実話を元にした『幸せのちから』を様々なフィクションと比べてみた

プライベートがバタバタしておりまして、こちらの告知がだいぶん遅れました。
「シネマの男 父なき時代のファーザーシップ」第17回は、ウィル・スミス父子が共演して話題だった『幸せのちから』を取り上げています。

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経済的に行き詰まり妻と別れ、幼い息子を抱えてホームレスにまで追い込まれたセールスマンの男が、一転して株の仲買人として成功するまでを描いた、80年代初頭の実話を元にした作品。

幸せのちから』というタイトルは当初、邦題は何でも「幸せの」と安易につけて‥‥と思っていたら、原題も『The Pursuit of Happyness』。Happynessの綴りが間違っているのはわざとで、理由はドラマを見るとわかります。

テキストでは、これまでに取り上げた『自転車泥棒』、『クレイマー、クレイマー』、『チャンプ』など、有名な映画に登場した印象深い父親像と比較しています。

 

イラストで、ウィル・スミス演じるクリスの横に書いたのが、彼の商売道具である骨密度測定機。医療機関にセールスに行くのだけど、なかなか売れません。この当時、骨密度への注目はまだそんなに広がっていなかったんでしょうね。

完全に余談ですが実は、最初に「プライベートがバタバタして」と書いたのは、老母が転んで背骨を圧迫骨折したという事情があったからです。調べたら骨密度がとても低くなっていました。
骨密度測定機が重要なアイテムとして登場する映画について書いた後で、身内にそんなことが起こるとは‥‥!でした。


次回6月は、アンソニー・ホプキンス主演の『ファーザー』(2021)を取り上げます。これまた、年老いた親を持つ者には痛切に沁みる作品です。

障害者の息子と父の出会い直しを描く『靴ひも』

「シネマの男 父なき時代のファーザーシップ」第16回は、2018年のイスラエル映画『靴ひも』を取り上げています。

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イスラエルアカデミー賞(Ophir賞)に8部門ノミネートされ、助演男優賞を受賞。さまざまな映画祭で観客賞も獲得している佳作。

題材自体は結構重いのですが、息子ガディ(ネボ・キムヒ)と周囲の人々とのデコボコしながらも微笑ましいコミュニケーションが、ところどころで笑いを誘います。

 

何と言っても、不器用な父親ルーベンを演じたドヴ・グリックマンが、すごくいいです。そこらにいそうでいない激シブおやじ。イラストを描くのがとても楽しかったですね。ちょっと荒井注が入ってしまいましたけど。ご本人のカッコいい写真も途中に入ってます。

 

以下、本文から抜粋。

ルーベンの間違いは、罪悪感からどこまでも自分を加害者にし、息子を被害者の位相に留め置いていることだ。父が常に「与え守る立場」、子が常に「与えられ守られる立場」とは限らない。しかしルーベンは、罪の意識からそれが逆転する可能性を考えることが、なかなかできなかった。

 

ほのぼの系かと思いきや、単に親子のハッピーエンドで締めない結末が秀逸です。父と子の関係というものについて、改めて考えさせられます。

 

さて次回は、ウィル・スミスが息子と共に出演した『幸せのちから』(ガブリエル・ムッチーノ監督、2006)を取り上げます。ForbesJapanで5月20日(土)18:00の公開です。

 

『全共闘以後』の余白に小さい字で書き込む、私の「活動」

1.『改訂版 全共闘以後』(外山恒一イースト・プレス、2018)

1950年代から60年代末にかけて盛り上がった学生運動は、72年のあさま山荘事件以降衰退し、若者は政治への関心を失った‥‥というこれまでの見方を否定し、主に80年代以降のメインストリームではない若者たちによる社会運動を、多くの関係者への丹念な聞き取りと自身の体験を元に”通史”として描き出した、本文だけで600ページ近い労作。
序章では全共闘の「前史」と本書に通底する筆者の問題意識が示され、第一章から第五章までは、80年代から90年代の左派から右派までの有名、無名の人々のさまざまな動きや現象を、内在的な批判を交えつつ活写している。第六章と終章はゼロ年代以降の話となっており、80年代生まれの活動家たちへの若干の距離感が見られる。

縮めて言えば、50年代半ばに革命への意志を失ったそれまでの左翼を否定して登場した新左翼運動と、その象徴であった全共闘ノンセクトラジカルの核心的な部分=”68年”の思想が、以降の若者たちの政治・思想・文化闘争の場にどのように継承されてきたか、同時に、かつてのその最良の部分が80年代以降どのように変質したかを、明らかにしようとする書である。
こうした中で最も批判の対象となっているのは、80年代初頭に登場する「新人類世代」の政治の忌避とサブカルへの耽溺、90年代以降の元新左翼系文化人の旧左翼・リベラル返りといった現象だ。
語り口は平易で読みやすく、絡み合った個々の活動と、統合したり離反したりする複雑な交流圏(当然登場人物も多い)の出来事を手際良く捌きながら、時にユーモアも交えて解説されている。「名前を聞いたことのあるあの人は、なるほどそうだったのか」と、”界隈”にあまり詳しくない私はパズルのピースが埋まっていく感覚を味わった。

