ヤンキーとメガネ男子とドラえもん

専門学校の生徒たち

デザイン専門学校の私の担当クラスは、建築インテリア、インテリアCADの合同クラスと、イラスト・マンガクラスである。その一年生に前期だけデッサンを教えている。
イラスト・マンガの学生は全般に大人しく、授業態度も概ね真面目。男女とも見かけ地味な子が多い。建築・CAD合同クラスはその反対である。男子の半数がKAT−TUNの真似ですか?という雰囲気で、女子はギャルっぽい子が目立つ。授業態度はかなりラフ。講師には最初からタメ口。ついでに喫煙率も高い。


観察していてわかったのは、イラスト・マンガは好きなものや、やりたいことがはっきりしていて来た生徒が多いのに対し、建築・CADはクソ真面目な学生が少数いる反面、特別建築やインテリアに興味のない子もかなりいるということだ。
高校出て大学に行く気はなく(あるいはその学力もなく)、まだ働く気もなく、なんとなく専門学校。そこに行けば就職は大丈夫だろうという感じ。お喋りが多いので手こずらされるが、毎年印象に残る学生が多いのは建築・CADクラスである。


建築インテリアのA君は、私が専門学校で八年間見てきた生徒の中でも、ルックスが際立ってヤンキーだった。
ブリーチした長髪、サロン焼きした黒い顔、数カ所にピアス。ルーズパンツは極端に腰履き。タッパは176、7だが猫背気味。眉は薄く、ナイフでスパッと横に切ったような目をしていて、街を歩いていたらあまり目を合わせたくないタイプである。最初に見た時は「うわ‥‥」と思った。
A君は勘はいい方だが、大雑把でデッサンのレベルは今いちだった。最初のうちは遅刻や欠席もちょくちょくあった。私は真面目な講師なので、授業が始まってからの三ヶ月半、A君を少しでもやる気にさせようとかなり努力した。
少しはそれが伝わったのかどうか、初め「たりぃぜ」という顔をしてやっていたのが、一ヶ月半を過ぎる頃から、私が後ろに来ると振り向いて「こんでいいの?」という顔で見るようになった。褒めればニタ〜と歯を見せて笑い、ダメ出しすれば萎れるところは、他の生徒と同じである。
隣の生徒に指導していると「俺もさっきからそう思ってた」と横から口を挟んでくる。
「この授業受けてデッサン好きになった」と周りウケ狙いのお世辞を言う。
「先生優しそうな顔してんのにグサグサくること言うから、俺いつも家に帰って泣いてるよ」
前半は当たっているが、後半は嘘だろう。普通はそんな見え透いたことは言わない。


私は昼休みに、外階段の喫煙所で一服することにしているが、その日はタバコを家に忘れてきた。生徒にもらえばいいやと思って喫煙所に行くと、A君が一人所在なげな顔でタバコをふかしていた。
「一本頂戴」
「メンソールだけどいい?」
「うんいいよ」
「‥‥先生、家どこ?」
「一宮」
「ふうん」
「A君は?」
などとわりとどうでもいい会話をした。
それから彼は、自分のことを話し始めた。高校中退して通信で卒業資格を取ったこと、スロットで小遣いを稼いだことなど。
教室では軽口ばかり叩いているA君が真顔で喋るのがなんか新鮮で、私は「へえー」とか言いながら聞いていた。「俺これでも結構人生の苦労を味わってきたよ」という、どっかのオヤジが場末のスナックでチーママに吐くようなセリフにも、「18歳にしてねぇ」と返した。
タバコも吸い終わりそろそろ行こうと腰を浮かしかけたら、「先生もう一本タバコ吸う?」とA君が言った。生徒に二本目まで勧められたことはない。意外と人に気を遣うタイプなんだね。そういう繊細な心配りをデッサンにも生かせればねぇ。


A君は家が遠く通学が大変なので、この夏から名古屋で一人暮らしを始めると言った。スロット貯金でマンションの礼金、敷金を払い、地元の友達に頼んで引っ越しするそうだ。どうも親には金を出させたくないらしい。
「炊飯器いらない?」と私は訊いた。仕事場で前使っていたのが家に余っている。欲しいと言ったので、授業の最終日に引っ越し先まで車で運んでやることにした。

私は役に立たない

当日はA君の他に、同じく建築インテリアのB君とC君がついてきた。


B君は高卒後数年フリーターをしていたわりと普通の感じのメガネ男子で、会話の反応が早い。といっても、私が指導の合間に漏らした関係ない言葉に、A君と一緒に反応していることが多い。
「今、先生『あちゅい』って言った?」
「言ったよな『あちゅい』ってw」
どっちかというと、授業を受けながら講師を観察しているタイプだ。
「先生今日はちょっと疲れた顔してるね」「先生ってわりと放任主義だよね」「毎年俺らみたいなのが来て大変でしょ」
こういう生徒は早めに掌握しておくと授業運営が楽なので、A君と同様、私の当初の「まず押さえるべき生徒」戦略に入っている。


もう一人のC君は、26歳の韓国人である。最初見た時、全体の雰囲気がドラえもんみたいだと思った。どことなく人を和やかな気分にさせる。でも軍隊で鍛えたせいで、見かけによらず凄い回し蹴りをするらしい。
韓国人学生は時々おり、その例に漏れず彼も熱心に食いついてくるタイプだ。
「センセ!ここもっと濃く描くですか?」「センセ!ワタシがんばったよ。これイイですか?」「センセ!ここムツカシイ。ここよくワカラナイ」
しょっちゅう手を挙げて人を呼ぶ。他の生徒に指導中であろうが何であろうが関係なし。しかもこちらの説明が終わる前に「センセ!」と、また別の質問を始める。C君と私の微妙に噛み合わないやりとりに笑い転げているのが、A君とB君だ。


さて、そういう三人が一緒に車に乗ったので、道中大変な騒ぎになった。
「センセ!急にスピード出さないで。ワタシこわいよ」
「先生、そんな急がなくていいからね」
「先生、左寄って左! あ、真っ直ぐでいい」
「この辺で右車線かな」
「センセ!後ろから来てるよ!」
「こういう時、先生ちょっと反応遅れるね」
「ハイあの白い車が行ってからー。よし!」
「先生、ウィンカー出してから車線変更が早過ぎる」
「先生、赤信号だよ」
うるさいな。落ち着いて運転できないじゃん。授業でうるさく言われたことの仕返しか。
しかも肝心のA君が、学校からの道順をしっかり覚えてないのである。
「○○寿司のデカい看板があるはずなんだって」
「このまま行くともう栄だよ」
「ここワタシの家の近くだ」
「なんか行き過ぎた気がしてきた」
「Uターンした方がいいんじゃね?」
結局、普通に行ったら5、6分で着くところを20分近くもかかってしまった。


ワンルームマンションの部屋の天井に、途中で買った照明器具を取り付けるのがまた大変だった。足場になるものが何もない。A君は昨夜授業の後で引っ越しを強行したせいか、疲労で全然頭が働いてないらしい。
結局一番ガタイのいいC君が背の高いB君を肩車して、やっとセットした。
B君とC君は、「アレあげようか」とか「今度コレ持ってきてやるよ」とA君に親切だ。A君は一番歳下だし、案外性格的に人に助けてもらえるようなところがあるんだろう。
しばらくベランダに出てタバコ吸ったりダラダラだべったりしていたが、みんな昼食がまだだったので近くのファミレスに行った。まあ最後だから奢ってやるか(というかなんとなくそういう流れだ)。
「先生こんなに優しいならもっとデッサン頑張ればよかった」
今頃気づいたの。


