犠牲にすることをいとわない)」の者である。「社会の欲望」に馴染まない「自分の欲望」を生きようと行動する者である。
では政夫と民子は?

「政夫さん‥‥私野菊の様だってどうしてですか」
「さあ、どうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
「それで政夫さんは野菊が好きだって‥‥」
「僕大好きさ」


‥‥‥たしかにロマンチックだと言えないこともない(「命がけ」は、年齢的にも状況的にも無理だろうからまあやむを得ない)。
しかしなんだか証明問題みたいな会話である。民さんは野菊の様だ。僕は野菊が大好きだ。「よって僕は民さんが大好きだ」は寸止めで言わない。"嬉し恥ずかし"の会話プレイを誘導しているのは、二つ年上の民子。男の子の扱い方心得てます。
とはいえ、親の見てないところで民子を押し倒そうという下心など、純朴少年の政夫には露ほどもなく、二人仲良く野菊を摘んだりしている。こういういかにもウブな恋の情景をもって純愛だと看做す人はいようが、それはどうだろうか。これなら幼稚園児だって純愛できる。


あえて純愛と言える点をあげるとすれば、民子が病の床で漏らした「死ぬのが本望です」というオソロシイ言葉であろう。そして、かつて政夫に貰った手紙と写真を包んだきれを、死んだ後も布団の中で指をほどくのが難儀なほど、固く握りしめていたことだ(たぶん死後硬直が始まっていたのだと思うが)。
無理矢理嫁がされた民子は病の床で絶望しながらまだ政夫を思っており、政夫の手紙(熱烈なラブレターなどではない)と小さな写真だけが心の支えであった。
しかもお坊ちゃんの政夫の方は、勉学に励み立身出世し明るい未来も開けようが、民子の運命は十七歳にして家の都合優先で決まってしまった。恋人同士であれば、会話プレイで同等もしくは優位にすら立てるというのに、この歴然たる差は何。


つまりここに描かれているのは、「自分の欲望」を知りつつ家のために「社会の欲望」だけに生きねばならない人生は、かくも惨めだという明治の女の現実である。
惨めさにまともに直面した民子の死は、「自分の欲望」を封殺されたことへの虚しい抗議である。
それを知って初めて、二人の仲を裂いてしまったと政夫の母親は嘆き(主人公は彼女ではなかったかと思うほど大袈裟な嘆きようで、政夫の影が霞んでいる)、お嫁に行った「民さん」の幸福を願っていた政夫は心底打ちのめされる。


しかし民子の最期はすべて母親が泣き泣き政夫に話したものである。また聞きの話にショックを受けて、今頃ガックリして泣いている政夫君。あの野菊の証明問題の時に、相思相愛ははっきりしていたではないか。泣くんだったら民子がお嫁に行かされた時だろう。『野菊のごとき君なりき』(一九五五/木下恵介監督)では、そこで政夫にちゃんと号泣させている。
民子は従姉だからそもそも結ばれるなど無理だった(母は引き離した私が悪かったと泣いているが)と言うなら、余計にその時だけに賭けてもよかったのである。そこで思い切りダダをこねたり暴れたりグレたりできなかったのが、政夫の限界だ。
物語は政夫視点で彼の心情が細かく述べられているが、純愛に生きようとしたのはどう見ても民子の方である。
そして彼女の純愛者の証は、初恋を家に引き裂かれた女の執念、いや「怨念」の固い握りこぶし一点のみである。



しかし、後に結婚した大人の政夫の立場から、民子は結ばれなかった「永遠の女」として美化されて終わる。
すべては、おじさんになった政夫の「現在」からの思い出話。あの「‥‥‥」の多いまどろっこしい会話や、初恋の女が手の届かないところで死んでしまったことを、遠い目で語っている小説なのだ。
命がけにも「道踏み外し」にも至らなかった、はかなく幼い恋。それは時代背景と年齢上、致し方ない。しかしそのことを、何も行動せず生き残った男が安全な立場からクヨクヨ思い出してる話が、なんで純愛物語と言えるのか。
結局、前半で描かれたあの野菊がどうたらこうたらという"清らか"なニュアンスが、純愛のイメージ作りに貢献したと思われるふしがある。それによって世間一般では、純愛=「性関係なしのウブな若者の恋」となった。特に異議を唱える理由もなく、誰でもそういうふうに了解していたのではないだろうか。
非童貞、非処女は、既にセックスという「穢れ」と「快楽」を知ってしまった「不純」な大人。「不純」なものはしぶとく生き残るが、「純」なものがはかないのは世の常。そしてはかなさを愛でるのは、日本の伝統的な美意識である。
従って、「純粋な愛」を描いた物語の主人公は、「穢れ」も「快楽」も知らぬ、純粋、純真、純情、純朴な童貞、処女がふさわしいことになる(←世間一般の童貞・処女概念)。結ばれなかった彼女は、はかなく死んでこそ美しい思い出に。
野菊の墓』がこうした"美意識"に則って書かれているのは、間違いない。