ちなみに、外山氏がさまざまなところでポリコレ及びフェミニズムを攻撃するのは、70年華青闘告発以降の左翼運動が、結果的に今日の過剰なポリコレと神経症的なフェミニズムを創出させたという政治認識に基づくものだろう。
それと同時に、90年代末に外山氏の起こした「彼女を痴話喧嘩の末に殴ってしまった」という個人的な件が、必要以上に膨らまされて結果的に2年もの獄中生活を送ることになる、その相手側の論拠がまさしくポリコレとフェミニズムを利用したものであり、しかも外山氏にとっての”不倶戴天の敵”がこれを機に介入してきて、それまでに氏が福岡で築いてきた交流圏が水疱に帰すという痛恨の出来事(本書に詳述)があったことも、大きく影響しているのではないかと思う。
政治信条の相違や対立が先なのか、人間関係の難しさが先なのかという鶏と卵のようなシーンは他でも描かれており、運動を介した交流圏というものについてまわりがちな厄介な問題があると感じた。

私は1959年生まれで外山氏より一回り近く上の、本書では批判的に言及されている「新人類世代」である。新左翼系の運動には高校時代にちょっと掠っただけで、以降は直接的な関与をしていない。穏健な左派市民運動にさえ、署名などが回ってくればすることはあるものの一定の距離をとってきた。
社会運動、政治活動らしいことをしていないのに、この文章のタイトルになぜ ”私の「活動」”という言葉が入っているのかと言えば、美術に傾倒していた1977年(18歳)から2002年(43歳)までの25年間、私にとって政治や思想とは「美術・芸術における政治や思想」であり、活動とは「美術・芸術における政治や思想にどう向き合うか?をめぐる活動」だった(作品で社会・政治的テーマを扱ってきたという意味ではない)からにほかならない。

もう一つは、美術、芸術に沈潜しつつも、かつて旧左翼に覚えた反発と全共闘世代への相反する感情、イラク戦争以降盛り上がっていった文化人による反戦運動への「コレじゃない」感、しかし右にはいけないだろうなという迷いなど、長らく自分の中に政治的位相をめぐるモヤモヤがわだかまってきた‥‥という事情がある。これについてはこの数年、ささやかな「活動」らしきもの*1に関わりながら、まだ考え中である。

そんな自分の70年代からの半世紀が、本書を読み進んでいく中で、別の角度からくっきりと照らされるように感じられたのは個人的な収穫だった。ただ、その光はあるところには強烈に痛いほど当たっているが、別のあるところにはほとんど当たっていないとも感じた。

 


2. 私の「活動」

さて、あまりまとまりがつかないと思うが、『改訂版 全共闘以後』(以降、『全共闘以後』と記す)の"余白"に書き込むつもりで、本書の記述を時々引用しつつ、「シラケ」で「サブカル」で「新人類」な世代の一人としての「活動」を振り返ってみる。※()内のページ数はその名の初出のページを指す。個人名の「氏」は省略。

 

■70年代(ほぼ10代)
「政治運動」という言葉で思い出される最初の記憶は、72年、家族で見ていたあさま山荘事件のテレビ中継である。
戦前生まれの父は戦後の一時期共産党に入党していたこともあるゴリゴリの旧左翼で、新左翼とは思想的には相容れなかったはずだ(全共闘世代の私の叔父と大喧嘩している)が、”エリートコース”を捨てて”反米反帝”闘争に邁進する彼らの活動には妙なシンパシーを抱く部分もあったようで、私の家ではなんと、機動隊よりも立てこもった”過激派”学生の方を応援していたのである。
そんな左翼家庭で育った私が、70年代後半、高校時代に新左翼系の運動に掠る話はこちらで書いている。

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ちなみに、ここに登場する叔父は革マル派で、一時期身を隠していたが、その後は運動から離れ出世コースからも当然脱落した。私とは今でも仲がいい。
高二の時に私が参加したデモの肝心の名称や日付はすっかり忘れた(全国統一行動だったことは確か)が、イシューとしては狭山差別裁判の石川一夫被告の無実を訴えるものと、在日朝鮮人指紋押捺強制をめぐる件があったと記憶する。
私をオルグした上級生のT君の所属する「高校生叛乱共闘」(追記:これは私の記憶違いで「高校生叛(反)戦共闘」だったようだ)という組織、略して「高叛共闘」は、中核派の下部組織だったらしい。そのステッカーが高校のクラブハウスにもベタベタ貼ってあった。当該団体は現在ネットで検索しても出てこず、『全共闘以後』にも登場しないので、愛知県の一部の高校だけだったのだろう。
T君は私を三里塚闘争に参加させたかったようだが、狭山裁判といい在日の問題といい被差別当事者の運動に自分が乗っかっていくことにリアリティを見出せなかったのと、親から勘当されることが目に見えていたので、三里塚には行かなかった。
その後、自分の中に中途半端に育った新左翼的心情(信条には届いていなかった)を持て余したまま、東京での大学浪人生活に入った。付き合い始めた埼玉出身の男子に手紙(メールはまだない)で「狭山事件って知ってますか」と書いたら、何を勘違いしたのか「秩父事件は~」と返ってきて、ややがっかりしたことを覚えている。

 