授業を通して見ているだけなので、クラスの生徒間の関係や個人的な事情は、私にはよくわからない。でも話を聞いていると、いろいろ大変そうだなという感じがした。スクールカーストのようなものはないみたいだが、学生間の「合う/合わない」というのは当然ある。そこでのちょっとしたズレがストレスの原因になる。特にB君がそうしたことを冷静によく見ているのに、少し驚いた。
身近な環境の中のあれこれには敏感な反面、学校出てからどうしたいという具体的な話はあまり出ない。
「やりたいことある人が羨ましい」とA君が呟いた。これから見つけていけばいいでしょということは言えなかった。「十八や十九で将来決めるのって大変だと思う」と言っただけ。何の慰めにも励ましにもならない言葉だ。
そういうところではあんまり役に立たなくてごめんね、と思いながら彼らと別れた。
それぞれちゃんと支払いしようとする態度を見せるところは、まあ感心だった。なんだかんだ言って気を遣っている。


将来に若干不安を抱えているヤンキーと、なんとかしなきゃなと思い始めたメガネ男子と、マイペースのドラえもん
卒業する頃はどんなふうになっているのだろうか。
十年後は何をしているのだろうか。
そしてその時、私は何をしているのだろうか。

DQN、ビッチはなぜモテるのか

「いま、ここ」の欲望の充足

「殴らぬオタより殴るDQN」「ヤラせぬ喪女よりヤラせるビッチ」
いつものように、話題が過ぎ去った頃に遅れてひっそりのパターンです。あちこちでエントリがかなり上がっていてリンクをはるのも大変なので、そのあたり省略。


「殴らぬオタ〜」の意味としては、Masao_hate氏のこの記事に、
「DVやら浮気やら平気でするような酷い男が、そんなことはしない自分よりもモテているという一部で起こっている現実を見て、一部女性の見る目のなさや恋愛の不条理さを、表現したり嘆いたりする言葉」
という説明がある。「ヤラせぬ喪女〜」はその女性版ということらしい。
そこで「殴る」と「ヤラせる」の位相の違いから、単純に男女逆転できないというような議論もあったようだ。つまり「殴る」ことにDQNは何の呵責もリスクもないだろうが、「ヤラせる」ビッチは当事者としてメンタル的にも身体的にもまったく問題ないのかといったあたりで、男女の性の非対称性の話になる。


しかしそれ以前に、なぜわざわざ「殴らぬ/殴る」、「ヤラせぬ/ヤラせる」という形容詞をつけているのか疑問に思った。「不条理」感がよりはっきりと出るからかもしれないが、「オタよりDQN」、「喪女よりビッチ」だけで意味は通じる。
具体的に言えば、
「オタ」ク男性はそもそも女性に対して積極的な行為に出る"イメージ"はない(殴らぬ)。
DQN」には暴力的な"イメージ"がある(殴る)。
「喪女」は「モテない女」だから性的に奥手でガードの固い"イメージ"(ヤラせぬ)。
「ビッチ」は性的に奔放な女性、日本語だと「ヤリマン」の意である(ヤラせる)。
女を殴るオタもいるとか、モテる喪女もいるとかいう話ではない。それぞれの単語の中に、「殴らぬ/殴る」、「ヤラせぬ/ヤラせる」はイメージとして含まれているということだ(これ既出だったらすいません)。


「オタよりDQN」、「喪女よりビッチ」とは、異性に対して積極的な行動(その中身はどうあれ)に出る者がモテる、というある現実を語っている言葉である。彼らは性的積極性を示すために、外見的にも性的魅力をアピールしていることが多いだろう。
しかしこのわかりやすさが「軽さ」「バカさ」と捉えられるので、長く継続するパートナーや結婚相手を求めている人は、いかにもDQNなチャラ男や見かけ軽そうな女はリスキーと察知して近づかない。
もちろん男女関係が長期継続する保障はどこにもない。ただ、短期よりは長期の方が「良い」といった見方はある。性的関係を人間関係として(も)確立する互いの「努力」と「信頼」への賞賛がバックにあって、初めて長期男女関係は「良い」とされる。
もっと言えば長く平和な婚姻関係(あるいはそれに近い関係)を男女関係の理想とする思考のもとに、浮気やDVをするDQN、気に入れば誰とでも寝るビッチは「努力」や「信頼」を軽ろんじる存在として敬遠される。


しかし彼らはモテる。一部で? どうだろうか。性的魅力を誇示し異性に対して積極的な者が多くの場面でモテやすいというのは、普遍的な事実ではないだろうか。
結婚というものに魅力がなくなってきたり、結婚(そして子育て)など経済的に無理だと思ってしまえば、長期保障付きの安定株を血眼で探すことより、その時その場の欲望に従って生きたくなるのは尚更ではないか。「努力」や「信頼」という時間と忍耐を要するもの、未来への投機を前提とした思考は、そこでは価値が低くなる。
そう思って生きている人は、刹那的に輝やいて見えることがある。そんなものに魅力を感じない者にとっては、底の知れた付け焼き刃のまるで模造ダイヤみたいな安っぽい輝きかもしれないが、たとえそれが”まやかし”のものであっても、同じく長期戦略を持たない(持てない)、「いま、ここ」の欲望の充足を求める若い男女を魅了する。
だからDQNやビッチはモテる。

愛と暴力

「殴るDQN」について考えてみる。
「殴る」は、力の強い者が弱い者を従わせるもっともプリミティヴな行為である。これがプライベートな男女間で起こってDVになり、時として深刻な共依存関係を作り出すとして問題になる。
しかし、仮に女性がDQNに殴られているところを見て間に割って入り、そのDQNをボコボコに殴り返して退散させたら、その男性は女性に感謝されるだけでなく、「勇気のある強い人」として好意をもたれる場合があるかもしれない(報復されるとかいう話は別として)。
つまり「殴る」という暴力行為は効果的に使うこともできる。
男という性のもつ攻撃性、支配欲は、「殴る」という行為から「セックスする」という行為にまで、ある程度通低していると私は考える。殴るのもセックスも、ベクトルが違うだけで同じく暴力性を孕んでいるとも言える。
暴力的なセックスなんか厭な女性でも、好きな男性が性的に積極的であることを好ましく思う人は多い。セックスにおいて「強い」ことを求められるのは圧倒的に男性だ。
男性の女性に対する積極的な行為が「強さ」や「勇気」の象徴として捉えられるとすれば、殴るという暴力が自分に向いてきた時でさえ、それを愛情の裏返しと取るような倒錯も起きる。DVを繰り返す男が暴力の後は打って変わって非常に優しくなるといった現象も、女性の判断を狂わせる。それが甘えに基づいている行為でしかないことは、見えなくなるのである。


