『長距離列車の少女』

 長い汽車の旅だった。真一のお祖母さんが死んだという電報が来て、真一の父親は九州の熊本にある郷里へ行くことになった。ちょうど夏休みだったので、真一もついて行くことになり、母親とまだ幼い妹を残して、九州への旅に出たのだった。もちろん、真一はその死んだお祖母さんも知らなかったし、九州がどんなに遠いかということも知らなかった。真一にとっては、汽車に乗って遠くへ行くことが、とにかく嬉しかった。
 真一の乗った汽車は、どんな小さな田舎の駅にも停まった。はじめのうちは、持って来た地図の本を開いて、外の景色を見たり、汽車が聞いたこともない駅に停まったりするのが嬉しかったが、半日すぎると、汽車に乗っていることにだんだん飽きて来て、早く熊本に着かないかなぁ、と思った。
 真一の乗った汽車は鹿児島行の長距離列車だったが、お客の乗り降りがたいへん激しかった。朝のうちは満員だったのに、お昼ごろにはガラガラにすいてしまった。
 その中に、いつ、どこで乗ったかわからなかったが、女の子をつれた、疲れた顔つきの母親がいた。もう、かなり前から乗っていたらしかったが、この二人づれが、真一たちと同じように、ずっと遠く九州まで行くらしいことがわかったのは、それからかなりたってからだった。
 女の子とその母親は、真一たちの席と、中の通路をへだてて、反対側の窓ぎわに腰掛けていた。母親はただぼんやりと外を見つめていることが多かったが、どうかすると、時々涙を流しては、真白なハンカチで拭っていた。女の子はお河童頭をきれいに刈り上げ、白い新調らしい夏服を着て、よそ行きの格好をしていた。
 その子は母親のそばで、ひとりだまって真新しい少女雑誌を読み続けていたが、思いなしか、元気がないように見えた。
 汽車がガラガラにすいた時、真一の父親は持って来た菓子を出してくれると、その一にぎりを紙包みにして、向こう側の席にいる女の子にやるように言った。
 「これあげる」
 真一がそう言って、小さな紙包みの菓子を女の子に差し出すと、女の子は母親の顔色を伺うようにしていたが、母親が真一の父親に会釈して何か言ったので、安心したらしく「ありがと」と一言言って受取った。
 女の子の方でも、自分の真新しい少女雑誌を真一の方にさし出して、「これ、見ン」と言った。真一は女の子の雑誌にはあまり興味はなかったが、朝から乗りつづけて来た汽車の長い旅に飽いていたので、女の子と遊びたいと思った。女の子は真一より一つ二つ小さいように見えた。
 女の子の母親は小さい箱入りのキャラメルを包みから出して、女の子と真一に一つずつくれた。真一はその母親のそばまで行って、それをもらった。その時、女の子の母親は、ひどくやさしいことばつきで真一に尋ねた。
 「坊ちゃんはお父さんとどこまで行くの?」
 「九州の熊本」
 「そうお。それじゃ‥‥」
 女の子の母親はそう言いかけて何か言いづらいようにやめてしまった。
 「おばさんたちはどこまで行く?」
 女の子の母親はすぐ答えなかった。すると女の子が横から口を出した。
 「鹿児島。‥‥‥そこにお祖父さん、お祖母さんがいるね」
 女の子は母親に向って確かめるように言った。よくきくと、その女の子も、九州に行くのは、真一と同じように初めてだということだった。しかし、真一と真一の父親とが熊本に行くのは、真一のお祖母さんの葬式のためだったけれども、女の子と女の子の母親とが鹿児島へ行くのは、どういうためか、はっきりと真一にはわからなかった。女の子は小学校三年生だった。名前は「クニちゃん」だと自分で言った。