ここで、「序章 “68年”という前史」において示されている、本書のもっとも重要な観点と思われる箇所を、少し長くなるが引用する。

 欧米のポストモダン論は、”68年”を肯定的に総括し、それを継承する”68年以後”の運動展開の模索の努力と密接に結びついているが、日本のそれは違う。内ゲバの全盛期がまだ続いている70年代末に大学に入学した世代のうちの先鋭的な部分、つまり内ゲバさえなければラジカルな政治運動に新たに身を投じていた可能性が極めて高い層が、しかし内ゲバのために簡単には政治的な運動へと身を投じることができず、その外側から時代状況をあれこれと分析するためのツールとして、輸入思想としてのポストモダン論を受け入れた。その際、欧米のポストモダン思想に含まれる政治的文脈は当然のごとく隠蔽され、むしろ学生運動などの”政治的なもの”を忌避するための高級な言い訳のレトリックとしてそれは活用された。欧米では”68年以前”の古い左翼運動を否定し、”68年”に始まる新しい左翼運動を正当化し理論化したものであるポストモダン思想が、日本では”68年”のそれをも含めた新旧の左翼運動それ自体を”古くさいもの”として切り捨てることを正当化する言説として、”換骨奪胎”されたのである。(p.11)

78年、私はまだポストモダンのポの字も知らない大学一年生だった。東京藝大では何か活動してる人もいるんだろうなと思ったが、「内ゲバの全盛期がまだ続いている70年代末に大学に入学した」にも関わらず、そこにはセクトの張り紙も立て看もない実に平和でノンポリな風景が広がっており、自治会の立て看は「絵画棟のエレベーターを5時で止めるな」といった学内設備に関する訴えとか、新歓祭や芸術祭などに関するものだけだった。
当時の藝大において、「内ゲバのために簡単には政治的な運動へと身を投じることができ」なかったのではなく、そもそも何もなかったのである。さすがに、高校時代に新左翼系の活動に少し関わっていたという人は、自治会にいた。しかしキャンパスに”68年”の何らかの痕跡を見つけることはできなかった。


■80年代(ほぼ20代)
当時、あちこちの大学で統一教会への勧誘を行なっていたという原理研の学生にも、偶々かもしれないが、藝大構内では遭遇しなかった。
ただ生協には民青の学生(音楽学部)が一人いて、彼女に誘われてうっかり一回だけ消費税反対のデモに行ったことがある。その時、もうこの手のデモには決して参加すまいと思った。消費税なんて誰でも反対に決まっている。こういう微温的な活動がしたいんじゃない。新聞会で藝大新聞の編集をしていた私は、持って行き場のないモヤモヤを雑文にぶつけていた。

上のテキストでは、当時荒れ狂っていた中学・高校の校内暴力についてかなり内向的な筆致で書いているが、校内暴力が若者たちによる”反管理教育運動”に繋がっていく経緯は、「第二章 85年の断絶」で詳述されている。
ここに登場する愛知県東海高校藤井誠二(p.96)は、河合塾美術研究所の教え子で今は彫刻家である藤井健仁の、お兄さんである。また、私の父は公立高校退職後に6年ほど東海高校に勤務しているので藤井誠二とニアミスだった可能性もあり、妙な符合を覚えた。
妙な符合と言えば、”反管理教育”に関しての記述で言及されている『ぼくらの七日間戦争』の著者、宗田理(p.168)のご子息も河合塾で教えたことがあった。

 

第一章の「3. 80年前後のノンセクト学生運動」で、”環境管理型”の新設大学、筑波大学についての記述がある。

それでも80年代半ばまでは、繰り返すように学生運動がそれほど特異な存在ではないような大学状況は全国的に続いているから、筑波大にもその管理体制の打破を目指す学生の動きは現れる。(中略)
 実際、この翌79年には学生たちによって”自主学園祭”が実力開催され、翌80年の自主学園祭は筑波大に初めて機動隊が導入され阻止されている。
(p.54~55)

学生を管理するための3S(スタディ、スポーツ、セックス)という言葉を、当時の私も聞いていた。藝大新聞会にも送られてきた筑波大自主学園祭実行委の告発レポート(のようなものだったと記憶)で機動隊導入事件を知った私は、さっそく藝大新聞で取り上げ、筑波の実行委宛に”連帯の挨拶”文を送った(その号が手元にないので詳細は紹介できない。とにかく資料はどんなものでもきちんと保管しておくべきである)。

 

ある時、自治会室のロッカーの中に、多摩美術大学の学友会が79年に発行した『試行』という小冊子を見つけた。それは多摩美闘争の記録を、10年近く経ってから学友会でまとめたものだった。ここで私は、全共闘美大版である「美共闘」というものが存在していたことをやっと知る。
こちらのスレッドで小冊子の一部を紹介している。

”在野”の多摩美全共闘が、”官学”の東京藝大にデモをかけたこともあったらしいと人伝に聞いた。日大闘争があったせいで日大芸術学部も激しかったらしい。藝大ではどうだったのかという資料は見つからなかったが、当時多摩美の学生で美共闘のイデオローグだった彦坂尚嘉の著書『反覆』(1974)を後で読み、徐々に当時の詳細を知るようになる。
美共闘の闘争には、現実の改革的な側面と芸術上の側面があり、「制度としての美術」が射程に収められていた。80年代当時唯一「美共闘」に言及していた千葉成夫の『現代美術逸脱史』(1986)にも述べられている通り、「制度としての美術」とは美術館制度や学校制度、美術市場やジャーナリズムだけでなく、美術表現そのものが「見ることの制度」を形作っているという認識から来る言葉である。

