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日本の純愛史 13 『101回目のプロポーズ』の欺瞞 -90年代初頭(2)

純愛者が奇跡的にも結婚に辿り着いてしまったのが、『東京ラブストーリー』の半年後に放映された『101回目のプロポーズ』(武田鉄矢、浅野温子、江口洋介、田中律子、石田ゆり子)である。101回目のプロポーズ [DVD]出版社/メーカー: フジテレビジョン発売日…

日本の純愛史 12 『東京ラブストーリー』のウケた理由 -90年代初頭(1)

「トレンド(先端)」という言葉が流行語となった八十年代後半は、一方で、価値観の多様化とか相対化などという言葉も、メディアで飛び交った時代である。 あれもあり、これもあり、それもあり。つまり何でもありだが、コレ!と言える「軸」や価値基準は曖昧…

日本の純愛史 11 『ノルウェイの森』と純愛論争 -80年代(2)

テレビドラマでは九十年代に純愛ものが続々と出てくるがその数年前、小説の「純愛物語」があった。八十七年バブルの絶頂期に出てベストセラーとなった、村上春樹の『ノルウェイの森』である。 帯の文句は「限りのない喪失と再生 今いちばん激しい一〇〇パー…

日本の純愛史 10 反純愛としてのバブル期「トレンディドラマ」-80年代(1)

八十年代のテレビでは、恋愛ドラマが復活する。その最初の話題作は八十三年放映の『金曜日の妻たちへ』(古谷一行、いしだあゆみ、竜雷太、小川知子、泉谷しげる、佐藤友美、石田えり)。 東急田園都市線沿線のニュータウンを舞台に、三つの核家族の交流と夫…

日本の純愛史 9 純愛の挫折 -70年代(2)

七十年代のテレビドラマではホームドラマと学園青春ものが全盛となり、いわゆる純愛ものは映画でもドラマでも次第に廃れていく。 二人だけの世界から、おうちや学校に復帰しよう。純愛ってちょっと重過ぎるし、雪山で心中なんて暗過ぎるし‥‥。まだテレビが一…

「HN:素朴な疑問」の人の「タネあかし。」について

これについて言及すること自体、「釣り」にますます乗ることになるという見方もあろうが、自分のスタンスをはっきりさせるいい機会なので、遅ればせながら書いておこうと思う。 個人的にはこちら(11/20追記:旧ブログのコメント欄は復元できませんでした)…

日本の純愛史 8 純愛の挫折 -70年代(1)

六十年代の終わり頃から悲劇的な要素の強くなった日本の純愛映画は、七十年代の半ばで下火になる。七十年代は現実のドラマとして純愛を描くことが、だんだん難しくなっていった時代である。 その七十年代初頭の純愛映画の女王と言えば、ストレートロングヘア…

日本の純愛史 7 乙女の恋と富島青春小説 -50〜60年代

純愛ものを好んだのは主に女性。これは当時隆盛した少女雑誌に、純愛的恋愛小説が掲載されたことにも窺える。 少年向けの雑誌に、純愛ものが載ることはあり得ない。そこにあるのは探偵小説や冒険小説(あるいはその種のマンガ)だ。 つまり、女の子は恋をし…

日本の純愛史 6 純愛と吉永小百合 -戦後 (2)

昭和三十年代から四十年代にかけては、純愛ものが続々と登場してくる純愛黄金期である。その純愛時代を象徴する花形映画スターが、吉永小百合。 それについて述べる前に、純愛とは趣きの異なる戦後カルチャーの話題物件をざっと見てみよう。 昭和二十二年(…

「恋人」を作ろう、または無血革命への道

昨日の記事のブクマで、kmizusawaさんに指摘を受けたので、少し考えてみた。 「恋愛しないことの喜び」→「一人でいることの喜び」は、恋愛から降りている非モテの人の(求める)感覚なのだろう。私はそこに思い至らず、恋愛という男女関係に替わるものは、友…

恋愛しないことの喜び

「恋愛することの喜び」というものがある。もうあらゆる媒体で嫌というほど描かれてきた。 「恋愛することの苦しみ」というものもある。これも小説や映画では結構描かれてきた。 この二つは既に定型化され、あらゆるバリエーションを生み出している。 さて、…

日本の純愛史 5  国民的ドラマの登場 -戦後 (1)

戦前から戦後にかけての大衆娯楽は、映画と芝居とラジオである。そこで楽しまれるエンターティメントは、戦前なら「お国のために一身を犠牲にすることをいとわない」ナショナリズムが台頭した中での束の間の息抜きであり、戦後は、生活を立て直し明日に希望…

「惚れたが悪い」という言葉

最近やたらと話題になっているこの匿名記事。 親密なふるまいを見せる女性に、これは自分に気があると判断して告白したら空振りで、裏切られたような気になったという話である。 ブクマではこの男性に同情的な意見が多い。概ね、小悪魔に振り回された純朴な…

男たち

PCに向かって中々進まない原稿書きに唸っていた数日前の深夜一時、携帯が鳴った。 「もしもしー、もう寝てた?」 「起きてたよ」 「もうちょっとしたら帰るけどー、なんか買ってってほしいものある?酒とか」 「えっとねぇ、ビールがいいな」 「へーい、じゃ…

日本の純愛史 4 純愛の二極化 -昭和初期

昭和八年(一九三三)、「一身を犠牲にすることをいとわない」極めつけの純愛小説、谷崎潤一郎の『春琴抄』が登場する。江戸末期、盲目のお嬢様の春琴と、彼女に献身的に仕える丁稚の佐助の物語。春琴抄 (新潮文庫)作者: 谷崎潤一郎出版社/メーカー: 新潮社…