 外はいつの間にか雨が降っていた。雨は汽車がすすむにつれて、どんどんひどくなって来た。まもなく汽車は、道の方々に水たまりが見え、家や森や田や畑が、すっかり雨にぬれきってしまったような所を走って行った。
 真一と女の子は、汽車の中のお客が少なくなると、あちこちの席へ行っては、外を眺めていた。真一は窓の外に何か珍しいものを見つけると、女の子に教えてやった。女の子は窓の外を動いて行くように見える電柱の数を、真一をうながして一緒に数えたりしていた。
 真一たちの乗っている汽車は、どうかすると一つの駅で、いつまでも停まっていることがあった。そんな時は、きまって、急行列車が一つ二つ、真一たちの乗っている汽車を追い越して行った。 
 その時も汽車はもうかれこれ二三十分も停まっていた。小さな町の田舎らしい駅だった。ホームの反対側には、もう一すじレールがあるだけで、その向こうはすぐ水田だった。少し小降りになった雨の中で、稲が青々とのびていた。
 女の子が、汽車と水田との間にあるレールの上に半分乗りかかっている一匹のひき蛙を見つけて、真一を呼んだ。ひき蛙は雨に気持よさそうにぬれながら、作り物のように動かずにじっとしていた。時々、丸い小さな目をパチパチとまばたきするのだけが、それが生きていると感じさせるのだった。真一は、大きくて気味わるいところから、このひき蛙がきらいだった。のろくて、間抜けなところは、おもしろい感じさえしたが、雨が降るとどこからか出て来て、道路の上で、よく車に轢れては、腸を出して死んでいるのは気持のよくないことだった。女の子にそんな話をすると、女の子は、このひき蛙も、このレールの上を進んで来る汽車に轢れて、死んでしまうにちがいないから、水田の方へ行かせてやらなくてはいけないということを言った。 
 「ひき蛙、死ぬといかん。死ぬといかん」
 女の子はいくどもそう言って、ひき蛙を心配そうに見ていたが、やがて、ひとりでデッキの方へ、同じことを言いながら走って行った。
 「ひき蛙、死ぬといかん。死ぬといかん」
 真一はすぐ女の子のあとを追ってデッキへ行った。
 「クニちゃん。降りたら上れないから、降りていかんに。危ないに!」
 「ひき蛙、死んでいかん。死んでいかん」
 女の子は、ひき蛙が自分で死のうとしているかのような、またそれを女の子自身、ひきとめようとするかのような言い方をした。
 「死んでいかん。死んでいかん」
 「死なんに。汽車が来たら逃げるでええに」
 「死んでいかん。死んでいかん」
 「降りたら危ないでいかんに――」
 「死んでいかん。死んでいかん」
 女の子は泣き出しそうな声になってきた。真一は女の子が心配しないように、ひき蛙が遠くに行ってしまわないかと思った。しかしひき蛙は依然としてじっとしていた。汽車のデッキから降りてひき蛙を追いやって来ようと思っても、デッキは汽車道からずいぶん高かったので、飛び降りたら、とても上ってこられそうにないと思った。
 それに、デッキから飛び降りた時、汽車が動き出してしまったら、たいへんだと思った。またこのレールの上を汽車が走って来たら、逃げられなくなって、汽車と汽車とにはさまれて死んでしまうだろうと思った。真一がそんな考えにふけっている間じゅう、女の子は呪文をとなえるように泣き声で口の中で言っていた。
 「死んでいかん。死んでいかん‥‥‥‥」
 突然、女の子がデッキから体を前にひるがえした。 
 「あっ、いかん」
 真一が叫んだときには、もう女の子はデッキからレールのわきに飛び降りてころげていた。痛そうに起き上ると、それでもすぐに、枕木の上を、ひき蛙のいる方へ走って行った。ひき蛙はレールの上に乗りかかった体を少しあともどりした。女の子はじっとしているひき蛙を抱き上げると、レールの向こうの草の中に逃がしてやり、すぐ、走ってデッキの下へもどって来た。それはほんの短い時間のことだった。女の子がデッキの下にもどって来た時、真一は女の子をデッキの上に上げるには、どうしたらいいだろうとすぐ思った。女の子はデッキの踏み段にやっと手がとどくだけだった。上から真一が手をのばしてみても、女の子は足をかけることもできなかったし、女の子を真一が引っぱり上げることもできなかった。
 真一は自分ならデッキに上がれないこともないかもしれないと思った。ゆっくり考えても居れなかった。今にも汽車が発車するかもしれない。真一はそう考えると大急ぎでデッキから汽車道へ飛び降りた。うまく飛び降りたけれども降りたとき足がずーんとした。真一は女の子をすぐ抱き上げて、まずデッキに上げようとした。しかし女の子は前より少しデッキにしがみつくことができただけで、全然上れるものではなかった。デッキから降りてみて、真一はこの高さでは自分も上れないと思った。足をかけるものもそばには何もなかった。雨がひどく高い所から落ちてくるような気がした。
 その時ホームの方でベルが鳴り出した。発車のベルに違いなかった。真一の心臓はものすごくどきどきし出した。父親を呼ぼうと思った。しかし声がなぜか大きく出なかった。発車のベルの音にすぐ消されてしまった。真一の声も半分泣き声だった。二三度父親を呼んでいるうちに、真一はふと車と車の間から向こうへ出たら、ホームの方へ出られると思いついた。すぐ女の子の手をとって、体をかがめると車と車の間へ入った。たくさんのごたごたしたゴム管のようなものが下っていた。それを一つ一つくぐろうと思った。その時、うしろの方で何かわめく声がした。
 「こらーッ。誰だ! こらーッ」
 女の子が急に火のつくように泣き出した。すると真一の方も、こらえていた泣き声が一度に出て来た。涙が何も見えなくした。自分の泣き声と女の子の泣き声と発車のベルの音が一つになって聞こえて、そのほかには何も耳に入らなかった。二人は車と車の間に立ったまま泣いていた。駅員や機関士や、真一の父親や外のお客たちが真一と女の子のまわりに集って来たときも、デッキの上に抱き上げられた時も、真一はまるで自分がわからなかった。ただ体がひどくふるえて泣いていることだけでいっぱいだった。
 真一も女の子も、それぞれ自分の席につれて来られても泣きじゃくっていた。真一は父親からどうしてあんな所に女の子と行ったのかきかれても、答えられなかった。女の子も、真一もかなり長い間泣きじゃくっていた。女の子が泣きじゃくりながらひき蛙の話をした時、真一はまた泣き出しはじめた。
 そうして真一も女の子も泣きじゃくっているうちに、二人とも席に座ったまま眠ってしまった。汽車の中は少しお客が多くなって来ていた。