表現や「見ること」の中に既に「制度」がある、現実のどんな政治や社会制度より深いところで私たちを捕捉しているそれを、作品において解体しなければならない(美共闘世代とは違うやり方で)、それが真に自由になることだ‥‥という観点は、以降の私の制作の重要な指標となった。
在学中の80年代冒頭、美術は世界的に大きな変化の最中で、その先端的なきざしは藝大の中にもあった。急速に、自分のいる美術という場所の政治性を意識しながら、私は近代的な彫刻制作を手放し現代美術の制作に向かっていった。現代美術とは社会の”異物”なのだと素朴に信じていた(このあたりのことは自著『アーティスト症候群』(2008)と『アート・ヒステリー』(2012)で書いている)。

 

初めての「輸入思想としてのポストモダン論」は、たぶん当時の多くの若者と同じく浅田彰の『構造と力』(1983)だが、私はそれを頭の中で強引に美術の世界の言葉に翻訳して読んでいた。『構造と力』も『逃走論』も、私にとっては「外側から時代状況をあれこれと分析するためのツール」以前に、「見ることの制度」においてどうやって遊戯的に革命をなすかという、自分の一大テーマに深く関わるテキストだった。
最初に出会った「ポストモダン論」についてそういうナマイキな読みをしたのは、83年に東京・神田のギャラリー・パレルゴンが出した小冊子『現代美術の最前線』に収められた少し上の作家たちの言葉群と、パレルゴンで企画をしていた藤井雅美のテキストの影響が大きい。

ただ、美術というフィールドで闘うのだと決めたはいいが、西洋哲学も思想もつまみ食い程度の知識しかなかった私には、「”68年”に始まる新しい左翼運動を正当化し理論化したものであるポストモダン思想」に「含まれる政治的文脈」は、まだはっきりとは見えていなかった。
ニューアカ周辺の”スキゾフレニック”な言葉に魅入られているという側面は、私にも多分にあったと思う。それでも、「ポストモダン」という語の喚起するイメージに、20代前半の自分が無闇に勇気づけられていたのは事実である。自分の直観に従って、やりたいことは何でもやってしまえばいいのだと思った(その勢いで、1983年の最初の個展でギャラリーの壁を壊した。修復したけど)。

 

学部を出て名古屋に戻り、制作活動をしながら河合塾美術研究所の講師をするという生活に入った。周囲に美術の制度性について関心のありそうな人は見当たらず、地元の芸大に行った高校時代の同級生とも疎遠だった。全体に、アーティストは政治に強い関心なんか持たなくていい、むしろない方がいいといった雰囲気すらあった。
わりとショックだったのは、80年代後半だが、一人の受験生が誰から聞いたか「大野先生、昔はアカだったんだって?」と言ったことである。「左翼」ならわかる。しかし戦時中ではなくバブル真っ只中に「アカ」とは。彼の家では左翼がかった人間を「アカ」と呼んでいたのかもしれないが、左翼であることがどこか小っ恥ずかしいようなムードが世の中の表面に漂っていた、ということかもしれない。

そんな中でも美術を通して徐々に人間関係ができ始め、ある場所の企画・運営に関わった。当時のことを振り返ったテキストは、こちら。

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自分から見た80年代の名古屋の”アートシーン”については、こちらのサイトにテキストを寄せている。

g-surge.com

 

14歳で美術を志す前、私は音楽志望(クラシックピアノ)だったが、80年前後にテクノ、パンク、ニューウェイブが一気に来たことでそこにどっぷり浸かった。
その流れで83年頃、名古屋で「毒まんこ」というインディーズバンドを組み、美術活動と並行して音楽活動を2年ほどした。バンドブームの走りの頃である。

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「第三章 ドブネズミたちの反乱」でページ数の割かれている「たま」(p.159)とも、彼らのメジャーデビュー前に知り合っている。名古屋のライブハウスで「らんちう」や「さよなら人類」にバカウケし、彼らの東京でのステージに出演させてもらった。その時の模様は『「たま」という船に乗っていた さよなら人類編』(原作:石川浩司、漫画:原田高夕己)で描かれている。
ごく一部の界隈で”伝説”(笑)となった「毒まんこ」は今思えば、フェミニズム第三波のやや早めの活動でもあった。当時リブやフェミニズム関係の本を少しは読んでいたが、私はもっと遠くに行きたかった。
バンド解散後、しばらく音と映像を使ったパフォーマンスをしており、原爆オナニーズや割礼ペニスケースなどのパンクバンドを輩出したライブハウス「ハックフィン」や「オープンハウス」などに出演した。

追記:名古屋のパフォーマンスアートを振り返っている小冊子で言及されていた。

 