日本の純愛史 3 恋愛結婚と純愛 -大正時代

大正期は、貞操を巡る議論が活発になった時代である。 大正三年、雑誌『青鞜』を中心として貞操論争というものが勃発。女がパンのために体を売るのは是か非か?という一人の女性のリアル体験の問いを発端として、『婦人公論』『平凡』など他の雑誌媒体にも飛…

日本の純愛史 2 恋愛至上主義と『野菊の墓』 -明治時代

日本人が初めて「恋愛」という言葉に出会ったのは、明治時代である。 その頃恋といえば、元禄あたりからずっと続いていた男の「色道」を指していた。男の「色道」の相手は"素人"つまり堅気のお嬢さんではなく、"玄人"。芸者、女給、踊りの師匠、女優の卵など…

日本の純愛史 1 少年愛と「情熱恋愛」 -恋愛至上主義の曙

純愛とは「一身を犠牲にすることをいとわない、ひたむきな愛情(世慣れしていない男女について言う)」であると、新明解国語辞典にはある。 「純粋な愛。ひたすらな愛」(広辞苑)。 「邪心のない、ひたむきな愛」(大辞林)。 恋愛のイメージとは異なるが、…

連載のお知らせ 日本の純愛史 -恋愛至上主義再考のために

昨年「非モテ論壇」界隈で散見された恋愛至上主義批判。私も当ブログで少し触れてみたが、どうも抽象論に終始しがちな感じであった。恋愛至上主義(恋愛を人生最高のものとする価値観)なんて今時どこにあるの?という疑問も見られた。 恋愛至上主義はかつて…

正しいことと重要なこと

「抑圧」を巡って メディアにおける男性と女性の扱われ方について、異なる観点からの記事を読んだ。 一つは、イケメンは女性に優しい。(非モテにまつわる抑圧の話)、もう一つはそれにあえて異論を唱える形での女性専用車両に乗れない”恋愛強者”たち(次の…

ハウルの城の革命家

「見られること」を求める恋愛 「革命的非モテ同盟」を標榜する古澤克大氏は、自身のブログで、非モテの脱非モテ(自意識の変革)を個人しか救済しえないとして放棄し、すべての非モテを救うためには「恋愛の否定」しかないと主張している。 曰く、恋愛至上…

夫の電話

「おう、久しぶりだな。最近どうだ。‥‥‥‥おまえ保険やっとんの?‥‥‥‥‥‥‥‥そんな儲かっとんの? ‥‥‥でなに‥‥合コンやる? おう、俺も呼んでくれ。保険のおばさんばっかじゃないんか、けけけ。‥‥‥‥ほんで何だ。‥‥‥‥‥‥‥なに、おまえまだそんなこと言っとんの?‥…

率直な男

「俺、それじゃモテないってよく言われるんだわ」 と、その男は言った。 「で、じゃあどうしたらモテるんかつって後輩の女の子に聞いたんだ。そしたら、そのブッキラボーでオッサン臭い言葉遣いと名古屋弁を直して、もっと女の子の話題に合わせて、服装もそ…

夫は若い女に興味がないと言う。「女は腐る直前がいい」んだそうだ。 「柿でもな、腐る直前が一番うまいんだ。なんでか知ってるか」 「糖分がいっぱい出るからでしょ」 「なんでその時に糖分がいっぱい出るか」 「なんで?」 「腐る直前に思い切り甘い匂いを…

奢りは驕りである

なぜ男は女に奢るのか 男女の奢り奢られ問題について。男どもはいったいどうしたら満足するのかと「女子力」の弱い女とケチな男をどうぞ。 書き手は男性だが、最初の記事では奢られ慣れていない女性の心理を描写してあり、次の記事の後半では恋愛至上主義や…

喧嘩もしないしセックスもしない

私のところはセックスレスの夫婦だ。二人とも40代後半で子どもはいない。 こないだセックスしたのは何年前だろう。一応相手がいるわけだからしたい気分になったらいいなと思うことはたまにある。 でもならない。ならなくて淋しいという気分にも、あまりなら…

仕事と仕事以外

二日ほど前、深夜のテレビで「怒りオヤジ3」を夫が見ていたので、つられて見た。叱られたい素人を募集し、タレントが説教するという番組である。 和室に素人とタレントが向き合って座り、(確か)三本勝負のベタマジなやりとりが繰り広げられ、時間の采配を…

恋愛について語ること

前回は他人(スタンダールさん)の尻馬に乗って当たり前のことを勿体つけて書いて終わりにしたが、私は"恋愛そのもの"を否定してはいない。そんなことはできない。 かといって肯定もしていない。 繰り返し述べているように、恋愛は「いいもの」でも「悪いも…

「非モテ論議」についての個人的且つ暫定的まとめ

問題は一つしかない 「非モテの人の言っていることは概ねモテない「言い訳」と自己の「正当化」であり、自分で解決すべき問題の他への責任転嫁である」。 これが真であるか偽であるか、あるいはどれだけの割合の非モテ(を名乗る人)がそうなのかということ…

「世界のはて」10/25の記事コメント欄を読んで考えたこと

それは「性的視線」というよりも、「異性をモノ扱いする視線」ではないかと思った 異性をモノ扱いしたいという欲望そのものはある。 見知らぬ異性を、外見で無意識のうちにランク付けすることもある。 そんなことはあってはいけないと言って、なくなるもので…