 真一が目をさました時はもう外はうす暗くなっていた。
 雨ももう止んだようだった。家々のきれいな黄色をした電灯の光が、すっ、すっ、と後の方へとんで行くのが見えた。まもなく汽車の中にも電灯がともった。
 真一の父親は、真一が眠っているうちに汽車弁を買って、真一の起きるのを待っていたらしかった。真一が起きると父親はすぐ汽車弁をひろげ始めた。折り箱の汽車弁を食べるのは真一には初めてのことだった。なんだか家の御飯よりおいしい気がした。
 真一が汽車弁を食べている間も、女の子はまだ眠っていた。女の子の母親も眠っているのか、窓にもたれてじっとしていた。泣いているようにも見えた。
 女の子が目をさまして、女の子の母親がフロシキから出したおにぎりを食べたのは、もう汽車の窓がすっかり暗くなってからだった。汽車の中の電灯のまわりには、窓から入って来た小さな夏の虫が何匹も輪を描いて飛んでいた。その中には大きな虫も時々電灯のそばに飛んで来ては落ちて行った。
 真一は女の子にしばらく話をしなかった。たいくつだった。女の子の方を真一が時々見ると、女の子はいつも真一の方を見ていた。しばらくして女の子は自分の真新しい少女雑誌をひろげて持って来た。そこにはゲームができるようになった折り込みがあった。二人は落ちていたビンの栓のちがったのをさがして、さいの代りにジャンケンでゲームを始めた。
 その時、小さな虫が一匹、ゲームの紙の上に短い、小さい音をたてて落ちた。
 「あっ、ウンドウ虫!」
 真一と女の子はほとんど一緒に叫んだ。虫は逃げようとして本のとじ目の中に逃げ込んで行った。
 「あっ、ウンドウ虫。死んでしまう!」
 女の子はあわてて、本のとじ目から虫をつまみ出そうとした。しかし、虫はどんどんととじ目深く入ってしまって、女の子にはつまみ出せなかった。
 「死んでいかん! 死んでいかん!」
 女の子は泣きそうな声でそう言った。真一はすぐ本をひろげたままとり上げると、そのまま本をさかさまにして虫をはらい落としてやった。すると女の子は床の上に落ちたウンドウ虫を拾い上げようとした。
 「踏まれて死んでしまう」
 そう言って床の上をさがしていた。
 「あ! たんといる。ウンドウ虫がいっぱいいる!」
 女の子はウンドウ虫がみんな人間に踏みつぶされて死んでしまうから、席の下に落ちているビンの中に入れてやって、明日の朝、明るくなってから逃がしてやろうと言い出した。真一は落ちている空ビンをひろって、洗面所へ水くみに行った。
 真一と女の子は床の上にしゃがんで、ウンドウ虫を拾い集めた。床の上にはウンドウ虫のほかに大小さまざまの黄金虫もいた。黄金虫も踏みつぶされるといけないというので、パンの空袋をさがして来て、それに集めた。