80年代の文化状況と自分との関係については、こちらに書いている。

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■90年代(ほぼ30代)
河合塾名古屋校はゴールデンセブン(団塊ジュニア世代が入ってきて受験生が増え続け濡れ手に粟の7年間)と言われた80年代末から90年代にかけて、主に元名大全共闘で現代国語の講師だった牧野剛(p.73)、小林敏明をはじめとした全共闘世代の講師の人脈で、蓮實重彦鈴木邦夫など著名人を講演、講師に呼んでいた。
86年に結婚した相手は同い年の河合塾の大学受験科講師で、もとは完全にノンポリだったのが、予備校生時代に牧野剛の薫陶を受けて左傾した人だった。茅島洋一(p.74)や菅孝之(p.60)なども夫を通じて知った。牧野剛の『予備校に会う』も読み、本人には何度もお会いしているが、その政治思想は新左翼というよりリベラルに近く思えた。
夫は、長良川河口堰反対運動から愛知万博反対運動までさまざまな運動に関わっていたが、なぜかピースボート辻元清美(p.72)のことを名古屋人だと誤解しており、「名古屋出身なのになんで関西弁なんだ」という理由であまり好意的ではなかった。
牧野剛に関して言えば、全共闘世代の良い面も悪い面も持ち合わせた人物という印象が強く、晩年の彼には夫も私もやや批判的な目を向けるようになっていたが、夫は今でも毎年の墓参りだけは欠かさない。夫が全共闘世代から思想的にどこまで深い影響を受けていたのかは不明である。
私は一度、「牧野、牧野って言うけど、何を残したの。結局は焼け野原じゃないか?」と夫に嫌味を言ったことがあった。夫には「おまえは現代美術で一体何を変えたんだ」と言い返された。作家を廃業する前の話である。

 

そんなこともあって、個別の政治・社会問題に関心がないわけではなかったが、現実の運動というものに対しては、どちらかというと冷ややかな態度を取っていた。「第三章 ドブネズミたちの反乱」で詳細に論じられている、主に東京を舞台にした”89年革命”の様子も知らないままだった。
91年の「文学者の反戦声明」(p.283)に連なった名前を見て、結局そこに落ち着くのかとなんとなく失望した覚えがある。反核反戦、反原発。それらが目指すところは安心と安全であり、表立って反対する人はいない。
もちろん自分も反核反戦、反原発を支持はする。市民としては支持するしかない。そういう当たり前のことを、最高の知性を持った影響力のある人々が雁首揃えて言っている状況が、うんざりだった。そういう人にはもっと別の、凡人が思いつかないような視点からものを述べてほしかった。

反核反戦、反原発を支持する一市民の自分は、凡人である。しかし一方で現代美術などというものに関わっている以上、安心、安全を訴える列に安易に加わってはいけないという気持ちもある。現代美術を高みに置いているからではない。それは社会の”異物”であり、一見どんな無害な外観を取っていようと、一皮めくればこの足元を掘り崩し、破壊的かつ享楽的な地平を開くもののはずだった。
この社会をこれ以上酷くしたくない前者と、一度何もかも底を打ってしまえという後者の分裂は、美術作家をやめた今でも私の中にある。

 

ギャラリーを中心に発表活動を始めた80年代半ばから90年代後半までは、まだまだ遠くに行けるんだという感覚があった。90年代の名古屋では若いアーティストたちを中心としたインディペンデントな動きが活発で、名古屋芸術大学の非常勤講師だった私もそうした中で仲間と共に美術批評同人誌を出したり、他ジャンルの人と共同制作をしたりといった活動が増えていった。このあたりのことは書き出すとキリがないので端折る。
名古屋は狭いので他ジャンルの人との繋がりが容易であり、93年頃、何かと長いお付き合いになる「絶対演劇」の海上宏美(当時、劇団「オスト・オルガン」演出家)と、あるシンポジウムを契機に知り合う(2019年には彼を通じて、「なごやトリエンナーレ」を企画した元名古屋アナキズム研究会の人々と出会うことになる)。

美術の中でも外でも、この世界は閉じていてどこへも行けないのだ‥‥という閉塞的な感触が自分の中で強まってくるのは、だいたい90年代末からだ。
ゼロ年代に入って少しした段階で、この美術というジャンルに革命が起こることはないのだと、はっきり悟った。自分のやれることはここではもうないと見切りをつけ、2003年春に私は美術家を廃業した(このあたりも『アーティスト症候群』で書いている)。

以下は、美術家廃業についての短いテキスト。

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※自分の作品画像はネット上に出していない(所属ギャラリーのサイトからも消去してもらっている)のだが、検索したら少し出てきた。
・84年のグループ展の作品

g-surge.com

・他の作家の制作に参加した時に提出したプロフィール、及び90年代末頃の作品

www.kawarasaki.org


■00年代以降(40代~)
私と前後して演出家を廃業していた海上宏美、当時名古屋芸大の英語教員だった清田友則と三人で「廃業調査会」と称してシンポジウムなどを行い、その流れで内輪の読書会に参加するようになる。清田のナビゲーションで現代思想に大きな影響を及ぼしているフロイト-ラカンを学びジジェクを読み、徐々に哲学、政治思想関連の本を読んでいく中で、ようやくこれまで自分の中で曖昧だった点と点が結ばれるようになっていった。フェミニズムジェンダー論を精神分析を通して考え直す作業も始まった。
東京を中心に、若い人が参加している新しいタイプの社会運動が盛り上がってきているのは、ネットを通じて知っていた。ロフトプラスワン、だめ連、サウンドデモフリーター労組‥‥。
それなりに関心はあったが世代も離れており、”現場の熱いノリ”みたいなものには距離を感じるだろうと思った。