つまり女は、男が手に入れることはできなかった「純粋さの象徴」として、祭り上げられているのである。
祭り上げるためには、死んでもらわねばならなかったのである。
で、後で思い出に浸りながら語るために男は生き残る。
感動的に語れれば、それは男が未だに純な心を失ってはいないという証拠。
悲劇のヒロインとして同情してもらえれば、読者の女性も安心。
うまくできてるもんですな。





純愛において、死やセックスの有無などはどうでもいいことである。重要なのは、なんかひとつでもスジを通したか、そういう行動をしたかどうかということだ。
そこで、『野菊の墓』より十一年前に書かれた『たけくらべ』(明治二十八年/樋口一葉)の、美登利と信如に注目してみたい。

にごりえ・たけくらべ (新潮文庫)

にごりえ・たけくらべ (新潮文庫)

いずれは遊女になる運命の美登利と、寺の跡取り息子の信如。
転んだ信如に美登利が「紅の絹はんけち」を差し出して介抱したのを、級友たちが冷やかして囃し立てたので、それ以来小心者で潔癖でやや陰気な質の信如は美登利を避けるようになってしまい、美登利は美登利で嫌われているのかと思い込む。
美少女で「負けじ気性」の美登利をなにかと慕って寄ってくるのは、年下の正太郎。その正太郎相手に
「意地惡るの、根性まがりの、ひねつこびれの、吃(ども)りの、齒かけの、嫌やな奴め」
と信如の悪態をつきまくる美登利だが、「四五軒先の瓦斯燈の下を大黒傘肩にして少しうつむいて居るらしくとぼ/\と歩む信如の後かげ」を「何時までも、何時までも、何時までも見送る」ものだから、「美登利さん何うしたの」と怪しむ正太郎に背中を突つかれる。


そして、雨の中下駄の鼻緒を切らして困っている人が‥‥と、友禅ちりめんの切れ端を持って外に飛び出してみると、それは信如だったというのが物語のクライマックスだ。
思わず顔は真っ赤心臓ドキドキになって固まってしまう美登利と、冷や汗タラリで逃げ出したい思いの信如。
せっぱつまった美登利が思いきって門の格子の間から布切れを投げ出すと、
「見ぬやうに見て知らず顏を信如のつくるに、ゑゝ例の通りの心根と遣る瀬なき思ひを眼に集めて、少し涕の恨み顏、何を憎んで其やうに無情そぶりは見せらるゝ、言ひたい事は此方にあるを、餘りな人とこみ上るほど思ひに迫れど、‥‥」
何よ。何でそうつれないのよバカァ!(ということですね↑)とせつない気持ち一杯のまま、母親の呼ぶ声に美登利は引っ込んでしまい、間抜けな信如が悶々としているところへ友人の長吉が通りかかって自分の下駄を貸したので、彼は美登利の投げてくれた布切れを雨の中に置いてきぼりにして帰ってしまう。


そんなこんなで美登利にはいよいよ店に出る日が近づきプチ鬱状態になるのだが、ある朝格子門に水仙の造花が差し入れられており、翌日信如がどこかに出家していったと聞く。「僕、大好きさ」も大袈裟な愁嘆場も遠い目もなく、ストンと終わるラストである。


年頃は同じでも信如と美登利は、政夫と民子のように「野菊」な世界に浸ることすらなかった。
無邪気なお坊ちゃんの政夫と違って、信如はあれこれ自分の家(寺)の心配をし胸を痛めている。民子と比べると、美登利は利発で大胆な(おそらく)ツンデレタイプ。心根はまっすぐで優しいが、無視されて邪険な態度をとってしまうのはプライドの高さゆえだろう。
両者の意地っ張りでねじくれた思いの背景にあるのは、仏門と遊郭というまったく正反対の世界である。相手が気になってしょうがないけれども、彼らはいずれ自分の属する場所で生きねばならない運命だ。
つまりここでの障害は、互いの幼さから来る微妙な食い違いもさることながら、生きている場所の相違である。子どもなんだから仲良くすれば?という大人の気楽な思惑の届かないところで、彼らは彼らなりに複雑な思いを抱えて生きている。
だから水仙の造花は、信如のぎりぎりの最初で最後のアプローチであり、美登利の投げてくれた友禅の切れ端への応答である。そんなことをしてもその先の展開はないと知っている、断念の中での応答。
何ひとつ気の利いたことは言えなかった避モテの信如だが、不器用な行動によってささやかながらスジを通している。


しかし、伝統的に好まれるのは「僕、大好きさ」の方なのか、男は死んだ女を反芻したいものなのか、明治の純愛ものと言えば、何を措いてもまず『野菊の墓』ということになっているのである。


こうして、純愛物語=「セックスなし+女が死ぬ+男の回想」という日本的なパターンが形作られた。
これが、後々の純愛ものにボディブローのように効いてくる。(続く)