 黄金虫は、金持ちだ
 金蔵建てた、蔵建てた
 飴屋で水飴、買って来た


 黄金虫は、金持ちだ
 金蔵建てた、蔵建てた
 子供に水飴、なめさせた


 真一と女の子はあちこちの床の上を、歌を歌いながら、虫をさがしてまわった。黄金虫がいると、よそのお客が真一や女の子に教えてくれた。
 ウンドウ虫もビンにいっぱいになった。黄金虫も紙袋の中でブンブンさわぎ、紙袋の中をガサガサ音を立てて歩いていた。真一も疲れてねむくなって来た。父親ももう虫を集めるのは止めて寝るようにと言った。
 「あしたの朝、逃がしたろう」
 真一はそう言って、女の子にウンドウ虫のビンと、黄金虫の紙袋とを渡した。真一はすぐに眠りに落ちた。女の子はビンの中のウンドウ虫がさかんに上ったり下ったりしているのを見ていた。しかし女の子もビンを下におくと、すぐ眠ってしまった。
 汽車は昼よりもずっと早く走っていた。お客もほとんど眠っていた。車の中の電灯もうす暗くなった。機関車の汽笛が、長く鳴って、遠くの山に響いていった。


 真一がふと気づくと、女の子は虫を逃がしてやるらしく、ウンドウ虫のビンと黄金虫の紙袋とを持ってデッキの端に立っていた。
 「クニちゃん。危ないに」
 女の子は返事をしなかった。
 デッキの外は紺色の空がひろがって見え、その向こうに黄色い月が浮んでいた。汽車はどこか高い空中を走っているような気がした。女の子は、デッキの端で外を向いたままだまって立っていたが、やがて何も言わずに、ウンドウ虫の入ったビンを高くあげた。すると、ビンの中から、大きなウンドウ虫が、つぎからつぎへと出て来て紺色の空の中を輪を描いてゆっくり飛び始めた。真一にはウンドウ虫が踊っているように見えた。
 女の子もだまってそれを見ていたが、今度は黄金虫の入った紙袋を高くあげた。すぐにたくさんの黄金虫たちが、一匹ずつ紙袋から次々と飛び出し、ウンドウ虫たちが丸い輪になって飛んでいる外を、また一層大きな輪を描いて飛び始める。女の子はうれしそうに両手をあげる。虫たちが、女の子の手の動きにつれて、上ったり下ったりして飛んでいる。
 女の子は、ふと、前のレールの上を、一匹の黄金虫がせっせと歩いているのを見た。
 「あっ! あの黄金虫、汽車にひかれてしまう。死んでいかん。死んでいかん」
 その時、女の子の体が、するするとデッキから離れた。
 ガッガッガ――
 急行列車がすれ違って、女の子も虫たちも、レールの上の黄金虫も、みんな見えなくなった。しかしそれは一瞬の出来事だった。急行列車が通りすぎると、またもとの静けさに戻った。そこには紺色の海とも空ともつかない空間に、少しオレンジ色がかった黄色い丸い月がふんわりと浮んでいた。
 「クニちゃん! クニちゃん!」
 真一が女の子を呼ぶと、急行列車の通った光ったレールの上に、女の子はふんわりと眠っていた。真一が見ていると女の子は横になって眠ったまま、ふわふわと上って来た。たくさんの黄金虫とウンドウ虫が、眠っている女の子をかつぎ上げて行くのだった。虫たちは何かしら呪文をとなえるように言っていた。
 「死んでいかん。死んでいかん」
 女の子の体は虫たちにかつがれて、眠ったままだんだん上の方へ上って行く。紺色の空の方へ、オレンジがかった月の方へ上っていく。虫たちがまた、たくさん飛んで来てそのまわりを輪になって飛びはじめる。その時真一の体が、ひとりでに、するするとデッキの外へすべり出し始めた。とその時、真一はデッキから下へ真逆さまにすべり落ちてしまった。