ということは、セックスという一種の「暴力」を受け入れておいて、殴られることを拒否するとしたら、それは単に痛いか痛くないか、という物理的な刺激の絶対値だけの問題になってくる。
セックスだって女性の場合、身体的苦痛を快感に転換するメカニズムが働くことがあるわけだから、ますますセックスと殴ることの境目は曖昧になっていく。男性のセックスにおけるサービスと、殴った後の愛情表現は、本質的に似ているかもしれない。
‥‥とか書いていて、だんだん憂鬱な気分になってきた。
まるで「女性は男性の暴力を喜んで受け入れる者である」と言っているみたいではないか。”フェミニスト”にあるまじき考察だ。
しかし「愛と暴力は表裏一体のものである」という意見に違和感を感じる人も、「愛と支配は表裏一体のものである」という意見には多少は賛同してくれるのではないかと思う。


「愛」の名の下に支配されないために女性がしたことは、「男並み」になることである。男性が自由な恋愛を謳歌していたなら、女性もそうしてしかるべきだと。
「ビッチ」はその延長線上にある存在様式として捉えることもできる。誰にも所有されず支配されず、己の欲望だけに忠実に「自由」に生きる女。『愛より速く』で七十年代末にデビューした斎藤綾子を思い出した。あの本は十九歳の私にとって実に衝撃的だった。
「ビッチ」を求める男性がいるのは、性的関係を結ぶことで、かりそめでも女性を支配できたという感覚を容易に味わえるからだと思う。ところが相手は「ビッチ」だからその幻想はすぐに破られる。
つまり「ビッチ」が避けられる理由の一つは、相手が自分のものにならない、支配が完全に及ばないことを知っているからだ。これはDQNを嫌う女性にも、ある程度言えるのではないか。相手を支配はしないまでも、独占しておきたい気持ちは、ごく普通の恋愛感情である。


女性を殴るDQNが許し難い存在なのは当然であり、暴力で相手を支配するのは忌むべきことに決まっている。
しかし一方で、男女の「愛」の中には見えない暴力が抜き難く刻印されているとしたらどうだろう。「愛」とは「支配」の別名なのだとしたら。「愛」という名の「不自由」の中に私は進んで身を投じてきたのだとしたら。
なぜそんな苦痛の中に快楽の源がある気がするのだろう。

ケモノの季節

触ってもいいわよ

涼しくなってきたので、そろそろケモノの季節である。ケモノが街に出て来る。
ケモノは大抵メスで、オスをおびき寄せて食うのである。ケモノと見ると、フラフラと吸い寄せられていくオスもいる。オスのケダモノに捕獲されるのを待っているケモノのメスもいる。ケモノぶりが全然板についてないメスもいる。


何のことだかおわかりでしょうか。秋冬ファッションの話である。
と言えば、大抵の女性はピンと来るであろう。ケモノの毛皮、ファー。毛皮ファッションはこの十数年で完全に定着した。9月から10月にかけて毎年、ファーコートやジャケットやマフラー、ファーのバッグ、ファー使いのベストなどを始めとして、様々なアウターや小物がファッション雑誌を賑わしている。秋冬ファションの花形と言えば、ファーである。
そのケモノ(毛もの)を身にまとった女が、ぼちぼち出没する時期になった。


毛皮と言うと、一千万くらいするセーブルやミンクのコートを思い浮かべる人もいよう。確かに、そういうものを着る人種は存在する。
だが一千万の総ロシアンセーブルのコートを着こなすマダムは、そこらの街にはフラフラ出てこない。というか一千万のロシアンセーブルは街を歩かない。
家の玄関→ベンツ→お店または会社の玄関である。
寒い戸外を歩かないのだったら、そんな贅沢なコートなどいならないのではないか? いや、それは貧乏人の考えだ。
お店または会社が終わった後→ベンツ→会員制のバーもしくはクラブ。
そこでセーブルのコートは真価を発揮する。それを脱がす男の存在を必要とするからである。
セーブルやミンクのコートは防寒用ではない。だいたいシベリアでもないのに、毛皮なんて必要ない。それはエスコートしてきた男に、するりと脱がしてもらうためにある。自分で脱ぐなんてもってのほか。金持ちマダムともなれば、一千万のセーブルを男(夫ではない)に脱がしてもらってナンボ。
コートの下? もちろん肩と背中が丸見えのスリップドレスに決まっている。
‥‥なんでそんなことを貧乏人のおまえが知っているのかって、全部想像なんだが。


話を現実的なところに戻す。
女子向けファッション雑誌に載っているファーアイテムは、だいたいがフェイクファーか、数万円までの安物だ。たまに数十万円クラスのコートなども出ているが、あまり大袈裟なしろものはない。コートも、マダムのような総毛皮はかえってヤボで、部分使いがしゃれているのである。
下半身はミニにブーツで上半身はファーで武装するのが、秋冬のギャルファッション。値段より雰囲気重視である。
キツネの襟巻きは昭和30〜40年代に大流行した。
冬になれば、おばさんも若い女子もキツネの襟巻き。小学生のオシャレな女子も、ウサギの白いチビ襟巻きをしていたものだ。高度経済成長期に突入して、一般人もちょっとしたリッチ感を毛もので味わっていたのである。
成人式で振り袖の女子が必ずするのも、白いフワフワのウサギの襟巻きである。
しかしあれははっきり言ってダサい。着物にあのフワフワは田舎臭い。どうしても寒いならウールのショールを羽織るべきだ(というか成人式なんか行くな)。あれを可愛いと思ってやっている女子は、みんな頭悪そうに見えるので、やめた方がいいと思う。


なぜ女はファーが好きなのだろうか。
感触がいい。軽くて暖かい。リッチな気分に浸れる。高級感がある。いろいろ理由はあろうが、「ほら、触ってみたくなるでしょ」というのは、案外重要なポイントである。それを男に対してアピールしている。
「キレイ」という視覚的効果で引きつけるのは基本だが、そこに触覚的効果を加えれば鬼に金棒。シルクとかモヘアも触ってみたくなる素材であるが、ファーの吸引力はそれに勝る。そこにオスのケダモノはフラフラと寄っていく。アニマルがアニマルをおびき寄せているのである。


NIKITA』の10月号の特集は、「アニマリータ」だ。夏頃の「ガラージョ」(柄女:柄のワンピースの女)にも笑ったが、アニマリータはツボに入った。中でもすごいネーミングが「毛もの姫」。一瞬、「もののけ姫」を思い浮かべた。あれも確か毛ものを身につけていたはずだ。
NIKITA』の企画会議で、
「毛もの姫ってのはどう?」
「ワハハ、もののけ姫みたい、それいこ」
というしょうもない会話が交わされたことは間違いない。
NIKITA』の毛もの特集のノリは、「触ってみたくなるでしょ」などという姑息なおびき寄せではなく、「触ってもいいわよ」。
男は許可を得て触らしてもらうのである。なにしろ「若さ」でなくて「テクニック」で勝負する大人の女であるから、そこらの男には簡単に触らせない。触っていいのは、いつか一千万のミンクを脱がさせてやってもいい男だけ。