こちらで、ある本を読んで覚えた違和感を書いている。今思うと随分辛辣な書き方だし、揚げ足を取りすぎだったんじゃないかという気もしないでもない。ただ、こうした言葉遣いへの異和がある限り、私には「活動」は向いてないのではないかとも思う。

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美術作家廃業以降は、文筆に活動を移した。06年頃から数年、はてなダイアリー(現在はてなブログ)の非モテ論壇に参加し、ブログに多くのテキストを書いた。「性」をめぐる問題意識は、『モテと純愛は両立するか』(2006)、『「女」が邪魔をする』(2009)で若干不十分ながら開示している。20年関わった美術に対する自分なりの総括は、『アーティスト症候群』と『アート・ヒステリー』でしている。

2019年以降に関わることになった、ある「活動」についてのテキストは以下。

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長くなったが最後に、この10年くらいの間に固まってきた自分の基本的な考え方を、簡単に書いておきたい。


1. 現在半ば自明となっている議会制民主主義、グローバル資本主義象徴天皇制、この三つの関係性を視野に入れていない社会批判、制度批判に、深い関心は持てない。
2. 人間存在の根底に暴力があり、「性」はそれに大きく規定されている。このことを隠蔽したり粉飾するような文化や制度は、本質的に欺瞞である。しかし、人間は他者と生きていくためにそういう欺瞞性を必要とするものでもあるという認識は必要。
3. 私は芸術批判はしたが、何かを「つくる」ことは肯定する。それは世界に対して受動態でしかない自分を、能動態に作り替える行為であり、その現れは「もの」でも「こと」でも良い。

 

 

『マイ・インターン』のロバート・デ・ニーロの微苦笑とは

「シネマの男 父なき時代のファーザーシップ」第15回が更新されています。

ロバート・デ・ニーロアン・ハサウェイが共演したコメディドラマ『マイ・インターン』(2015)を取り上げました。

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ヒット作ですが、好きな人と苦手な人に分かれる作品。いつもより若干辛口な批評になってます。
あまり強い引っ掛かりがなく、適度に笑いを混ぜながらスルスル展開して行くテンポの良さを、ウェルメイドと捉えるか安易と捉えるか。

ただ、俳優の演技は脇役に至るまで、ほぼベストパフォーマンスだと思います。


デ・ニーロ演じる定年後のおひとりさまの理想形(主に男性から見て)に焦点を当てています。この役をあのデ・ニーロが‥‥というところが、余裕綽々な感じも含めて面白い。

アン・ハサウェイは、働く現代女性の役ではアパレル業界の仕事で揉まれ鍛えられる女子大生を演じた『プラダを着た悪魔』(2006)が印象に残っていますが、今回は通販ファッション会社の起業が成功したものの前途多難な社長の役。あれから10年近く経ったのだなと感慨深いものがあります。

 

「シネマの男」第14回は「お父さんなんかじゃない」と言われた男の罪と罰を描く『鬼畜』

ForbesJapanで好評連載中の「シネマの男」第14回は、野村芳太郎監督、緒方拳主演の『鬼畜』を取り上げています。我が子殺害(未遂)に至る「父の弱さ」に焦点を当てました。

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松本清張原作シリーズの中でも、高い完成度を誇る本作では、岩下志麻が演じる妻・お梅の薄情を通り越したコワさがよく話題になりますね。

しかし妾の菊代(小川真由美)の、ちょっと得体の知れないところもジワジワ不安を掻き立てます。彼女は宗吉(緒方拳)の子供だと言っていますが、それを保証するものは何もありません。
男にぶら下がってしか生きていけない彼女は、他にも「旦那」がいたかもしれない。その中で、一番人の良さそうな宗吉を掌で転がしていたかもしれないと思わせます。

一方、お梅は宗吉に対して愛はあるものの、一頃のようには商売もうまくいかなくなっていてイライラしがちだったところにもってきて、妾と隠し子の存在を知り、一気に「鬼」と化す。

それぞれ支配型の女の間に挟まれた宗吉という男の凡庸さ、人間としての弱さ、どうしようもなさが、残酷なまでに描き出された傑作です。
ぜひご覧になった上でお読み下さい。

 

 

野村芳太郎松本清張シリーズでは、桃井かおり×岩下志麻の『疑惑』も傑作ですね。映画批評集『あなたたちはあちら、わたしはこちら』で、主に岩下志麻の役柄を論じています。
本書で扱った映画のイラストは、こちらのページから全部閲覧できます。

www.taiyohgroup.jp

 

「シネマの男」第13回は、知的障害者の父親が主人公の『アイ・アム・サム』

「シネマの男 父なき時代のファーザーシップ」第13回は、『アイ・アム・サム』(ジェシー・ネルソン監督、2001)を取り上げています。

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知的障害者の父を演じたショーン・ペンがとにかく秀逸です。どこかジェンダーレスな感じの父親像は、この当時わりと新しかったのではないでしょうか。
彼の娘役のダコタ・ファニングはずるいほどの愛らしさだし、凄腕弁護士を演じたミシェル・ファイファーの派手なキレちらかしに笑ってしまいます。