 真一は背中のあたりが、ずーんと痛いのを感じた。真一の父親が驚いて目をさまし、真一を抱き起こしても、真一はまだ自分が、眠っていて、座席から落ちたことがわからなかった。真一は体じゅう、びっしょり汗をかいていた。
 「真一。どうもないか」
 真一はただうなずいた。夢でよかったと思った。女の子はどうしているだろうと思った。背中がまだずーんと痛いのをこらえながら女の子の方をちらと見た。
 女の子がいない! それだけではない。女の子の母親もいないではないか。真一は思わず眠気もさめて、座席の上に座りなおした。
 女の子は鹿児島へ行くはずなのだ。まだ降りてしまうはずがない。そう気づいてよく見ると、荷物はそのままあった。真一はまずほっとした。便所に行ったのだろうと思った。しかし、女の子も女の子の母親もなかなか帰って来なかった。
 外はまだ真暗闇だった。窓から涼しい風が流れ込んでいた。お客はみなよく眠っているらしかった。汽車は相変わらず昼間の速さよりも早いスピードで走っていた。それが車のゴトンゴトンという響きの早さで感じとれた。女の子も母親もなかなか帰って来ないので、真一は、二人の座席をもう一度よく見てみた。
 荷物がフロシキ包みにきちんとまとめられていた。その上、不思議なことに、ウンドウ虫の入ったビンと、黄金虫の入った紙袋とは、どこにも見当らなかった。
 真一はさっきの夢を思い出してみた。一度デッキまで行ってみようと思った。その時、昼の間に、女の子の母親が、いくども涙を流していたこともふと思い出した。
 真一は父親が眠っているのを確かめて、そっと座席を離れた。お客はみんな眠っていて、真一をとがめる者は誰もいなかった。
 デッキに出てみると、ドアがあいていて、外は真暗闇だった。車のまわる激しい音、車と車のきしむ音、機関車のピストンのうなり、蒸気の吹き出す音などが、外から吹き込んで来る涼しい夜風にのって、デッキの中に満ちていた。その夜行列車のオーケストラの交響楽の中に、かすかに夏虫の合唱がきこえて来た。
 「クニちゃん!」
 真一の声は、デッキに吹き込む激しい黒い風に、たちまちどこかへ持って行ってしまわれた。
 「クニちゃん!」
 真一は外の動き続ける闇の方に向かって叫んでみる。三度目の声がのどにつかえて出なかった。
 「死んでいかん! 死んでいかん!」
 真一はいつの間にか、女の子の口調で、心の中で叫びはじめていた。ちょうど虫たちがとなえていた呪文のように、真一は心の中でいつまでも繰返し繰返し叫んでいた。
 そうしてどれ程いたのだろう。気がつくと父親が真一をうしろから抱きとめていた。父親は真一を抱きかかえるようにして、だまって元の席に真一をつれて来た。
 女の子はどうしたのだろう。あの泣いていた母親はどこへ行ってしまったのだろう。
 「死んでいかん!」
 「死んでいかん!」
 真一はまた心の中でそう叫びながら、女の子が虫と一緒に空の方へ行った時、母親もついて行ったのだろうと思った。
 夜行列車は、真暗闇の中を、遠くの山々まで汽笛の音を響かせながら、全速力で走り続けていた。