襲ってもいいわよ

アニマル柄も、あらゆるファッション誌に登場する。やはりレパード柄、つまり豹柄が一番人気だ。
しかし豹柄は、身につける面積が大きくなればなるほど、コスプレ感が漂う柄である。あまりにも柄の印象が強いので、ジャケットの下にチラ見せするとかスカーフや手袋程度に押さえておかないと下品になる。さすがに全身豹で固めた女はいないだろうが、こういう好みはエスカレートするものなので気をつけたい。
豹柄を上手に着こなしている人は少ない。いかにも雌豹のような顔つきの大人の女が堂々と着てしまうと、トゥーマッチでちょっと嫌みだ。ガタイの良過ぎる人が着ると、怖くなる。
豹柄のロングコートにサングラスで足もとはピンヒールというファッションは、映画などで見ればサマになっているが、実際やるとヤクザの親分の女(古典的イメージの)か叶恭子に見える。日本人が「アニマリータ」を地でいくのは難しい。
エビちゃん系の女子も流行だからって豹関係をやりすぎないようにしないと、ヤンキーになる。ヤンキーの中でもアバズレ度が高いギャルになる可能性が高い。


つまり豹柄は、女を"メス"に見せる柄なのである。豹はシマウマを襲う肉食動物だが、豹柄の女が男を追いかけて押し倒すわけではない。「襲ってもいいわよ」光線をチラつかせているのだ。
などと言うと「そんなつもりで着てない! 単なるおしゃれよ」と怒る人が多そうだが、豹柄=セクシーというお約束は皆知っているのだから、相手の中のケダモノ性をちっとは刺激しなければ(刺激だけね)話にならない。
豹柄には「襲うと引っ掻くわよ」という威嚇も混じっている。豹の女は怖いのよ。簡単には落とせないわよ。
しかしそういう高飛車感を示されると、ますます燃えてしまうケダモノが全然いないとも限らない。だからヤンママでアニマル系で決めているお母さんも、いくら自分が豹柄好きだからって、小学生の娘には着せないでほしい。小学生はまだ"メス"に見えなくていい。


豹柄を思う存分着て許されているのは、大阪のおばちゃん達である。
以前テレビで、大阪のおばちゃんのアニマル柄好きを特集していた。道頓堀の商店街に取材陣が行ってみると、いるわいるわ、あそこにもここにもアニマリータなおばちゃんが。
豹柄だけでなく、セーターにでっかく豹の刺繍がしてあるとか、その目の部分が金糸銀糸スパンコールでデコレーションされているとか、すごいものを着ている人もいる。本人がその服に負けてないところがすごい。タイガースの本拠地だけに、大阪のおばちゃんはネコ科の動物が好きなのか。
「なぜアニマル柄を着るのですか?」
という質問に、
「なんか元気が出るやろ」「今日も頑張ろうて気になるねん」
と答えているおばちゃんが多かった。大阪のおばちゃんは、「元気」を出すために豹柄を着る。
ケダモノの男は豹のおばちゃんからは逃げ出すだろうから、そっち方面の元気ではない。
買い物に行って値切る元気。マケてくれないと引っ掻くよ。
バーゲンで掘り出し物をゲットする元気。私のをぶんどると噛み付くよ。
家の外で日々闘う元気、つまり闘争心を、おばちゃん達は豹や虎からもらっているのである。


人のことばっか言ってないであんたのアニマル歴は?というと、実は私も少々ある。
豹柄のニットは二十代前半によく着ていた。その頃アニマル系を着ているのは、ヤンキーかロック少女か古着系ファッションマニアだけで、私は三番目のつもりだったがどう受け取られていたかはわからない。ちなみにそれで男が寄ってくるということはなかった。
三十代ではおとなしい色めの豹柄のベストを上着の下にたまに着ていたが、それも今はタンスのこやしだ。老けが入ってきてからのアニマル柄は、ミラノのマダムでない限り危険。
毛もの関係では、普通の襟巻きの他にキツネのバッグがある。一見普通のファーのバッグだが、蓋の先が小さい本物のキツネの頭部になっていて、爪の生えた2本の足(関節は外れている)までぶら下がっている剥製のようなしろものである。そのあまりのエグさに目を奪われて、大須の質流れ店で思わず買ってしまった。
これを持っていると、若い女子がよく「わあ可愛いバッグ」と言って寄ってくる。そして近くでよく見てギョッとする。
「やだー、こわーい!」「ザンコク〜」
何を言ってやがる。人間は残酷な生き物なんだ。


10年くらい前に買って4、5回しか着ていないのが、黒い膝丈のコートである。バーゲンでしかもウサギの毛皮なので、わりと安かった。
それを見た時私の頭にひらめいたのは、ゴダールの『男と女のいる舗道』。売春婦を演じたおかっぱ頭のアンナ・カリーナが、毛足の短い黒いコートにタバコを指に挟んで舗道に立っているシーンがあった。昔見たのでよく覚えてないが、確かその映画だったと思う。
瞬間的に、黒いファーコートを羽織ってタバコを吸いながら舗道に立っている自分の姿を思い浮かべた。
自分をアンナ・カリーナになぞらえるとは、どこまで厚顔無恥なのか。それはよくわかっている。わかっているが、その時は、買わざるをえなかったのである。
まあ私が毛皮を着ても、歳をくった売春婦にさえ見えない。もちろんアニマリータな熟女には到底見えない。「触ってもいいわよ」光線も出ないし、脱がしてくれる男もいない。しかし今年は開き直って着るつもりだ。

雑誌『KING』創刊号を読む

「日本男子再生」計画

KING (キング) 2006年 10月号 [雑誌]

KING (キング) 2006年 10月号 [雑誌]

9月に入ってからよく駅の構内などに、黒地に白抜きの文字で「日本男子」とか「元気」とか「本気」とかいう言葉がぎっちりレイアウトされた中に、目を剥いた男の顔のアップが載っている大型ポスターが、連続貼りされていたのを目にした。
なんだこのマッチョテイストなポスターは?と傍に寄って見たら、『KING』という講談社の男性雑誌の創刊広告。一瞬、格闘技ファンの雑誌か、安倍政権誕生に便乗した保守系論壇雑誌かと思った。私は気づかなかったが、テレビCMもしていたらしい。


早速こないだ書店に行ってみると、『KING』創刊号は大々的に平積みされていた。『LEON』でもここまで大々的じゃなかったのでは?と思うくらいの面積の占めようだ。男性雑誌ではこれといったもののない講談社の、並々ならぬ気合いが感じられる。
謳い文句は、「日本男子再生!マガジン」。ノリがもろに体育会系。
「大特集 いまこそ男は、堂々と王(「キング」とふりがな)になれ!」
表紙(ポスターの男)は、王貞治の若い頃の写真だった。なんで今、王貞治?って「キング(王)」だから。
表紙だけでは推定購読対象年代が不明である。ただやけに硬派な男臭さが匂ってくる。ちょっと鬱陶しいほどの男臭さが。


中をパラパラ見てまず感じたのは、レイアウトがガチャガチャした感じで美しくないことだ。
「日本男子」なのに基本が横書きの上、タイトルや文章がやたら傾けてある。挑発的効果を狙っているのだろうが、ここまで多用されていると見づらい。不必要なイラストと細かい写真の配置もちょっとうるさい。
しかし既存の男性雑誌とは明らかに趣が異なるので、読んでみようと思い買った。349ページで600円。