障害者の描写がやや類型的な嫌いはあり、悪い人は出てこず、ちょっとファンタジーの混じったドラマではありますが、個人の持つ「限界」が多面的な、でも最終的にはポジティブなかたちで描かれている点は好印象。
全編にちりばめられたビートルズナンバーは、いろんなアーティストがカバーしたもので、エンドロールでその名を見つける楽しみもあります。
20年以上前の本作を今回見直して、こんなにほのぼのとした牧歌的な親子ものはもう作れないだろうなとも思いました。

 

さて次回は、『鬼畜』(野村芳太郎監督、1978)を取り上げます。ほのぼの要素なし!岩下志麻が怖い! テキストは、緒方拳が演じたダメな父親をじっくりと見つめる内容になる予定。未見の方は是非配信を検索してご覧ください。

生きるのに意味なんかない目的もないよ冬より早く走ろう

 

飼い犬タロになっているつもりで詠む「犬短歌」、2022年下半期の歌です。
まあまあのも今ひとつのも全部上げました。気に入ってる歌の最後には*マークをつけてます(/サキコとあるのは私名義の歌)。俳句も少々あります。

 

◆七月

夕焼けに薄いグラスをかざしたら彼女のための夏のカクテル *

ニンゲンを語るトークをしますので対談相手募集中です

ワンで飯ワンワン大盛りクンクンでおやつくださいサイゼ方式

おばさんが歳をとったら歩行器という名の機械の犬になろうか

お天気は変おばさんも変だけど どっちもいつものことだったよな

この人は柴犬教の信者です だから勧誘しないでください

傍に行くまで伏せをして待っていたあいつはきっと生涯の友

猫のシャツ着たひとの胸ポケットに小さくなってもぐりこみたい

ふきげんな空ふきげんな俺の腹テッセン二番花白く濡れたり

血の色の向日葵の血の味の蜜啜るキタテハ今宵も暑し 

枯葉は蛾になり道路は暗号に満ちて明日はどっちだあっちか

電線の楽譜に音符はないけれど虚空に満ちる世界の音よ  *

夏を微分する蝉の声 白墨の線を描いて早朝の便/サキコ

日暮れ時なにかを思い出したかに一声鳴きて蝉絶命す *

何回も会ってそろそろ友だちになれそでなれぬ奴それは猫

真夜中のドラムとシンバルいかしたね稲妻ライトも凝っていたよね

あの人と押し合いへしあいして見てた真夏の夜のカミナリライブ

高原で蝉はホーホケキョと鳴くと彼女が言うのほんとうですか

七月ももう終わりねと空仰ぐひとの靴下夕焼けの色


◆八月

水浴びたこの夏最後のクレマチスいちごシロップ味がするはず

涼求め人はわざわざ山に行き犬は地面を掘ってくつろぐ

腹痛でおやつ食べれずおばさんは可哀想だね代わりに俺が

辛いもの食べてお腹をこわしたのしばらく犬のごはん食べたら

ああ風が来たねと目を閉じ足止めた人と夜更けの夏の香を嗅ぐ

薄荷飴みたいな月を舐めようと夏が長くて熱い舌出す 

空仰ぎ「九月にやる」と呟いて急に足取り軽くなる人

あのチワワ盆に帰ってくる時の牛の背中はさぞ広かろう *

原稿を書くのをやめてツイッター眺める背中見るガラス越し

一回もおはぎ作らぬ人生でいいさ自分が選んだ道さ

クレマチス白い二番花終わる日に黒猫に会う空は灰色

きものほど折り目ただしくない君はこうべを垂れてきものをたたむ * 

たたんだらたんすにぴたりまとったらからだにそうてきものはやさし/サキコ

あの雲はまだ夏の色鉄橋を歩いて死体探しに行こう *

あの人に小さい頃があったのかなかったのかは母のみが知る

ハミングが聞こえ洗濯ものを干す人を迎えに縁側に出る

鉄線の蔓はやさしく傾いてトンボの体重ぶんだけの秋

たたんでる羽の付け根がかゆいから肩甲骨を揉んでください

大昔チョウだった頃止まったよ君が被った通学帽に

門の外いつも会う子の姿見て戻って来るに賭けたい気分

おばさんと暗くなるまで遊ぶのさ暗くなったらひとりで遊ぶ

八月の最後の三日月雲に溶け舌で溶けるはバームクーヘン


◆九月

生きづらくないか犬より大きくて人より小さい足跡の主

自己のみを恃む生きもの柔らかき土に深々跡を残せり *

キジトラは車の下で世界への不服静かに申し立てたり

耳元でネロって誰か知ってる?とフランダースの子犬が言った *

人間も互いの尻を嗅ぎ合ってやっとわかりあえるようになる

お散歩で誰にも会えなかったから誰か通るのここで待ってる

昨晩の雨に打たれた紫の君の名前は柳葉ルイラ

欠落はないが過剰もない俺のどこから愛は生まれるんだろ

いやうまいいやまずくないこのおやついやねほんとはいつものおやつ