『青い湖』(大野健二、1975年、書肆季節社)より、『長距離列車の少女』(初出は1960年10月、愛知県立旭丘高等学校文芸誌『新緑』第14号)



前回の記事義父の従軍記*1を書いてから、父が昔、少年少女向けの短編小説を書いて自費出版していたのを思い出し、その中で個人的に一番印象に残っている一作を、本人の承諾を得て掲載した。
家庭では頑固な専制君主だった父がこの数年でだんだんと弱ってボケけてきた話は何度か書いたが、そればかりでは少し父が気の毒な気がしたので、罪滅ぼしのつもりもある。なっているかどうかわからないが。最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。


『青い湖』という本には、高校の教員だった父が、顧問をしていた文芸部の生徒の求めに応じて、1950年代後半から60年代後半にかけて書いた短編十一作が収録されている。
そのうち八作で、主人公または主人公に近しい者や可愛がっていた動物が死ぬ(暗示も含め)。戦争を体験した父にとっての最大のテーマは、やはり「死」ということだったようだ。神風特攻隊の青年(自分)や当時の女学生をモデルにしたど真ん中の戦争ものが二つあるが、私にはそれ以外の、おそらく父の幼少から少年時代にかけての環境や記憶を元に構成されている物語の方が面白い。
八作のうち五作では少女が死んでしまい、そのうち三作は、空に上っていく少女の幻影を主人公の少年が見ている。少年たちはいずれも無力である。女の子が空に上っていって、手の届かないものになっていき、自分はそれを呆然と見守るしかない、というイメージが父を強く捉えていたようだ。
戦前の『赤い鳥』系の児童文学の影響は当然あり、何編かに小川未明坪田譲治芥川龍之介有島武郎の影を感じるが、全体的に痛ましい話が多い。


『長距離列車の少女』は、父が30代半ばにさしかかった頃の作品である。古いタイプの文学青年であった父のロマンチシズムと感傷が、わりあいリリカルに昇華されているように思う。今回本当に久しぶりに再読したのだが、なぜかすべての情景がジブリのアニメ絵で再現された。*2
私は子どもの頃に汽車に乗った記憶があるので、昭和30年代の設定でも特におかしくはないが、やはり戦前の、父が子どもだった昭和初期と考えるのが良い気がする。第二次大戦に突入する前の戦争の時代の話だと仮定して、繰返される「死んでいかん」が生きてくる。
「死んでいかん」は、他の物語でもやや言葉遣いを変えて出てくるので、全体を代表するメッセージなのだろうと思う。


最初に読んだのは、本になるずっと前の小学5、6年くらいだった。女の子とお母さんはいったいどうなったのか、非常に気になって父に尋ねると、「さあ、どうなったんだろうね」とはっきり教えてくれなかった。
ブログ掲載の許可を得るために電話して、「あれはやっぱり親子心中だよね。鹿児島まで行くというのも母親の嘘でしょう。父親は戦死か病死したっていう設定なの?」と言うと、「うんまあ、そういうことかな‥‥。細かいことは忘れてしまった」で話は終わりになり、著者インタビューは無理だった。*3
真一の目から見た世界なので、背景はあえて書かなくていいということだったのだろう。私もこの終わり方は余韻を残して良いんじゃないかと思う。
もし今の少年少女が読んだら、どんな感想を持つだろう。「汽車」に乗っての夜行列車の旅もないし、「お河童」頭の女の子もいないから、具体的に想像するのは難しいだろうか。

*1:ブコメに「(webで)読んでみたい」という意見があった。私も義父に「ブログ開いて載せてみたら?」と勧めているが、そこまではどうも面倒のようだ。もし承諾が取れたら、いつかこちらに掲載するかもしれない。

*2:本にする時は、高校一年だった私が前と後ろの見返しと扉に挿絵を描いた。父の希望もあり基本的にオーソドックスな写実表現で。/追記:後で思ったがこの女の子、ちょっとナウシカみたいだ。虫に持ち上げられて上っていくところとか。

*3:ウンドウ虫はゲンゴロウタガメだと思うが聞き忘れた。