特集は「男の可能性めざまし10」というものである。
若手格闘家の独占インタビューとか、若手俳優、お笑い芸人、スポーツ選手、ミュージシャンなどの「おれの、ブレイクする技術」とか、若手女優、モデル、女子大生、女子アナなどの「日本女子も信じてる!」とか、若い「日本男子」に闇雲にエールを送る記事が続いている。対象は20代から30前後というところ。
「日本男子」と言われると、私はオリンピックを思い出す。昔はどうか知らないが、最近はそういう場面でしか使わない言葉だ。
その「日本男子」の「いいところ」「可能性」を「徹底的に検証」してみるなら、一人くらい外国人のエールが入っていてもいいのではないかと思うが、なかった。あれこれ欲張ってはいるが、特集としてのつっこみが浅い。派手にブチ上げているのだから、『月刊プレイボーイ』の記事くらいの読み応えがほしいものだ。
若手俳優で選ばれているのは、瑛太松田龍平である。どっちかというと寡黙でストイックなイメージの人達だ。
それ以外では、体育会系の質実剛健タイプな男が目立つ。「日本男子」たるもの、ちゃらちゃらしとってはいかん、男は男らしくせよというメッセージ。誰からの? オヤジからの、だろう。


この特集の中で一番"傑作"だったのは、「グレートBの扉を開けろ!」である。
A級でもC級でもなく、「グレートB」は「未完成ゆえのバイタリティ」があると。ニートにはなっていないが、上の方の階層には行けそうもない若者対象だから、「B」なのである。「B」だけど「グレート」。
卑屈なのか傲慢なのか、志が高いのか低いのか、わからんスタンスだ。

オシャレじゃない、派手じゃない、背も高くない、いまどきじゃない‥‥それでいい! 
ブレない志があれば、ブサイクだって、ブキヨウだって、ブレイクできる!

今一つパッとしない若い男達に、アジテーションしている。が、こんな煽りに乗れるのはせいぜい中学生までではないかと思う。30近くなって、「よし!俺はグレートBでブレイクするぜ」なんて真に受けてたら相当ヤバイ。
「グレートBの偉人達」として、失礼なことに「グレートA」な人々が挙げられていた。ブルース・リービル・ゲイツボブ・ディラン‥‥最後のバカボンのパパはわざとハズシを狙ったのだろうが、やはりどことなくオヤジ臭い人選だ。


並べられている「どんなブサイクでもブレイクできる「グレートB級」な男の100カ条」というのが、またものすごく変なしろものだった。
たとえばブルース・リーの項目の中にある条件が、
「いちばん遠くまでオシッコをとばしたヤツがいちばん偉いと思う」
「外せない知恵の輪はパワーで引きちぎる」
「酒がなくても酔える」
「夕飯は動けなくなるまで食う」etc
バカということである。少なくともブルース・リーは、かなり知的な人であると言われていたと思うが。
ビル・ゲイツのページでは、
「英語はぜんぜん上手じゃないのに、外国人ウケがよい」
「寝る時はパンツをはかない」
「決まった時間に目を覚まさない」etc
などがある。これらのどこがビル・ゲイツと関係あるのか。
ボブ・ディランはもっと悲惨で、
「涙が止まらない夜もある」
「「自分探し」より「女探し」」
「さっさとイク」
「新宿の待ち合わせは全部アルタ前」etc
バカボンのパパに至っては‥‥もうやめとこう。


中には「硬派」でマジメ臭い、ある意味カッコをつけた条件もあった。しかし頻繁に入っているハテナ?な条件によって、全体のメッセージが「男は単細胞で脳みそパーでもいい」になっている。もし自虐的笑いをとろうとしたのだったら、どうしようもないセンスである。


というか、なんでこれが「日本男子再生」なのだ。
日本男子壊滅ではないか。

ヤンキーからオヤジへ

気を取り直して、他のページを見た。「キング学園。授業!!」「キング学園。放課後」の「学園」二本柱がある。
「キング学園。授業!!」では、姜尚中の「国際情勢の授業」、清水義範の「書き方の授業」、森達也の「事件の授業」、佐藤まり江の「株の授業」、茂木健一郎の「脳科学の授業」など、総勢14人もの各方面の著名人にコラムを執筆させている。一つ一つがすごく面白いというわけではないが、大手出版社の力で集めてきたという感じはありありと感じられる。
しかしなんで「学園」? 読者は学校大好きだったという設定か、学校で勉強してないのでここで学べという親切か。
最後の方では、裏千家の千玄室という大物まで「先生」として迎え、「日本」を教わるという企画がある。これといい、王監督からの「魂のメッセージ」といい、「学園」の「授業」といい、ともかく目上のオヤジ達の言うことは素直に拝聴するのが、『KING』の基本姿勢である。


「放課後」の方は、本、CD、映画などのレビューと細々したコラムやミニ・インタビューなどが詰まっている。こっちもとにかくいろいろ掻き集めた感じなのは同じだが、いずれもレイアウトが賑々しくしようとして、かえって貧乏臭くなっている。あとは、旅、車、酒、人生相談など男子向けの平凡なラインナップだ。アーミー関係もあった。
全体に、やたらと「男」という字、男関係の単語(男子、男前、男気、王様、キング、押忍、武士道)が散りばめられている。そこから漂ってくるのは、紛れもないヤンキーフレーバー。
日本人にはヤンキーが一番多いと書いていたのはナンシー関だが、20代から30くらいの男でも同様だろう。少なくともオタクや文化系男子より多いはずだ。『KING』は、その最大のボリュームゾーンであるヤンキーの「日本男子」を対象にしているのである。


ヤンキーと言っても別に不良ではない。むしろ根はマジメで不器用で小心者。ヤンキー男子は男のジェンダー規範に極めて忠実だから、「男」関係の言葉に敏感に反応する。政治的には中道かやや右で、権威には弱い。
この層が低賃金で働く意欲をなくしたり、女に自信をなくして結婚できなかったりするといろいろ困るので、是非ともヤル気を出してもらわねばということだ。ますます、安部晋三をなんとなく支持してしまう若いコンサバ低所得層の、元気づけ雑誌に思えてきた。
そのうち石原慎太郎なんかも表紙に登場するのではないか。私の気のせいかもしれないが。


そういう煽りムードがあまりなかったのが、リリー・フランキー瑛太が組んだ居酒屋トークのページと、福田和也のエッセイだ。特に福田和也は、読者層の知的レベルを勝手に断定してかかっているところが可笑しい。
だがリリー・フランキーを含む7人の選者による「KING文章王」の公募は、それなりの知的レベルも求めているということだろう。ネットでオダを上げている若いもんは「ブレイク」目指してどしどし応募せよと。文学賞まで設定するとは欲張り過ぎな気もするが。


さて、真ん中あたりに「REGISTA」という、「ファッション+ビューティ+フィットネス」のページがある。いくら硬派な男と言えども、服と美容と痩身は外せないものらしい。
「外からも内からも飛躍的にカッコよく!」するには、特に腹筋を鍛えよということで、モデルも割れた腹をさりげなく見せていたりする。顔より腹筋だ。ブサイクでも努力すれば大丈夫。
ファッションでは、「流行」には乗らず「旬」を押さえよという微妙な方針を打ち出している。今さら「モテ」とは絶対言いたくないのである。にも関わらず「女性の支持を集めるレジスタはこんな男だ!」。同じことではないか、「支持」も「モテ」も。掲載されているファッションは、他の若者向け雑誌の中の無難なカジュアルとトラッドの真似に見えた。