俺の顔拭くの忘れたおばさんのせいで出会いが消えた恨むよ

ヒャクニチソウ上からそっと覗いたらヒャクニチソウもこっち見ていた

百日草みたいな人より秋桜のような女が好きね男は/サキコ

台風で「犬をしまえ」と言うけれど俺は自分で自分をしまえる

一匹のコオロギが縁の下にいて嵐の夜中鳴いてくれたよ

広縁に膝つき「タロちゃんよろしく」と頭を下げるおばさんの母

秋空にぱっと血を吐く吾亦紅 *

根を伸ばし伸ばし切ったら引き抜かれ漬けられるんだぞ千の双葉よ

「グランマと呼んで」と言うけどおば母さん 彼女に子どもはいないと思うよ

おば母さん朝も早よから庭掃除 家政婦さんで来たんですか

おば母はだんだん子供帰りして「カズコちゃん」へと生成変化


◆十月

記憶の香記憶を消す香金木犀/サキコ

親と住み子と住み悩み抱えてる人は柴犬と住むがよかろう

あのひとにお菓子をせがむ老いた母 俺のおやつをわけてやろうか

コスモスや雨に打たれてカオスなり *

おば母の背中はまるい猫の背のまるさとちがうやさしいまるさ

「ルンちゃん」と呼ぶ人「シッシッ」と怒る人 機械相手にどっちもどっち

娘から赤入れされた下書きを見つつ葉書の清書する母/サキコ *

揉め事でお困りですか柴犬を間に入れて話しませんか

ビーフ缶味はチキンと違うけど知っているのは違うことだけ *

ごうごうと訓練機舞う空の下 雲まで伸びるをやめた豆の木

掃除機に乗ってきた魔女・おば母はルンバと犬がいまだに苦手

キジトラの額の縞は昼寝中犬を寄せ付けないためにある

高い高いされた子供が沈む陽に片手を伸ばす火傷するなよ *

「おいしゃさん」NGワードで気を引いて笑う愚かな人間どもよ

散歩行く時君は右 俺左 帰りは逆でいいんじゃないか

瓶の蓋一つ開けれずやれ左翼やれ右翼だのと悩むおばさん

外壁に書き殴られた計算式ここで宿題やってたのかな


◆十一月

秋草は茫々俺の毛も茫々

「うちの犬よく食べる」って戌年のおじさんのこと言っているよね

食べるとこ見せたいんじゃない食べているあいだ一緒にいてほしいだけ

青過ぎる空がまぶしいふたりともこの秋すこし歳をとったね

月に棲む犬たちに聞くこの星はそこからどんな色に見えてる?

薄切りの大根俎板の光/サキコ *

枯れ草の中で泳ぐ犬を見たか

朝日に背向けて一輪だけ冬の方を向いてる丘の向日葵

冷蔵庫開いて閉じて母消える/サキコ *

クッションのかたちに沿って寝ても空く隙間はたぶんおやつ置くとこ

あのひとは俺にタロちゃん探してる俺の知らないかわいいタロを

「当ててみよ」そう黒猫は言うけれど何を当てたらいいかわからぬ

赤い菊白い菊咲く日溜まりにいつか穴掘りきみを埋める日

待っていて落ち葉の下は固い土その下のきみ今助け出す

グッモーニン マイおやつイズ ベリチープ ユアおやつイズ ベリベリデリシャス

笛吹いてイノシシ集めシシ神の森へお帰り言うたらええやん

おばさんはズルいよ犬の名で短歌詠んでいいねは独り占めかよ

十本の脚がこちらにやってくる黒柴二頭と黒ジャージの人

秋薔薇に謎かけられて動けない *

喧嘩しに行く勢いでペダル踏むギターケースを背負った彼女 *


◆十二月

バーボンと間違え油舐めようとしたおばさんはきっと化け猫

国語辞典パタンと閉じて「山茶花という字書ける?」と老母微笑む/サキコ

生きるのに意味なんかない目的もないよ冬より早く走ろう *

真夜中に猫や鼬と喧嘩して傷舐め帰る犬になりたい

すばらしい柴百選に入るのは無理だねここで虹を見ている

強制と自由意志との中間で散歩コースは決定される

おやつじゃないお散歩でもヨシヨシでもない何が欲しいかわからず吠える

吠えてるとおばさんが来る来たとたん何が欲しいか忘れてしまう

「花たちは誰に挨拶しているの?」「雨に打たれてうなだれただけ」

この部屋に来ることはもうないかもと背中で閉めたノブの冷たさ/サキコ

規格外にて捨てられし大根のかたち楽しき師走の畑  *

ギャン泣きで叱られてるどこかのタロよ病院嫌いは俺も同じだ

メダカらは氷の下に我々は氷の上に閉じ込もる冬

垂れ耳の幼犬期遠くなりにけり応挙を見つつ耳の裏掻く

降る雪よ俺以外塗れ白く塗れ

おばさんの車の音で少し鳴く着替える音でまた鳴いておやつもらってようやく黙る

砂色のズボンの君と枯れ草に分け入る誰も探しに来ない  *

 

 

2021年上半期の犬短歌

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