「キングになれ!」と煽りながら、目標は「グレートB」。
体育会系イメージを押し出しながら、ちまちま並べ立てる細切れ知識。
硬派を気取りながら、結局気にしているのは女目線。
すべてにおいて中途半端である。確固たるポリシーってものが、あるふりして実はない。20代から30代初めの男を、ああでもないこうでもないと鼓舞するスタンスをとりながら、姑息に機嫌をとっているようにも見える。


『KING』のWEBサイトがあるということで、行ってみた。そこに、創刊イベントでの編集長の言葉が紹介されていた。

社会の中で追いやられている感の強い20代〜30代前半の男性に対し、『KING』は若いだけですばらしい!ということを敬意を持ってアピールし、ときには励まし、ときには煽り、ときには説教していきます。

つまり一世代上の中年男達の「若いって羨ましいなあ」という嫉妬と、「近頃の若いもんはなっとらん」という苛立ちと、「昔はもっと気骨のある若者がいた」というノスタルジーブレンドされて、ああいう泥臭い雑誌ができるのである。
だが、成り上がれないのに成り上がれと煽られても、「失敗しても再挑戦のできる社会」とかいう安倍政権のお題目みたいで、あまり現実感がないと思う。「若いだけですばらしい」んじゃなくて、今は「若いだけでいろいろ大変」である。
本当はそれをわかっているから、迷いがちな若い男や自信のない男に、一時的な全能感を与えようとするのだろう。同時に、この世代のヤンキーに多い「俺様」な男も増長させそうだ。


なんだか雑誌全体が、勃起した男根に思えてきた。
老練なオヤジによって無理矢理勃起させられている。編集部の半分は「女子」だというから、「強い男」を求める女もそれに加担している。よってたかって世話を焼かれて、嬉しいのか若者は。
オヤジ雑誌『LEON』であれば、男根の受け入れ先は当然『NIKITA』である。
一方『KING』と同じ講談社の女性雑誌というと、『With』(平均的OL向けファッション誌)、『VoCE』(美容・コスメ雑誌)、『Grazia』 (30代キャリア向け)、『ViVi』(女子大生及びギャル向け)、『FRaU』(優雅な負け犬及びその予備軍向け)。今いちぴったりのものがないように思う。俺様キングで「グレートB」な男は、キャリア女性や年上の女は苦手だろうし、コスメオタクやギャルには足下見られそう。平凡なOLは意外と計算高かったりする。


典型的なオヤジ目線の若者総オヤジ化計画の一環として、男性雑誌売り場に林立する男根。
受け入れ先のないまま屹立している男根。
いつまで持ちこたえられるのか見守りたい。

『ラブちぇん』の笑いと哀しさ

夫婦交換の妙

木曜の深夜に『ラブちぇん』(LOVE CHANGE)という番組をやっている。
二組の夫婦の妻の方が、もう一方の家に二泊三日してそこの夫と暮らすのをドキュメントする番組。夫、妻ともに、他人との疑似夫婦関係を体験することで、日頃の自分の態度や家庭を見直すというような趣旨らしい。


年齢は二十代から三十代で、妻はどっちかという専業の人が多い。でなければ自営業。訪問する妻に外での仕事があっては、なかなか参加できない番組である。
夫の方は、昼間はだいたい仕事に出かけていることが多く、訪問妻が二回くらいは手料理を作ることになっている。また訪問妻は、そこの家の「ルール」に従うことになっている。
そしてやはり、料理の味付けとか「ルール」に関して、両者の間に微妙な、時には激烈なギャップが生じ、たまに険悪な雰囲気に発展したりする。逆に、訪問先の夫ができた人で、終始大変和やかな雰囲気のうちに終了する場合もある。


まあ初対面の女性が相手だから、ちょっとカッコつけてる場合もあるだろうが、VTRはすべて本物妻が後から見ることになっているのだ(というか放映するからどっちにしても見るが)。だからあまりカッコつけてると、「なによ、ちょっと若い子が来たからってデレデレして!」と後で夫婦喧嘩になりかねない。
三十も半ば過ぎの夫の場合はあまり表立った問題が起こらないが、若い人だった時に「このダンナ、どうよ?」というのが時々ある。それも、デレデレではなくて。
一番驚いたのは、訪問妻が夕食の支度中に、借りて来たアダルトビデオを鑑賞し(狭いアパートだから音声がキッチンに筒抜け)、料理の味が薄いと文句を言い、少し箸をつけただけで外に食べに行こうと言った若い男である。どうやら普段からそういう態度なのである。
夫とペンション経営していて料理の腕に自信のある訪問妻は、ブチ切れそうになっていた。


こないだやっていたのは、一方が自営業の夫と元キャバ嬢の妻(2歳くらいの子どもあり)、もう一方が共稼ぎの子無し夫婦。途中から見たので仕事の内容はよくわからない。どちらも妻は二十代半ばといったところ。夫は自営業がやや年上で共稼ぎの方は若い。
頑固な共稼ぎ夫と、気の強い元キャバ妻の「夫婦生活」が面白かった。


ケンカの元は、やはり料理である。
元キャバ妻が作った料理を味見もせず、共稼ぎ夫は黙って冷蔵庫からマヨネーズとケチャップを出して来る。呆れて見守る彼女の前で、ニョロニョロかけちゃう共稼ぎ夫。
「信じらんない!一口食べてからでしょ普通!失礼だよ!!」
と、目をつり上げて怒り狂う元キャバ妻。しかしそれが習慣の夫は頑として譲らない。
彼はかなり几帳面な人らしく、元キャバ妻が脱いだブーツをいちいちキチンと揃えて置き直し、使ったバスタオルをちょっと下に置いただけで「カーペットが湿る」と小言を言い、あぐらをかいて化粧水をつけ出した彼女を非難する。彼女は、別にたいしたことじゃないでしょ?という態度。イライラしてますます小言を言う共稼ぎ夫。あげくの果てに、
「何で働いてないの?子ども保育園に預ければいいじゃない。女の人は外に出て磨かれると思うんだよね」
と説教し出した。さて、勝ち気な元キャバ妻はどう反論したでしょう?


彼女が言ったことは、
「私が働きに出るとすればパートしかない。パートでは月せいぜい八万円。保育園代は月四万円。収入の半分捨てて子どもと離れてるなら、家にいて毎日子どもの成長見ていた方がいい」
というものである。
私は思わず「そうかもねぇ」と呟いた。

交わらない階層

やり甲斐のある仕事というのは、内容だけを指すのではない。労働に見合った報酬が得られて、初めてやり甲斐が生まれる。
よほどその仕事に使命感を感じられれば薄給でも頑張れるかもしれないが、パートはそういう種類の仕事ではないのだ。使命感は「私がやらねばならない」という強い思いから生まれるもので、パートは「私でなくてもできる」もの。
能力やキャリアが重要視されたり専門的領域であったりすれば、子どもを保育園に預けてでも働く意味を見つけられる。そういう仕事を続けたい子持ちの女性にとって、保育園の存在は大きい。でも、そうでない女性の仕事の売値は低いから、仕事に向かうモチベーションはなかなか持てない。
毎日子どもを保育園に送って、スーパーのレジ打ちして働いて、保育園に迎えに行って、帰って家事をやり食事を作り、それで四万円。
たとえ四万円でも稼がねば家計が火の車になるなら、たぶんどんなパートにでも出ることになるが、そこまでせっぱつまってなければ、働きたくなんかない。私がその立場だったら、やはりそう思うだろうなと思った。


それで、共稼ぎ夫はううむ‥‥という感じで、何も言えなくなってしまったのである。
彼の奥さんはどういう仕事をしているのかわからなかったが、たぶん元キャバ妻のような女の存在を、彼はあまり考えたことがなかったのだろう。
「女の人は外に出て磨かれる」と贅沢なことが言えるのは、それなりにやり甲斐のある仕事の場合であって、薄給のパートで酷使されたら「外に出てやつれる」だ。


しかしまた、別の見方もある。
キャバクラ嬢という仕事は一生できない。するとしたら売れっ子キャバ嬢から一流ホステスにでも成り上がって、自分の店を持つくらい。ほとんどの人は、一生できない仕事だが短期間でてっとり早くは稼げるんで、働いているのだ。「今はキャバやってますけど、ゆくゆくは人材派遣会社を立ち上げるつもりです」なんて人は、いるかもしれないけど少ないだろう。そこそこ稼いだら結婚して専業主婦に収まりたいと思っている人が、たぶん多数派。
元キャバ妻も、その多数派の人だと思う。かなり若い段階で、将来は専業になって子育てしたいと思っていた人ではないかと思う。
そういう人は、「女は外に出て磨かれる」とか「一生できる仕事に就きたい」と言っている人とは交わらず、自分と似た人と交わるものである。彼女の家には昼間、同じ元キャバ嬢で子持ちの女性たちが集まって、子育ての情報交換などしている様子が放映されていた。


人生の早い段階で、それぞれの経済的社会的文化的環境によって、生き方や考え方が決まる。それは途中であまり変えられることなく、ずっと同じような環境の人々と交わって、同じような経済的社会的文化的環境で一生を過ごす。そういうあり様を指して、階層化社会と言うらしい。
『ラブちぇん』では「ちょっと背景が違うのかな」というチェンジもないではないが、だいたい似ている。夫が医師や弁護士の人は出てこないし、セレブ妻もキャリア妻も出てこない。夫か妻が元ヤンキーというのはちょくちょくあるが。


階層化社会は、階層間が交わったりチェンジしたりしないから階層化社会なのだが、『ラブちぇん』もそうなのだ。
仮に、あまりにもお金持ちの家を訪問して、「きみは何もしなくていいよ。今日はケータリングサービスを頼んだから」みたいな生活を垣間見てしまったりしたらショックだし。
お金持ち妻は、2DKのアパートの狭い部屋一杯に敷かれた布団を見て、「ここで寝るの?無理」ということになる。
だから、階層はほぼ同じだが少し価値観の違う人と出くわして、驚いたり怒ったり反省したりして、「これからは一口食べて断ってからマヨネーズかけよう」とか「もう少しダンナを気遣ってあげよう」とか思うのである。
なんだかいい話なのか、もの哀しい話なのかわからなくなってくる番組だ。

男子にはなれない

連載のはじめに

女子は、男子にはなれない。当たり前である。では、なぜ「女は男にはなれない」とか、「男子は女子になれない」ではないのか。
それは、女ではなく女の子が、「男子になりたい」と「男子にはなれない」との間で悩むからである。
男子の、女の体を一回体験してみたいというスケベ心や、女子みたいに楽したいという怠け心とは、それは違う。「男子にはなれない」という当然の事実をスルーできず、突き当たり悶々とするのが、女の子の宿命である。


しかし女の子から女になった後はそういう無駄な悩みを持つのをやめ、粛々と女としての人生を甘受すべきであると、皆心得ている。今更「男になりたい、でも私は女だから男にはなれない、くそう、なれたらなあ、でもなれないんだよう」などと悩み続けても、女としての人生が苦しくなる一方である。
そういうことを女の子は女になる過程で賢く察知して、「男にはなれない(のかなあ)」などとは思わず、女として生きて行こうと腹を括るのである。


腹なんか括らずに、とっても自然に女の子から女になったわよ? 
そういう人は、その上げ底ブラを外して胸に手を当ててよく考えてみなさい。

 
女になった時、そんなに「自然」でしたか? 
初潮の血にも狼狽えず、「自然」にセックスして、しかも最初から気持ちよかったですか? 
男の人と一緒に初めてお風呂に入った時、いつものように手ぬぐい頭に乗せて「あ〜極楽極楽」と呟くのを自主規制したり、セックスの後でタバコ吹かすのをぐっと我慢したりしませんでしたか? 
ワイヤー入りのカチカチのブラと鎧のようなガードルを、家に着くや否や親の仇のように脱ぎ捨てていませんか? 
深夜レイプ魔に襲われないようにと男の人が送ってくれるのを、めんどくさいと思ったことはないですか? 
更に、その人が途中でレイプ魔になったらどうしようと冷や冷やしたことはありませんか? 

 
やれやれ私は女の子だったんだ(しょうがねえな)‥‥と、その時諦観と共に悟ったはずである。


だから女の子は女になった後、「私は男子ではなかった、男子にはなれなかった」ということを、自分の引き出しの奥深くにしまい込む。そして「男なんかじゃなくてよかった」とすら思うようになる。
女の特権を心ゆくまで行使しなければ元がとれないと、デート代を毎回男に持たせるようになったりもする。あるいは、「女の感性」で勝負できる分野を縄張りとする。逆に「女」が通用しない場にあえて打って出る。あるいは、「男も女も一緒でしょ」と性を忘れたふりをして振る舞ってみる。
これらのことを、全部一緒にやったりもする。
いろいろとじたばたするのである。


そうでもしないと、「男子にはなれない」と悟った惨めさ、あの時の諦観をどこかにこっそりしまい込んだという事実と折り合いがつけられない。
こういうことは男の子、および男には起こらないことだろう。男の引き出しは開けっ放しだから。


引き出しにしまい込んで忘れていたものが、突然発見された時、それはそれはこわいだろう。
そのこわさを知っているのは、元女の子である。

ホストという生き方

プロジェクトXVシネマ

去年は『黒革の手帖』がドラマ化されて話題になり、お笑い芸人ヒロシも好調なので、今年はホストを主人公にしたテレビドラマがスタートするのではないだろうか。
などと思っていたら、テレビ東京系で『Deep Love〜ホスト〜』というドラマが始まっていた(地方局では来週から)。原作の『Deep Love』は、4、5年前にケータイ小説として女子高生を中心に大ヒットし、書籍化、映画化、コミック化までされたもの。
見ても読んでもないが、その第一章の『アユの物語』は既にテレビでドラマ化されたそうなので、今度は第二章の話らしい。


最近、ワイドショーやドキュメント風の番組でも、ホストクラブで働く青年を取り上げているのが目につく。月給10万の新米ホストから年収1億のNo.1ホストまで、その日常生活や仕事ぶりや月々の売り上げや上下関係や生い立ちや。
ホストクラブには行ったことがなくこの先行く予定のない私でも、いっぱしのホスト通になれそうなくらい、紹介が細かい。
それはいいのだが、その取り上げ方というか語り方がなんかすごい感じになっている。
「ジュンはその日出勤しなかった。いったい何があったのか」
「それはタツヤのプライドが許さなかった」
「やるしかない。ついにトシキは腹を決めた」
「自分の読みの甘さを思い知らされたリョウ。しかし他のホストのためにもここで諦めるわけにはいかない」
(適当ですがこんな感じ)。
ホストクラブで働いている青年の、「こんなふうに語ってもらいたい」といった気持ち(推測)が、そのナレーションに濃厚に反映されているような気もする。
「伝説のホスト」という言葉も好まれる。あと「夢」「意地」「ビジネス」も。 ホスト版プロジェクトXか。


No.1ホストとなると、もうひとかどの人物みたいな紹介の仕方である。当人もそれを心得てる感じで、インタビューにも自然にタメ口が混じるのである。一晩に一人で何十万も稼ぎ出せれば、そこらの若者でもこんなに構えに余裕が出て来るのかと感心するばかり。
「一万人のホストがシノギを削る新宿歌舞伎町」「ナンバーワンの座を巡って生き馬の目を抜く非情なホストの世界」といった派手な文句が、こうした番組に冠されている。夜の歌舞伎町をブランドスーツの肩を揺らして歩くNo.1ホストを仰いで撮ったシーンが、大抵挿入されている。
こういうのはどこかで見たことがあると思ったら、Vシネマだった。


VシネマプロジェクトXに共通しているモチーフは、「男の生きざま」である。「非情な男の世界」では必ず「生きざま」が描かれなければならないのである。ホストも然り。
ヤクザみたいな威圧感もプロXの理系男の頭脳的蓄積もホストにはないが、そこは愛嬌と若さでカバー。安くても硬軟両面を押さえているのが、ホスト・ドキュメンタリ番組の醍醐味。
もしかすると、ホストを描いたドラマスタートに鑑み、撒き餌として、同じテレビ局で何ヶ月も前からホスト関連の番組を時々組んでいたのだろうか。さすがにテレビ局まではチェックしていなかったが、それはあるかもしれない。
いずれにしても、ホストという世間に誤解されがちな(?)職業をこんなふうに認識させたいという、何かよくわからないが闇雲な意図をそこに感じる。


最近は、人気ホストの写真集まで出ているそうである。
先日ワイドショーで紹介されていたところによると、スーツ姿でキメたショットだけでなく、お母さんと肩組んで写っていたり、子供をお風呂に入れていたりといったカジュアルな素顔が紹介されている。
お袋、ガキと言えば、ヤンキーの泣きどころ(ヤンキーかホストは)。女から高い金を吸い取るあこぎな商売という先入観も、これで払拭される。 ホストに「普通の男」の顔も見たい女の琴線に触れること必至である。

芸としての詐術

ホストの番組では当然お店の営業風景があり、お客の女性が写されているのであるが、顔はボカされていることが多い。
しかし先日の番組では、No.1ホストと同伴で来店したうら若い女性がしっかり写っていた。かなりの美人である。そしてVIPルームでドンペリ1本を抜き、1本をキープして帰っていった。締めて28万とか。
どうもこれは番組向けにホストクラブが仕込んだんじゃないのか、という気がしてしょうがないが、ほんとだとしてもどこかのホステスかキャバクラ嬢で、パパがついている人であろう。こういう番組でインタビューに応えていたり、顔出している女性は、お水関係の人だと思う。


別の番組では、普通の若いOLで一ヶ月に一回、いつも一人で来るという人も紹介されていた(顔は出てない)。
彼女は月給が入ると、人気ホスト、トシキ(仮名)に会いにやって来るのである。かといって、1本10万もするドンペリを抜けるわけでもなく、お目当ての彼を一人占めしておくことも、帰りがけに「タクシー呼んで」と言うこともできない。
駅まで徒歩で帰る彼女を、トシキ(仮名)は毎回店の外まで送っていく。
「大丈夫?気をつけて帰りなよ。また来月待ってるからね」
殺し文句である。
「気をつけてね。またいらしてね〜。待ってるわ」という、ホステスなら誰もが言っているようなことを同じように言っているだけだが、営業トークに過ぎないことが、ホストにハマったOLにはまた一ヶ月地道に働くモチベーションになるのである。
そんなものに少ない給料浪費するなよと言っても、きっとトシキ(仮名)は彼女の王子様なんだろうから仕方ない。


お姫様として扱われて、できれば王子様(ホスト)にクドかれてみたいのが、ホストクラブの女性客の心理であろう。お金で買う王子様であるが、そういうことは一瞬だけ忘れるのである。
忘れさせて夢を見せてあげるのが敏腕ホストの手練手管。純愛ドラマなど現実には起こりそうもない環境で、ふと金銭を越えた愛を夢見させてしまうような高尚な詐術を、ホストの人々は日夜芸として磨いている。
‥‥行ったこともない人がテレビの情報だけで勝手なことを書いているが。


ホスト、ドラマで検索してたら、『桜蘭高校ホスト部』というのがやたらとひっかかってきた。マンガ雑誌月刊LaLaの連載で、CDドラマ化までされているらしい。
もうシンクロ男子部なんて牧歌的なものではなく、明日の金儲けのためのホスト部なのである。これだけホストホストと言われれば、普通に就職する気もないがフリーターやニートは嫌だというイケメン高校生は、そっちに流れていきたくなるだろうと思う。
高級水商売の場はもともと、おじさん達の接待の場であった。
昔の映画などを見ると、クラブやキャバレーやバーのお客は身なり卑しからぬ中年男性ばかり。キャバクラが広まったお陰でそういう大人の世界も崩壊し、ホストクラブの隆盛で高校生までがホスト稼業を目指す時代となった。


しかしホストが主人公の『黒革の手帖』は、成り立ちそうにない。
大金持っている海千山千のオヤジ達vsオヤジ達を転がしてノシ上がる女という古典的な構図が、万人に説得力をもってこそのドラマである。
大金持ってる海千山千のオバサン達vsオバサン達を転がしてノシ上がる若者なんて、全然リアリティがない。 そもそもホストクラブで女が女を接待するなんてことも、一般化していない。
男社会で男の言うこと聞いてチマチマやってられるかという野心家の女が、特殊な環境の中、普通では太刀打ちできないような男達と頭脳戦で対決したので、見栄えがしたのだ。
それがあらゆるところにある男と女の権力関係になぞらえることが可能だったから、注目されたのだ。
その点、男のホストは「不利」である。


女の場合、水商売がなくなったらやれる仕事がもうない、行き場がないという人が多いだろう。そこから転落したら、後は体を売るだけというイメージは強固だ。
しかし、テレビのホストを見ていると、ダメだったら土方でも沖仲仕でもやればいいじゃん若いんだし、という気になってくる。ドラマのホステスにあるような崖っぷち感が、今いち感じられない。
そのへんの物足りなさを、「非情な世界の男の生きざま」の演出でカバーしているのかな。